第百十六話 営業課長、王家の印を追う
地下室。
誰も口を開かなかった。
アルトの手には、古い命令書。
そこに残されていたのは――王家の印。
そして、その印を見たエリシアの顔からは、完全に笑みが消えていた。
「……エリシア」
アルトが静かに呼ぶ。
「この印について、知っているんですね?」
「ええ」
エリシアは命令書を見つめたまま答える。
「王家の正式な印です」
「誰が使える?」
「国王陛下」
「それだけ?」
「……それと、王家から正式に権限を与えられた一部の人間だけ」
アルトは頷く。
「つまり、王族の誰かが関わっている可能性がある」
「そうなります」
レオンが険しい顔をする。
「エリシア殿下」
「はい」
「この命令書は、本当に十年前のものなのですか?」
「印だけなら本物です」
「だが、王家がレインハルト家を潰すよう命令したとは思えません」
「私もそう思います」
エリシアは首を振った。
「少なくとも、父上からそのような話を聞いたことはありません」
「では、誰が……」
ヴィクトルが呟く。
アルトは命令書を机に置いた。
「一度、整理しましょう」
全員がアルトを見る。
「十年前、父さんの改革が始まった」
「その改革によって、物流を支配しようとしていたアーク・レギオンの利益が減った」
「だから、父さんを失脚させた」
「そのためにグレゴールさんを利用した」
グレゴールが黙って頷く。
「さらにヴァルデン公爵が動いた」
「そして、その命令書には王家の印がある」
「問題は――」
アルトは命令書を指差す。
「王家の誰が、この命令を出したのか」
沈黙。
やがてエリシアが口を開いた。
「一つだけ、可能性があります」
「誰です?」
「当時、王家の政務を取り仕切っていた人物」
「宰相です」
アルトの眉が動いた。
「宰相……」
「はい」
「名前は?」
「ローディン・アルバート」
アルトはその名前を頭の中で繰り返した。
「今も宰相ですか?」
「いいえ」
「十年前に退任しています」
「理由は?」
「病気だったと聞いています」
「聞いている?」
アルトが聞き返す。
エリシアは少し黙った。
「……正確には、突然辞任しました」
「突然?」
「ええ」
「何か問題があった?」
「分かりません」
アルトは腕を組んだ。
「怪しいですね」
「でしょうね」
エリシアも頷いた。
その時。
地下室の入口から声が響いた。
「随分と面白い話をしているな」
全員が振り返る。
そこには、先ほどまで地上にいたはずの男が立っていた。
しかし――。
男の後ろには、別の人物がいる。
白髪の老人。
上質な衣服。
胸元には王家の紋章。
「誰だ?」
グレイヴが剣を抜く。
老人は落ち着いた様子で階段を下りてきた。
「剣を収めなさい」
その一言に、エリシアが反応した。
「……あなたは」
老人が微笑む。
「久しぶりですな、エリシア殿下」
「なぜ、あなたがここに?」
「それはこちらの台詞です」
老人はアルトを見る。
「レインハルト家のご子息ですな」
「はい」
「なるほど」
老人はアルトをじっと見つめる。
「噂通りだ」
「何の噂です?」
「商売のやり方が、普通ではないと聞いています」
「それは褒め言葉でしょうか?」
「さあ」
老人は笑った。
「どうでしょうな」
アルトは老人の胸元を見る。
「王家の紋章……」
「私は王宮政務官の一人です」
「名前を聞いても?」
「アルベルト・クローヴェン」
アルトは頭の中で名前を整理する。
「エリシア殿下」
「はい」
「この人は信用できますか?」
「……」
エリシアが困ったように黙った。
「その反応だと、微妙ですね」
「違います」
エリシアは首を振る。
「ただ、私もこの方がなぜここにいるのか分かりません」
老人が笑った。
「正直でよろしい」
アルトは老人を見る。
「では、クローヴェンさん」
「何でしょう?」
「ここへ何をしに来たんです?」
「あなたたちを止めに来ました」
空気が変わった。
「……敵ですか?」
「そういうわけではありません」
「では、味方?」
「それも違います」
「なるほど」
アルトは笑った。
「一番面倒なタイプですね」
老人が吹き出す。
「面白い」
「何がです?」
「あなたは普通なら、ここで私を問い詰める」
「でも、そうしない」
「なぜです?」
「まだ、あなたの目的が分からないからです」
アルトは椅子を一つ引いた。
「座りますか?」
「ほう」
「商談しましょう」
「ここで?」
「ここが一番いいでしょう」
「敵か味方か分からない相手と?」
「だからこそです」
老人はしばらくアルトを見つめ――。
ゆっくりと椅子に座った。
「では、商談を始めましょう」
アルトも向かいに座る。
「まず、確認です」
「何でしょう?」
「あなたは王家の人間ですか?」
「違います」
「王族ではない」
「ええ」
「では、なぜ王家の紋章を持っている?」
「王家から正式に与えられた権限があるからです」
「その権限で、命令書を発行できますか?」
「内容によります」
「十年前、レインハルト家を失脚させる命令は?」
「発行できます」
レオンが立ち上がる。
「では――」
「ただし」
老人が遮った。
「私は発行していません」
レオンが止まる。
「……」
「その命令書は、私も初めて見ました」
アルトは老人を見る。
「本当に?」
「ええ」
「では、誰が?」
「それを調べるために、私はここへ来ました」
「……」
アルトは少し考える。
「つまり、あなたも調査している」
「そういうことです」
「なぜ?」
「王家内部に、不正な権限を使っている者がいる可能性があるからです」
エリシアが驚く。
「王家内部に?」
「はい」
「それは、かなり重大な話では?」
「だからこそ、表立って調べることができない」
老人はアルトを見る。
「私はあなた方がここへ来ることを知っていました」
「どうして?」
「監視していたからです」
「僕たちを?」
「正確には、中央倉庫を」
アルトは少し笑った。
「なるほど」
「最初から全部見ていたんですね」
「ええ」
「なら、僕たちが帳簿を見つけたことも?」
「知っています」
「グレゴールさんと話したことも?」
「知っています」
「なら、アーク・レギオンがここへ来ることも?」
「それも予想していました」
アルトは頷く。
「では、一つ質問です」
「どうぞ」
「あなたは、なぜ彼らを止めなかったんです?」
老人は黙った。
「……」
「アーク・レギオンが帳簿を奪おうとしていた」
「それを知っていた」
「なのに、僕たちが先に帳簿を確保するまで待っていた」
アルトの目が鋭くなる。
「つまり、僕たちを利用したんじゃありませんか?」
老人はしばらく沈黙した。
そして。
「その通りです」
レオンが睨む。
「貴様……」
「怒るのは分かります」
老人は落ち着いていた。
「しかし、あなた方でなければ、この場所にある記録を回収することはできなかった」
「なぜ?」
「王家が動けば、アーク・レギオンに警戒される」
「しかし、あなた方は違う」
「レインハルト家の後継者であるアルト殿なら、自然にここへ来られる」
アルトは笑った。
「利用されたわけですね」
「否定はしません」
「なるほど」
アルトは少し考えた。
「では、僕からも条件があります」
「条件?」
「はい」
「何を要求する?」
「王家への正式な調査権限です」
老人の表情が変わった。
「……何?」
「僕たちはこれから、王家内部まで調べます」
「そのための権限が欲しい」
「危険すぎます」
「だから必要なんです」
「なぜ?」
「勝手に調べれば、こちらが犯罪者になる」
「でも、正式な権限があれば違う」
「王家内部を調べる正当な理由になります」
老人はアルトを見る。
「あなたは、自分が何を要求しているのか分かっていますか?」
「もちろん」
「王家に対する監査権限です」
「それを一介の貴族の息子が要求する」
「はい」
アルトは笑った。
「でも、今の僕には一つだけ強みがあります」
「何です?」
「王家も欲しい情報を持っています」
老人が目を細める。
「……取引ですか」
「はい」
アルトは帳簿を一冊持ち上げる。
「僕は情報を提供します」
「あなたには調査権限を与えてもらう」
「これなら、双方に利益があります」
老人はしばらく考えた。
「面白い」
「ありがとうございます」
「だが、一つ問題があります」
「何でしょう?」
「王家の正式な許可を出せるのは、国王陛下だけです」
「なら――」
アルトはエリシアを見る。
「殿下にお願いしましょう」
「私?」
「はい」
エリシアが目を丸くする。
「私から父上に?」
「お願いします」
「……分かりました」
エリシアは頷いた。
「私も真実を知りたい」
「ありがとうございます」
その時。
地下室の隅で、グレゴールが何かを見つけた。
「アルト!」
「何です?」
「これを見ろ!」
グレゴールが古い木箱を開ける。
中には、一枚の布に包まれた文書。
アルトが取り出す。
「これは?」
レオンが近づく。
「……王家との正式な契約書だ」
「契約書?」
「ああ」
アルトは読む。
そこには、十年前よりさらに前の日付が記されていた。
レインハルト家と王家。
そして――。
「物流管理に関する特別契約……」
アルトは目を走らせる。
「待って」
最後の署名欄。
そこには、見覚えのある名前があった。
「これ……」
レオンの顔が強張る。
「俺の父だ」
アルトが顔を上げる。
「祖父が?」
「ああ」
「じゃあ、レインハルト家は昔から王家と直接契約していた」
「そういうことになる」
さらに読み進める。
そして――。
「……これは?」
契約書の最後に、奇妙な一文があった。
『王家に重大な危機が迫った場合、レインハルト家当主は王家の物流記録を全て開示する権限を有する。』
アルトは息を呑む。
「これなら……」
老人が立ち上がる。
「何です?」
「あなたの求めていた調査権限に近い」
「え?」
「この契約が正式なものなら、レインハルト家には独自の調査権限が残されています」
アルトは契約書を見る。
「つまり……」
「王家の許可を待つ必要すらない」
老人が静かに言う。
「レインハルト家自身が、王家の物流記録を調べる権利を持っている」
アルトは笑った。
「……なるほど」
これまで追い続けてきた答えが、一つに繋がった。
レインハルト家が守ってきた物流網。
王家との契約。
アーク・レギオン。
そして十年前の事件。
全てが、一本の線になり始めていた。
だが――。
「アルト」
エリシアが契約書を指差す。
「まだ、おかしいところがあります」
「どこ?」
「この契約書の更新日」
アルトが見る。
「……十年前?」
「はい」
アルトの表情が変わる。
「十年前に、契約が更新されている」
「ということは?」
アルトは静かに答えた。
「祖父の時代の契約を、父さんの失脚直前に誰かが更新した」
「誰が?」
全員が契約書を見る。
最後の署名。
そこに残されていたのは――。
王家の印。
そして、もう一つ。
見覚えのある人物の名前だった。
「……グレゴール?」
アルトが呟く。
グレゴールの顔から血の気が引いた。
「違う」
「俺じゃない」
「でも、署名があなたの名前になっています」
「俺は……」
グレゴールが震える。
「そんな契約には署名していない」
アルトは契約書を見つめる。
「なら――」
誰かがグレゴールの名前を使った。
そして、その人物は。
レインハルト家と王家の双方にアクセスできる立場にいた。
アルトはゆっくり顔を上げた。
「十年前の事件は、まだ終わっていない」
地下室に、重い沈黙が落ちた。
そしてアルトは、契約書を握り締めた。
「今度は、僕が営業します」
「この国そのものを相手に――」
営業メモ①①⑤
「大きな交渉ほど、『自分だけが得をする条件』を提示してはいけません。相手にも明確なメリットがある提案を作ることが重要です。今回のアルトのように、『情報を提供する代わりに調査権限を得る』という交換条件にすれば、単なる要求ではなく取引になります。営業の基本は、相手に『それなら受けてもいい』と思わせることです。」
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次回予告 第百十七話「営業課長、王宮でプレゼンする」
王家内部に潜む裏切り者。
そして、十年前に改ざんされた契約書。
アルトたちは真実を確かめるため、ついに王宮へ向かう。
「僕から国王陛下に提案があります」
「王に直接、商談を持ちかけるつもりか?」
「はい」
「お前、本当に怖いもの知らずだな……」
だが、王宮で待っていたのは、アルトが予想していた以上に厳しい反応だった。
「レインハルト家に調査権限を与えることはできない」
その言葉の裏には、王家が隠している別の事情があった。
そしてアルトは、王の前で一つの「プレゼン資料」を取り出す。
「では、僕から王国改革案をご説明します」
営業課長アルト。
ついに、その営業相手は――国王へ。




