埴谷雄高Ⅳ(狂えるゾシマ)
「肯定的解決がなければ、否定的解決も決してありえない」という、『カラマーゾフの兄弟』の人物「ゾシマ長老」の言葉が、最も印象に記憶される。
長老ゾシマのこのテーゼを敢えてひっくり返し、
「否定がまず徹底されたのち、肯定が姿を現す」
と意気込んだ、いわば「狂えるゾシマ」こそ、埴谷雄高であり、その書『死霊』の駆動エンジンたる「自同律の不快」であって、その目的点である「虚体」を在らしめる或る力なのであろう。
『死霊』において否定の力は貫徹される。その予定された結末部では、釈迦とジャイナ教の教祖・大雄の深遠な対話が描かれようとしていた。その対話において、太雄は釈迦の論を悉く否定し去り、否定に否定を重ねたあげく、自らも砂のように崩れ消えてしまう。大否定者はかくして否定者自身をまた否定する。埴谷は「否定者には根拠が無く、自ら崩れ去る大雄はまさにその無根拠を体現している」といった「自己解説」を述べている。
『死霊』において、「狂えるゾシマ」のテーゼは何をもたらすか。ここに肉体的な父殺しのモチーフは顕在化せず、重要人物それぞれの「大審問官ばり」の長大な独白が濃く垂れこめる霧の帳のごとく作品の総体を覆っている。一見ほほえましい挿話、黒川と蝙蝠の屋根裏部屋での交流や、あの姉妹の存在、なにより津田夫人が切り盛りするどこかしら「愉快」な会話劇、こうした詩的場面も、けれどもどこかこの世ならぬ、幽玄霊妙な愛すべき冷ややかさをもって演じられる。
「狂えるゾシマ」、根本的な駆動力の「逆回転」によって、『死霊』は無二の黒い宇宙を、「文学空間」に留まらぬ、文字通りの「宇宙空間」に初めて投げ入れた、「人類挽歌」「存在哀歌」の書である。




