第百七十話 営業課長、R・2と対峙する
「入ってもらおう」
アルトが言った。
扉が開く。
入ってきたのは、一人の男だった。
王家文書保管部署。
記録管理担当。
胸元の職員章には、名前が刻まれている。
「R・2さんですね」
アルトが確認する。
男は小さく頭を下げた。
「はい」
「座ってください」
R・2は椅子に座った。
表情は落ち着いている。
だが。
アルトは机の上に、一枚の紙を置いた。
管理番号A―07。
そして、その横に古い記録を並べる。
「質問は一つです」
R・2がアルトを見る。
「今日、旧受付印B―09を借りましたね?」
「はい」
「使用目的は?」
「承認関連文書の整理です」
「記録通りですね」
アルトは頷いた。
「では、なぜ三年前に使用停止になった印鑑を?」
「指示されたからです」
「誰に?」
「……上司からです」
「名前は?」
R・2は一瞬だけ視線を落とした。
「保管部署の管理責任者です」
「その指示は、口頭ですか?」
「はい」
「書面は?」
「ありません」
アルトはヴィクターを見る。
ヴィクターが小さく頷いた。
「では、次」
アルトは十年前の記録を出した。
「十年前の八月十二日」
R・2の目が、記録に落ちた。
ほんの一瞬。
だが、今度は明らかだった。
指先が止まった。
呼吸も、わずかに浅くなる。
「この日も、あなたは記録管理補助を担当していましたね?」
「……はい」
先ほどより返事が遅い。
アルトは気づかないふりをした。
「そして、承認確認印を借りている」
「覚えていません」
「でしょうね」
アルトはあっさり言った。
「十年前のことですから」
R・2の肩から、ほんの少し力が抜けた。
だが。
アルトは次の紙を出した。
「だから、記憶ではなく記録を見ます」
十年前の印鑑管理台帳。
管理番号A―07。
貸出時刻。
十時二十四分。
続いて入退室記録。
第八保管庫。
入室十時二十七分。
退室十一時〇三分。
R・2は黙っていた。
「そして今日」
現在の記録を横に置く。
B―09貸出。
九時四十七分。
第八保管庫入室。
十時〇一分。
退室。
十時〇九分。
その瞬間。
R・2の右手が、膝の上で小さく握られた。
すぐに開く。
だが。
アルトは見逃さなかった。
「十年前と今日」
アルトは二枚の記録を並べる。
「時間は違う」
「でも流れが同じです」
R・2の視線が、古い記録から現在の記録へ移る。
「印鑑を借りる」
「第八保管庫へ入る」
「承認関連文書を整理する」
「そして印鑑を返す」
R・2が小さく息を吐いた。
「……それは、私の仕事です」
「そうですね」
アルトは否定しなかった。
「だから、仕事をしたこと自体は問題にしていない」
「……」
「問題なのは、その仕事の中身です」
アルトは最後の一枚を出した。
第八保管庫の整理記録。
十年前。
『整理担当――記録管理補助』
『整理対象――承認関係文書』
現在。
『整理担当――R・2』
『整理対象――承認関係文書』
R・2は記録を見つめる。
「十年前も、あなたは同じ仕事をしている」
「……はい」
「今日も同じ」
「はい」
「では、今日、第八保管庫で何を整理しました?」
「古い承認記録と、現在の承認記録を分けました」
「どこへ?」
「指定された棚へ」
「指定したのは?」
R・2の返事が止まった。
「……上司です」
「誰です?」
「保管部署の管理責任者です」
アルトはそれ以上聞かなかった。
代わりに、次の紙を出す。
『整理後確認者』
そこに記された名前を見た瞬間。
R・2の表情が変わった。
今度は隠せなかった。
目が一度だけ大きく開く。
そして。
「……その名前は」
小さな声だった。
アルトは紙を指で押さえた。
「名前は、エドガー・ミレル」
R・2の顔が固まった。
マルクが眉を上げる。
ヴィクターも記録を見る。
「知っていますね?」
R・2はすぐに答えなかった。
「……以前、同じ部署にいた方です」
「どんな仕事を?」
「承認文書の受付と、整理後の確認です」
「今は?」
「三年前に異動しました」
「どこへ?」
R・2の口が止まる。
「……王家会計監査室です」
アルトの目が細くなる。
「会計監査室」
「はい」
「では、今日ここにいるはずがない」
「……はい」
「しかも勤務表では休暇中」
「はい」
「それなのに、整理後確認者として名前が残っている」
R・2は俯いた。
アルトは追い詰めるような声を出さなかった。
「エドガー・ミレル」
もう一度、名前を呼ぶ。
「十年前も、この部署にいた?」
「……いました」
「君の先輩か?」
「はい」
「仕事を教えた?」
「……私が入ったばかりの頃、記録の扱いを教えてもらいました」
「印鑑の管理も?」
R・2は答えなかった。
アルトが続ける。
「A―07の扱いを知っていた?」
「……はい」
その一言だけで。
部屋の空気が変わった。
ローディンが低く呟く。
「なら、十年前の流れも知っている」
R・2はローディンを見る。
そして、初めて明確な動揺を見せた。
「……その人は、悪い人ではありません」
「誰も悪人だとは言っていない」
アルトは静かに返した。
「ただ、君が名前を見た瞬間に反応した理由を聞いている」
R・2は唇を噛んだ。
しばらくして。
「エドガーさんは……十年前にも同じことをしていました」
アルトが身を乗り出す。
「同じこと?」
「承認関係文書の整理です」
「それだけ?」
「……はい」
「では、なぜ今になって名前が出てくる?」
R・2は苦しそうに目を伏せる。
「三年前、異動する前に……」
「前に?」
「私に一つだけ言いました」
部屋が静かになる。
「何と?」
R・2はしばらく黙っていた。
やがて。
「『承認文書は、名前を見るな』と」
アルトの表情から笑みが消えた。
「どういう意味だ?」
「分かりません」
「本人に聞かなかった?」
「聞きました」
「何と言われた?」
R・2は答えるまでに、長い時間を置いた。
「……『名前が残っている人間だけが、承認したとは限らない』と」
ヴィクターが顔を上げる。
マルクも黙った。
アルトは机の上の記録を見る。
「つまり」
ゆっくりと言った。
「エドガーは、承認者の名前と実際の承認者が一致しないケースを知っていた」
「……そういう意味だと思います」
「十年前から?」
「はい」
「それを誰から聞いた?」
R・2は黙った。
「エドガー本人か?」
「……はい」
アルトは一枚の紙を持ち上げる。
「では、今日の確認者欄にエドガーの名前があるのは偶然か?」
「……分かりません」
「本当に?」
R・2の目が揺れる。
「私は……」
言葉が止まる。
そして。
「今日、第八保管庫に入る前に、エドガーさんから声をかけられました」
アルトの目が鋭くなった。
「いつ?」
「朝です」
「どこで?」
「文書保管部署の裏口です」
「何を言われた?」
「『A―07の確認がある』と」
「それだけ?」
「……『古い記録は、余計なところまで見ないほうがいい』と」
沈黙。
アルトは確認した。
「エドガーは、今日この建物にいた」
「……はい」
「でも勤務表にはいない」
「はい」
「そして、その人物の名前が第八保管庫の確認者として記録されている」
「はい」
「R・2」
「……はい」
「君は、それを見て何を思った?」
R・2は目を閉じた。
「……十年前と同じだと思いました」
「何が?」
「エドガーさんが、記録に名前を残さないやり方です」
アルトは黙った。
「十年前も……」
R・2は震える声で続けた。
「実際に整理した人間と、記録上の確認者が違うことがありました」
「誰が整理した?」
「……私です」
「確認者は?」
「エドガーさんでした」
アルトの視線が、古い記録へ落ちる。
「つまり」
「十年前も、R・2が実作業をして、エドガーが確認者として記録された」
「……はい」
「そして今日も同じ構図」
R・2は頷いた。
アルトは椅子に深く座り直した。
「分かった」
R・2が顔を上げる。
「……それだけですか?」
「今のところはな」
アルトは答えた。
「エドガー・ミレルを黒帳の人間とは決めない」
R・2が驚く。
「ですが――」
「名前が記録に出ているだけでは足りない」
アルトは紙を閉じる。
「俺が知りたいのは、エドガーが誰の指示で名前を使われたのか」
R・2が息を呑む。
「そして」
アルトは続けた。
「なぜ十年前と今日で、同じ仕組みが繰り返されたのか」
部屋に沈黙が落ちた。
アルトは最後に、R・2へ告げた。
「今日は帰っていい」
R・2が立ち上がる。
扉へ向かう。
だが。
「R・2」
呼び止める。
振り返った。
「エドガーに会ったことは、今は誰にも言うな」
「……分かりました」
「君を守るためでもある」
R・2は小さく頷いた。
そして、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
マルクが口を開く。
「エドガー・ミレル……」
「ああ」
アルトは記録を見つめる。
「十年前の実務担当者」
ヴィクターが続ける。
「現在は会計監査室」
「そして今日、勤務表にないのに保管部署に現れている」
ローディンが低い声で言った。
「さらに、承認者の名前と実際の承認者が一致しないことを知っている」
アルトは頷いた。
「だからこそ、まだ決めつけない」
机の上には。
十年前のA―07。
現在のB―09。
そして。
『整理後確認者――エドガー・ミレル』
三つの記録が並んでいる。
アルトは、その三枚をゆっくり重ねた。
「次に調べるのは――」
「エドガーの処理記号だ」
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営業メモ ①⑥⑨
相手から名前を聞き出すとき、重要なのは「誰ですか?」だけではない。
「どんな仕事をしていたか」
「いつ知り合ったか」
「以前、何を教わったか」
「その人物について何を知っているか」
ここまで聞けば、単なる名前が「役割」に変わる。
今回、R・2が知っていたのはエドガーという人物そのものだけではない。
十年前の仕事のやり方。
承認記録の仕組み。
そして、名前と実際の行動が一致しないという違和感。
営業では、人物の肩書きより「その人が、過去にどの業務を担当していたか」を掘る。
そこに現在の行動とつながる線が隠れていることがある。
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次回予告
第百七十一話 営業課長、エドガーの処理記号を追う
R・2が名前を挙げた男――エドガー・ミレル。
十年前、そして現在。
二つの記録に残る同じ処理の流れ。
アルトはエドガーの処理記号を追う。
すると――。
エドガー本人が処理したはずのない記録に、その記号が残っていた。




