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乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


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あの一輪の白百合の咲いてゐた庭

きのふはたまたま雹が降つて硝子の温室つきの庭を無残に破壊した。けふの庭は湿気てゐてあまりに花のにほひがきつい。

ちいさななめくぢがいつぴき千々に砕けた硝子のうへを這つてゐる。

どこを指すか。どこへ振れるか。てろてろ揺れる触角は。偶然が偏り語りはじめるところ。どう描くか。どう塗るか。鈍く光る迂曲は。画とも文字ともつかず走る筆のやうに。いつまでもみてゐて厭きない微々としたうごき。なめくぢというひとつの謎。

なめくぢの這つた道の痕は一輪の白百合へつづく。たうたうやさしく白百合の花びらをかじつた。たまたま一輪無傷だつたその一輪の中央のひとひらを。薄曇りの空の下にみてゐる顔と白百合となめくぢが一線にならんでゐる。ここにつながりがあるならなにがつなげてゐるのか。雹はとつくに溶けて水たまりとして庭に点々してゐる。花のにほひもうすれた。雹と花のにほひとにつながりがあるならなにがつなげてゐるのか。

なめくぢは花びらを喰ひ尽くして硝子のうへをのろのろと去つた。みてゐるあいだに塩を蒔く気はつゆとも起らなかつた。なめくぢが溶けても白百合にはならない。雹が氷結しても硝子の温室にならないやうに。もうあのかぐわしいかほりはもどらない。それになぜなめくぢほど愉快なものに復讐などすべきだらうか。けふつがひの獣が庭を蹂躙していつたのだ。雹が豹ならなめくぢは獅子だつた。なめくぢと獅子につながりがあるならなにがつなげてゐるのか。

美に領されて完全と思われた庭は偶然と曖昧に壊し尽くされ塗り尽くされ喰ひ尽くされた。嘆きはなかつた。お陰で庭はますます謎を孕んでゐた。美もなお不在のままでそこにあつた。

庭はもう昔のすがたも語れなければいまのようすも言へない。蹂躙されてからかれこれ百年間は黙つて湿気をたもちかすかな花のにほひと泥のくさみとをただよわせてゐる。せめてあの獅子が鬣に白百合を挿してふたたびひとつの美としてこの庭に顕現しないかと待ちつづけて。

硝子の温室つきの庭の中に白百合があつたのは雹が降つた一日前だけかもしれなかつた。温室にはほかにも無数の花があつた。雹となめくぢとが一輪の白百合から時間を奪つてしまつた。庭にも時間は流れてゐない。つねにあの一輪の白百合の咲いてゐた庭と呼ばれてゐるから。

白百合を喰むなめくぢを嬉しさうに眺めていた顔は千々に砕けた硝子の温室の中央で月のやうにぼうつと浮かびながらなにを待つか。美ではなく謎を。顔は庭とちがつて夢をみない。顔が待つのは獅子ではなく白百合ではなくなめくぢ。いくつもの庭で銀の道をのこし幾輪もの白百合を喰つて生きるひとつの謎。

美と謎とは獅子の中にあるのか。それともなめくぢに。みな呼び名がちがふだけで同じもの。てらてらとつづく銀の道。

けふ硝子のしたの泥の中から白百合が咲いた。ちやうど顔の目の前で。明日はひさしぶりに雹が降つてくるだらう。明後日には庭には一日だけ時が流れるだらう。 ひとつの美か謎がやつてきて。画とも文字ともつかず走る筆のやうに偶然が偏り語りはじめるその日。

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