第十三話 営業課長、人生初の魔法書に出会う
夏が近づき始めたある日の午後。
窓の外では青空がどこまでも広がり、中庭では庭師たちが汗を流しながら花壇の手入れをしていた。
噴水から流れる水音は涼しげで、風に揺れる木々の葉が、さらさらと心地よい音を立てている。
アルトは、今日も元気にハイハイをしていた。
……いや、本人に言わせれば違う。
(これは探索だ。)
営業課長だった頃、新しい支店へ配属されるたびに必ずやっていたことがある。
まず建物を歩く。
倉庫はどこか。
応接室はどこか。
社員が集まる場所はどこか。
図面を見るより、自分の足で歩いた方が早い。
その癖は、赤ちゃんになっても変わらなかった。
「アルト様、どちらへ行かれるんですか?」
後ろからエマの声が聞こえる。
(聞こえません。)
もちろん、口には出せない。
アルトは振り返ることなく、目的地へ向かってハイハイを続けた。
◇ ◇ ◇
屋敷の西棟。
普段は人の出入りが少ない廊下だ。
磨き上げられた床には大きな窓から光が差し込み、壁には歴代当主の肖像画が飾られている。
(前から気になってたんだよな……。)
廊下の突き当たりにある、重厚な木製の扉。
いつも閉まっているその部屋だけは、まだ中を見たことがなかった。
しかし今日は違う。
扉が半開きになっている。
(チャンス。)
アルトはそっと中へ入った。
そこは書庫だった。
天井まで届く本棚が幾重にも並び、革張りの分厚い本がぎっしりと収められている。
古い紙と革の匂いが漂い、窓から差し込む柔らかな光が本棚を照らしていた。
(うわ……。)
思わず息を呑む。
(図書館だ。)
前世では、本屋や図書館に立ち寄るのが密かな楽しみだった。
営業書、経営書、心理学……。
読みたい本はいくらでもあった。
この部屋にも、それと同じ空気が流れている。
「おや?」
低く落ち着いた声が響く。
振り返ると、執事のガルドが本を抱えて立っていた。
「アルト様でしたか。」
(しまった。)
見つかった。
「書庫に興味がおありですか?」
ガルドは穏やかに微笑む。
アルトは思わず本棚を指さした。
「あぅ。」
「……そうですか。」
ガルドは少し考えるように顎へ手を当てると、一冊の薄い本を取り出した。
「これは絵が多い本です。」
「まだ文字は難しいでしょうが、眺めるだけでも楽しめます。」
そう言って、アルトの前へ本を置いた。
(えっ?)
(いいの?)
表紙には金色の文字。
もちろん読めない。
しかし、中を開いた瞬間――
アルトの目が大きく見開かれた。
そこには、人の身体が描かれていた。
腕。
胸。
頭。
そして全身を巡る、幾筋もの線。
(これ……。)
まるで人体図だった。
さらに、身体の中心には小さな丸が描かれ、そこから線が全身へ伸びている。
(魔力の流れ……?)
その図を見た瞬間、自分が普段見ている”光”が頭をよぎる。
(似てる。)
いや。
完全には一致しない。
本では一本の線。
しかし、アルトに見えている魔力はもっと複雑だ。
細い流れが幾重にも枝分かれし、人によって色も違う。
(本と現実が違う……?)
営業時代、マニュアルと現場が違うことは珍しくなかった。
だからこそ、現場を見て改善案を考えた。
(もしかして、この本も……。)
そこまで考えた時だった。
「アルト様!」
エマが息を切らせて飛び込んできた。
「こんなところにいたんですね!」
「探しましたよ!」
ひょいっと抱き上げられる。
(あぁ……。)
もう少し見たかった。
名残惜しそうに本へ手を伸ばす。
その様子を見たガルドは、小さく笑った。
「そんなに気に入られましたか。」
「では、しばらくお部屋へお持ちしましょう。」
「えっ、本当ですか?」
エマが驚く。
「アルト様が初めて、自分から興味を示された本です。」
「きっと何か感じるものがあったのでしょう。」
(ガルドさん……。)
(あなた、好きです。)
思わず両手を広げる。
ガルドは少し照れたように咳払いをした。
「……抱っこは遠慮しておきます。」
(断られた。)
営業課長、人生二度目の失恋である。
◇ ◇ ◇
その夜。
部屋へ戻ったアルトは、ベッドの横へ置かれた本をじっと見つめていた。
まだ読めない。
文字も分からない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
知識は、人を強くする。
前世で営業を学んだのも、本だった。
部下の育て方を覚えたのも、本だった。
そして今。
異世界で最初に出会った一冊の本が、これからの人生を大きく変える予感がしていた。
窓の外では、夕焼けが空を茜色に染めている。
その光が本の表紙に差し込み、金色の文字が一瞬だけ輝いた。
アルトは小さく拳を握る。
(読めるようになろう。)
(この世界を知るために。)
その決意を、誰も知らない。
ただ一冊の古い本だけが、静かに彼を待っていた。
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営業メモ⑫
『現場を知り、本を読み、もう一度現場を見る。その繰り返しが、本当の実力を育てる。』
知識だけでは足りない。
経験だけでも足りない。
その二つが結びついたとき、人は初めて成長できる。
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――次回、第十四話「営業課長、文字を読めるようになりたい」
魔法書を読みたい一心で始まる猛勉強。
しかし、その勉強法は赤ちゃんらしからぬ、とんでもない方法だった――。




