第百七話 営業課長、最大の商談相手と対峙する
古い商人用倉庫。
扉の向こうに立っているのは、ヴィクトル・アーデン。
十年前、レオンの物流改革に関わり、そしてその後の事件にも深く関わった男。
アルトはゆっくりと扉を開けた。
「お待たせしました。」
「……随分と落ち着いているな。」
ヴィクトルはアルトを見る。
「普通なら、もう少し警戒するものだ。」
「警戒していますよ。」
「そうは見えない。」
「営業では、相手に警戒していることを悟らせないのも大切ですから。」
ヴィクトルが一瞬黙った。
そして、小さく笑った。
「なるほど。」
「君が噂の営業課長か。」
「そう呼ばれています。」
「まだ子供なのに?」
「見た目はそうですね。」
「中身は?」
「四十二歳のおっさんです。」
「……。」
ヴィクトルが固まった。
アルトの後ろでは、マルクが必死に笑いをこらえている。
「冗談です。」
「……冗談にしては妙に具体的だな。」
「気のせいです。」
ヴィクトルは苦笑した。
「面白い男だ。」
「ありがとうございます。」
「褒めたつもりだ。」
「では、素直に受け取ります。」
ヴィクトルは倉庫の中へ視線を向ける。
「中に入っても?」
「もちろん。」
ヴィクトルが入ってくる。
その後ろには護衛が二人。
レオンが警戒する。
ヴィクトルはそれに気づいた。
「安心してくれ。」
「今日は争いに来たわけではない。」
「商談に来た。」
アルトは笑った。
「奇遇ですね。」
「私も商談をしようと思っていました。」
ヴィクトルが椅子に座る。
「では、始めようか。」
「その前に。」
アルトが言った。
「条件があります。」
「ほう。」
「護衛の方には外で待ってもらえますか?」
ヴィクトルが笑う。
「警戒しているではないか。」
「当然です。」
「私の護衛がいると、話しにくいか?」
「はい。」
ヴィクトルは少し考えた。
「いいだろう。」
護衛に手を上げる。
「外で待て。」
「しかし――。」
「大丈夫だ。」
二人の護衛が外へ出る。
扉が閉まる。
これで中にいるのは、アルト、レオン、エリシア、マルク、ダニエル、グレイヴ。
そしてヴィクトル。
十年前の事件を知る者たちが、同じ部屋に揃った。
「随分と豪華な顔ぶれだ。」
ヴィクトルが言う。
「十年前なら、全員が敵同士だった。」
「今もそうかもしれません。」
アルトが答える。
「だからこそ、商談です。」
「君は、本当に商談が好きだな。」
「好きというより、便利なんです。」
「何が?」
「戦うより安く済みます。」
ヴィクトルが笑う。
「なるほど。」
「では、聞こう。」
「君は何を望む?」
アルトは即答した。
「あなたと同じものです。」
ヴィクトルの笑顔が消える。
「……何だと思う?」
「情報です。」
「違う。」
「では、利益?」
「それも違う。」
「権力?」
ヴィクトルが黙った。
アルトは確信する。
「やっぱり。」
「何がだ?」
「あなたが一番欲しいのは、物流網そのものじゃない。」
「物流網を支配することで得られる情報です。」
ヴィクトルの目が細くなる。
「どこまで知っている?」
「まだ全部ではありません。」
「だから聞きに来ました。」
「私から?」
「はい。」
「私が教えると思うか?」
「思いません。」
「では、どうする?」
アルトは帳簿を机の上に置いた。
「これと交換です。」
ヴィクトルの目が帳簿へ向く。
「……それは。」
「十年前の商談記録です。」
「どこで手に入れた?」
「それは秘密です。」
「私には見せられないのか?」
「もちろん見せます。」
アルトは帳簿を開く。
「ただし、条件があります。」
「何だ?」
「あなたが十年前に何をしたのか。」
「それを先に話してください。」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
「君は、私を犯罪者だと思っているのか?」
「まだ決めていません。」
「まだ?」
「はい。」
「なぜ?」
「営業では、先入観を持たないようにしています。」
「相手を敵だと決めつけると、本当の目的を聞き逃しますから。」
ヴィクトルが少しだけ笑った。
「面白い考え方だ。」
「あなたは、十年前に父さんを利用した。」
アルトは続ける。
「でも、それだけじゃない。」
「父さんの改革案には、あなた自身も賛成していた。」
「違いますか?」
「……その通りだ。」
レオンが顔を上げる。
「では、なぜ私を裏切った?」
ヴィクトルはレオンを見る。
「裏切ったつもりはない。」
「何?」
「私は君の改革を成功させようとした。」
「嘘だ。」
「本当だ。」
ヴィクトルは静かに答える。
「君の改革案は正しかった。」
「物流を整理し、無駄を減らす。」
「商会同士の競争を維持しながら、共同で物流を管理する。」
「今聞いても、素晴らしい案だ。」
アルトは黙っている。
「だが、君には一つ足りなかった。」
「何が?」
「力だ。」
レオンが眉をひそめる。
「力?」
「正しい案を作るだけでは、国は変わらない。」
「その案を通す力が必要だ。」
「私は、その力を持っていた。」
アルトが尋ねる。
「だから、中央倉庫を押さえようとした?」
「そうだ。」
「でも、それでは独占になる。」
「ならない。」
「なぜ?」
「私は一人で管理するつもりはなかった。」
ヴィクトルは帳簿を指差した。
「君の父親には共同運営を提案した。」
「商会だけではない。」
「王宮、領主、商会。」
「それぞれが監視し合う仕組みにするつもりだった。」
アルトは考える。
「それなら、悪くないですね。」
レオンが驚く。
「アルト?」
「父さん。」
「何だ?」
「この人の案は、少なくとも最初は間違っていなかったのかもしれません。」
ヴィクトルが頷く。
「その通りだ。」
「では、何が起きた?」
アルトが尋ねる。
ヴィクトルの表情が変わった。
「A・Rだ。」
エリシアが反応する。
「……やはり。」
「知っているのか?」
ヴィクトルが尋ねる。
「王家の古文書に、似た記号がありました。」
「A・Rは誰なんです?」
ヴィクトルは答えない。
「言えない?」
「違う。」
「言いたくない。」
アルトはヴィクトルを見る。
「それなら、取引条件を変えましょう。」
「ほう。」
「A・Rの名前を教えてください。」
「その代わり――。」
アルトは帳簿を閉じる。
「あなたの名前が記されたページを、僕が王宮へ提出しない。」
ヴィクトルの表情が変わる。
「脅迫か?」
「いいえ。」
「交渉です。」
「私が犯罪者なら、そんな条件は意味がない。」
「だから、あなたが犯罪者なのかどうかを確認しているんです。」
ヴィクトルはアルトをじっと見る。
「君は、本当に商人ではないな。」
「営業課長です。」
「違いが分からない。」
「僕にも、最近分からなくなってきました。」
マルクが吹き出した。
ヴィクトルも小さく笑った。
「分かった。」
「話そう。」
全員がヴィクトルを見る。
「A・R。」
「それは人物の頭文字ではない。」
「え?」
アルトが目を見開く。
「では何です?」
「組織名だ。」
「組織?」
「ああ。」
「正式名称は?」
ヴィクトルは低い声で言った。
「アーク・レギオン。」
「王都の裏側で、商会、貴族、官僚を繋いでいる組織だ。」
ダニエルが立ち上がる。
「そんな組織は存在しない。」
「表向きはな。」
「……。」
「だが、十年前。」
「私たちは、その組織と取引した。」
レオンが尋ねる。
「何のために?」
「物流改革を成功させるためだ。」
「それなら、なぜ私を失脚させた?」
「アーク・レギオンが条件を変えたからだ。」
「どんな条件?」
ヴィクトルが答える。
「中央倉庫の完全支配。」
アルトは息を呑む。
「……最初から、それが目的だった?」
「違う。」
「途中から変わった。」
「なぜ?」
「物流改革が想像以上に成功しそうだったからだ。」
ヴィクトルは続ける。
「物流が変われば、国の金の流れも変わる。」
「それを理解した人間がいた。」
「そして、中央倉庫を握れば、国の経済そのものを操れると考えた。」
アルトは黙る。
それなら、全てが繋がる。
父の改革。
中央倉庫。
商務院。
帳簿。
そして十年前の失脚。
「でも、一つ分からない。」
アルトが言った。
「何だ?」
「あなたは、なぜ止めなかった?」
ヴィクトルは黙った。
「あなたは最初、父さんの改革に賛成していた。」
「だったら、途中で止めればよかった。」
「……。」
「止められなかった?」
ヴィクトルが目を伏せる。
「そうだ。」
「なぜ?」
「私の家族が人質に取られた。」
空気が凍った。
「……家族?」
「ああ。」
「誰に?」
「アーク・レギオンだ。」
アルトは拳を握る。
「だから、父さんを裏切った。」
「違う。」
「守ろうとした。」
「だが、その結果、お前の父親を犠牲にした。」
レオンはしばらく黙っていた。
そして――。
「……そうだったのか。」
ヴィクトルが顔を上げる。
「許してくれとは言わない。」
「当然だ。」
レオンは静かに答えた。
「だが、理由は分かった。」
「レオン……。」
「私も家族を守ろうとした。」
「お前もそうだったんだな。」
ヴィクトルは何も言えなかった。
アルトは二人を見る。
十年前。
敵だと思っていた二人は、実は同じものに追い詰められていた。
そして――。
その中心にいる組織。
「アーク・レギオン。」
アルトが呟く。
「僕たちは、その組織を止める必要がありますね。」
ダニエルが頷く。
「ああ。」
グレイヴも静かに言う。
「それが、十年前から続いている戦いの本当の目的だ。」
エリシアが不安そうに尋ねる。
「でも、その組織が王宮の中にもいるなら……。」
「簡単には動けません。」
アルトが答える。
「だから、正面から潰そうとしない。」
「では?」
アルトは帳簿を指差す。
「証拠を集める。」
「一つずつ。」
「商会。」
「倉庫。」
「金の流れ。」
「人の流れ。」
「全部を繋げる。」
ヴィクトルが笑う。
「君は本当に、父親に似ている。」
「でも、一つだけ違います。」
「何だ?」
「僕は、最初から敵を一人に決めません。」
「味方になれる人は、味方にします。」
ヴィクトルがアルトを見る。
「……私もか?」
「もちろん。」
「私を信用するのか?」
「まだです。」
「では、なぜ?」
「あなたには、僕たちと同じ敵がいる。」
「それだけで十分です。」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり手を差し出した。
「ならば、取引しよう。」
アルトも手を差し出す。
「はい。」
二人の手が握られる。
「ただし。」
アルトが言った。
「条件があります。」
「またか。」
「はい。」
「何だ?」
「今度は、絶対に一人で抱え込まないこと。」
ヴィクトルが目を見開く。
「……分かった。」
商談成立。
十年前、失敗した商談が。
十年の時を経て、もう一度動き始めた。
だが――。
その時。
倉庫の外から、馬の蹄の音が響いた。
ヴィクトルが振り返る。
「……まずい。」
「どうした?」
「私の護衛ではない。」
ダニエルが窓へ近づく。
「誰だ?」
通りの向こう。
黒い外套を着た男たちが、こちらへ向かって歩いてくる。
その数――十人以上。
そして、その先頭には。
見覚えのある紋章があった。
アーク・レギオン。
アルトは静かに息を吐いた。
「……向こうから来てくれましたね。」
レオンが剣を抜く。
「アルト。」
「はい。」
「今度は商談で済むか?」
アルトは少し考えた。
「……たぶん。」
「たぶん?」
「営業課長として、最大限努力します。」
レオンが呆れた顔をする。
「そこは『任せろ』と言え。」
「じゃあ――。」
アルトは目の前の敵を見据える。
「任せてください。」
十年前の事件を操った組織。
アーク・レギオン。
その姿が、ついにアルトたちの前に現れた。
営業メモ①⓪⑥
「大きな商談ほど、相手の表面的な要求だけを見てはいけない。『なぜ、それが欲しいのか』『それを失うと何が困るのか』まで掘り下げると、本当の交渉材料が見えてくる。相手の本当の目的を理解できれば、敵対していた相手とも利害を一致させることができる。」
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次回予告 第百八話「営業課長、裏組織と商談する」
目の前に現れた、アーク・レギオンの構成員たち。
その目的は、十年前の帳簿。
「その帳簿を渡せ。」
「嫌です。」
「ならば力ずくで奪う。」
「それは困りますね。」
アルトが提示した、意外な取引条件。
「あなたたちが僕に情報をくれるなら――。」
「僕も、あなたたちに欲しいものを渡します。」
しかし、アーク・レギオンには、アルトがまだ知らない秘密があった。
そして、その秘密には――母セシリアまで関わっていた。




