第十五話 営業課長、人生初の実験を始める
夜明け前。
東の空が淡い藍色から朱色へとゆっくり染まり始める頃、レインハルト家の屋敷はまだ静けさに包まれていた。
庭先では朝露をまとった草花が小さく震え、遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。
アルトは目を覚ますと、天井を見上げた。
(……よし。)
今日は決めていたことがある。
実験をしよう。
前世で営業課長をしていた頃、新しい施策を考えるたびに心掛けていたことがある。
「思い込みで動くな。」
「まずはデータを取れ。」
勘だけで進めば、失敗したときに原因が分からない。
だから、小さく試し、結果を見て、改善する。
その繰り返しだった。
(異世界でも同じだ。)
◇ ◇ ◇
朝食を終えたあと、エマは洗濯物を干すため、少しだけ部屋を離れた。
部屋にはアルト一人。
(今だ。)
ベッドの横には、木製の積み木が並んでいる。
その中から一つを手に取り、じっと見つめた。
(仮説その一。)
(俺の白い魔力は、触れた相手に影響を与える。)
父。
若い騎士。
どちらも触れたあとに魔力の揺れが落ち着いた。
だが、人に試すのはまだ早い。
(まずは物で試そう。)
積み木へ意識を向ける。
白い光を流すイメージ。
……。
…………。
何も起きない。
(やっぱりか。)
積み木は積み木のままだ。
光ることも、浮くこともない。
「なるほど。」
アルトは心の中で頷く。
(人と物は違うらしい。)
一つ、仮説が消えた。
でも、それでいい。
営業でも「違った」という結果は立派な成果だった。
◇ ◇ ◇
次に狙いを定めたのは、窓辺に置かれた小さな鉢植えだった。
可愛らしい白い花が咲いている。
毎朝エマが水をやっているお気に入りの花だ。
(植物はどうだろう。)
そっと葉っぱへ触れる。
白い魔力を意識する。
ふわり。
ほんの一瞬だけ、自分の手から白い光が流れたように見えた。
葉がかすかに揺れる。
(風……じゃない。)
しかし、それ以上の変化はない。
花は相変わらず可憐に咲いている。
(これも失敗か。)
そう思った、その時。
「アルト様!」
エマが戻ってきた。
「きゃっ!」
慌てて積み木を隠そうとして、全部ひっくり返した。
カラカラカラッ!
木の積み木が床いっぱいに転がる。
「まあ!」
「元気いっぱいですね。」
エマは笑いながら積み木を拾い始めた。
(違うんです。)
(証拠隠滅に失敗しただけなんです。)
営業課長、人生二度目の実験も、見事に現行犯逮捕である。
◇ ◇ ◇
昼食後。
レオンが珍しく早く帰宅した。
「アルト!」
「父さんと庭を散歩しよう!」
高く抱き上げられ、庭へ出る。
青空の下、色とりどりの花が咲き誇り、噴水の水音が心地よく響く。
庭師たちが丁寧に枝を整え、使用人たちが洗濯物を干している。
平和な午後だった。
「旦那様。」
庭師の一人が頭を下げる。
「例のバラですが……。」
「ああ、見せてくれ。」
アルトも一緒に近づく。
そこには一本だけ、元気のない白いバラがあった。
葉は少ししおれ、花びらにも元気がない。
(病気かな。)
レオンは困った顔をする。
「水は足りているんだろう?」
「はい。」
「日当たりも問題ありません。」
庭師も首をひねる。
アルトはバラを見つめた。
すると――。
(あれ?)
花の周りだけ、魔力が薄い。
人間ほどはっきりではないが、植物にも淡い光がある。
その光が弱々しく揺れていた。
(もしかして……。)
アルトは思わず身を乗り出す。
「おっと。」
レオンが笑う。
「そんなに花が好きか?」
アルトは小さな手を伸ばした。
指先が花びらへ触れる。
ふわり。
白い魔力が静かに流れる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
花の周囲の光が強くなったように見えた。
「ん?」
庭師が目を丸くする。
「気のせいでしょうか。」
「葉の色が少し良くなったような……。」
「はっはっは!」
レオンが笑う。
「アルトに応援されたから元気になったんだ!」
「植物も嬉しかったんだろう!」
(いや、お父さん。)
(それ、結構いい線いってるかも。)
アルトは苦笑する。
だが、まだ断定はできない。
変化はほんのわずか。
偶然かもしれない。
(データ不足。)
営業課長の頭は、冷静だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
アルトはベッドに横になりながら、今日一日の出来事を整理していた。
積み木には変化なし。
植物には、わずかな反応。
人間には比較的大きな変化。
(共通点は何だ?)
考えろ。
思い込むな。
一つずつ整理しろ。
前世で何度も繰り返した分析が、自然と始まる。
窓の外では満月が静かに輝いていた。
その光を浴びながら、魔法書の表紙が淡く光る。
アルトはその本を見つめ、小さく微笑んだ。
(面白くなってきた。)
異世界の魔法。
まだ何も分からない。
だからこそ、知りたい。
その知識への好奇心が、四十二歳の営業課長を静かに突き動かしていた。
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営業メモ⑭
『失敗は、前に進んだ証拠だ。』
何も試さなければ、何も分からない。
一つ失敗するたびに、「違う答え」を一つ消せる。
その積み重ねが、やがて正解へたどり着く。
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――次回、第十六話「営業課長、観察眼が事件を見抜く」
屋敷で起きた小さな盗難騒ぎ。
誰も気づかなかった”違和感”を、アルトだけは見逃さなかった――。




