第十六話 営業課長、小さな違和感を見逃さない
朝から空は雲ひとつない快晴だった。
レインハルト家の広い庭では、夏の訪れを思わせる陽射しが芝生を照らし、色とりどりの花々が風に揺れている。
噴水から立ちのぼる細かな水しぶきが虹を作り、木陰では使用人たちが笑顔で洗濯物を干していた。
屋敷には穏やかな時間が流れている。
――そのはずだった。
「大変です!」
一本の声が静けさを破った。
廊下を若いメイドが駆け抜ける。
「ガルド様!」
「銀のティーセットが見当たりません!」
その言葉に、屋敷の空気が一変した。
「落ち着きなさい。」
ガルドは慌てることなく答える。
「最後に確認したのはいつですか?」
「朝のお茶の準備をした時です。」
「その後は?」
「応接室を掃除して……そのあと厨房へ……。」
ガルドは静かに頷いた。
「まずは探しましょう。」
「誰かを疑うのは、そのあとです。」
その落ち着いた声に、慌てていた使用人たちも少しだけ冷静さを取り戻した。
◇ ◇ ◇
一方、その騒ぎを聞いていたアルトは、エマに抱かれながら首をかしげていた。
(盗難……?)
営業課長時代にも似たようなことはあった。
「書類がない!」
「契約書が消えた!」
大騒ぎになった結果、机の引き出しから出てきたことも一度や二度ではない。
(まずは慌てないこと。)
それが鉄則だった。
「アルト様。」
「今日はみんな忙しそうですね。」
エマは少し困ったように笑う。
アルトは周囲を見回した。
慌ただしく動く使用人たち。
応接室。
廊下。
厨房。
その時だった。
(……あれ?)
視界の端に、一人の若い使用人が映る。
両手で大きな洗濯かごを抱え、足早に廊下を歩いている。
その足元に、小さな銀色の光がちらりと見えた。
(ん?)
銀のスプーン……?
いや。
一瞬だったので確信はない。
その使用人は、すぐに角を曲がって見えなくなった。
◇ ◇ ◇
アルトは小さな手を伸ばした。
「あーっ!」
エマが振り向く。
「どうしました?」
アルトは必死に廊下の奥を指差す。
「あっ! あっ!」
「向こうへ行きたいんですか?」
違う。
そうじゃない。
(あの人!)
(あの洗濯かご!)
言葉にならない。
もどかしい。
「あぅぅ……。」
赤ちゃんであることが、こんなにも歯がゆいとは。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「エマ。」
ガルドが通りかかる。
「アルト様はどうされました?」
「何か向こうを気にしているみたいなんです。」
ガルドはアルトの視線を追った。
そして、静かに廊下の先を見る。
ちょうどそこへ、先ほどの若い使用人が戻ってきた。
「あの。」
ガルドが穏やかに声を掛ける。
「洗濯かごの中を見せてもらえますか?」
「え?」
使用人は少し驚いた顔をした。
「もちろんです。」
かごの中にはシーツやタオルが山積みになっている。
ガルドは丁寧に布をめくる。
すると――。
「……ありました。」
布に包まれるようにして、銀のティースプーンが一本だけ入っていた。
「あっ!」
若い使用人は青ざめた。
「ち、違うんです!」
「盗もうとしたんじゃありません!」
「掃除中に布へ引っかかって、そのまま気づかなくて……!」
必死に頭を下げる。
ガルドは静かにスプーンを取り出した。
「そうでしたか。」
「顔を上げなさい。」
「え……?」
「慌てていたのでしょう。」
「誰にでも失敗はあります。」
その優しい言葉に、若い使用人は涙ぐみながら何度も頭を下げた。
「申し訳ありません!」
「本当に申し訳ありません!」
◇ ◇ ◇
騒ぎは、思ったよりあっけなく終わった。
銀のティーセットもすべて見つかり、屋敷には再び穏やかな空気が戻る。
レオンも豪快に笑った。
「なんだ!」
「盗賊じゃなくてよかった!」
「これで今日のお茶は安心だ!」
セシリアも胸をなで下ろす。
「本当に良かったですね。」
その横で、エマはアルトを見つめていた。
「……不思議。」
「アルト様、あの使用人さんの方を、ずっと見ていましたよね。」
アルトは目をぱちぱちさせる。
(たまたまです。)
そう言いたい。
でも、本当は違う。
営業課長として培った「違和感」が、ほんの少しだけ働いたのだ。
「ばぶ。」
結局、そう答えるしかなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
ガルドが一人、書庫で帳簿を閉じながら小さく呟いた。
「アルト様……。」
昼間の出来事が頭から離れない。
偶然なのか。
それとも――。
「いや。」
ガルドは静かに笑う。
「まだ赤ちゃんです。」
「考えすぎですね。」
そう言ってランプの火を消した。
しかし、その胸には小さな種が植えられていた。
『あの子は、人をよく見ている。』
その小さな気づきが、やがてアルトへの大きな信頼へ変わっていくことを、まだ誰も知らなかった。
⸻
営業メモ⑮
『大きな問題は、小さな違和感から始まる。』
優秀な営業は、相手のたった一つの表情の変化を見逃さない。
問題を解決する人は、派手な証拠ではなく、小さな違和感を積み重ねて真実へたどり着く。
⸻
――次回、第十七話「営業課長、リクの秘密基地へ招待される」
初めて一人の友達と過ごす時間。
笑いあり、冒険あり、そしてアルトは平民の暮らしを初めて知ることになる――。




