表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乞う路傍の雪以下なら夢と仰せ  作者: 杜若表六


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/76

『1Q84』に感じた偶然

『1Q84』を読んでいると、不思議な感覚にとらわれる。既視感というか、なんというか。これは私だけではないだろうけど、とても読みやすく、驚くほどすらすら頭に入ってくる。で、どこかで読んだ文体だな、と感じる。

それで思うのが、この小説はすくなくとも自分にとってはひっくるめて同時代小説なんだな、という感想だ。作中の時間は1984年。私は生れてすらいないが、この作品に流れる雰囲気というか物語の展開というか文体の感じというかリアルとフィクションのにおいというか、なんともドンピシャリと入り込める/入ってくる。空気か水かなにかのようだ。もちろんそのぶん、何か胸を揺さぶるような深い感動やハッとする洞察などはまったくといっていいほど感じない。文章・構造・技術のある種の意図への集中の見事さ以外に、何も驚くところがない(けっこう多くの要素に驚いてるじゃないか。小説とはそれらの要素以外にないともいえるじゃないか。とセルフツッコミ)。そういう狙いで書かれていないのだと思うし、そういうものが受け取れないほど身近に寄りそって書かれている小説に読むのだ。難しい言葉でいえば無意識に沈み込むようなメカニズムによって書かれているのだろう。なんらかの魂の変化を促す小説なのだろう。もちろん最後まで読めばこの感想は変わりうるだろう。

この小説が書かれた2009~2010年というのは、私にとってまさに私が形成されゆく時期であり、世界的にはリーマンショックがあったとかなかったとかそういう時期である(ググったら2008年だった)。同時期に『1Q84』を読んでいたらどう感じただろうか。わからない。実際の私はそのころなにを読んでいたのだろうか。覚えていない。古い記録にあるだろうか。→[覚えている限りの読書歴]

私にとって最大のショックなのは、この小説の文体と構造が昔書いた自分の小説(『まだら牛の祭り』など)に私からみて非常によく似ていることである。文体はそのとき(2014~2019に書いていたころ)すでに流行りの文体であったかもしれず、私もその模倣の模倣をしたにすぎないのかもしれない。内容も村上春樹の作品をいくつか読んでいた私にとっては無意識的な反映だったのだろうか。だがさすがに登場人物の名前と職業がぴったり同じだったときは少しぎょっとした。しかしこれも、どこかで批評文でも読んで無意識的に覚えていたのかもしれない(というか考えてみればこれが一番偶然らしい偶然だ)。ただしいくらモチーフが似ているといっても、その処理の仕方/方法は拙作とはとうぜんまったく異なったものになっている(おそらく結末も)。web上に連載していたから、たぶんちらっと読んだ人は『1Q84』を模倣したのかな、と思っただろう。私の小説はまったく評判になるはずもなく、ネットの海に漂っているが、それにしてもおそらくこの妙な[シンクロニシティ]を感じられただけでも書いた甲斐があるというものだ。先行者・村上春樹によって私の勘働きもあながち見当違いではなかった、と肩を叩かれるような気がして、ありがたいやら気恥ずかしいやらである。私としては身の回りやネット上の遠い・近しい人に村上春樹が目の敵にされたり神のようにあがめられたりとにかく意識して模倣されたりしていたから、私はナンとなくそのセンセーショナルな風潮に対して距離を置くと同時に彼の作品自体にも距離を置いていたのだ。それにそのころは三島由紀夫や埴谷雄高、また海外のドン・キホーテなどの今でも関心がある文学に触れていたころだったから、『1Q84』のヒットは対岸の祭りのようなものだった。私は関心を持ちつつもなんとなく読まずにいたのだった。その後、たぶん小説を自分でも書いていた頃だと思うが、ブックオフで六巻の文庫版を手に入れたのだった。それでもなかなか読む機会を持つことなく、最近ちょびちょびと読んでいるのである。つまるところ十年以上の歳月がこの作品とのあいだにある。その間にこの作品に対する多くの言説も見てきた。それは私なりの細々とした偏見を私に植え付けたが、いざ読んでみると私は上述の理由でたいへんな驚きと妙な感覚を覚える。私の小説遍歴のようなものは、『1Q84』を読まないことでずいぶんと変わったのだろう。

しかし、山場を過ぎると少しうんざりしてきた。暴力を扱うにしろ、性を扱うにしろ、材料がオカルト(神話)だから、非常にマジカルな寓話になっている。つまり、何らかの価値を変えるように仕向けられた装置なのだ。これは明らかに近代小説とはいえないだろう。いうなれば現代的な結構の魔術書である。これは、ものの見方を変えるということとも通じるが、その変える先が非常にプリミティブである。この小説の意図するところに従えば、前進ではなく、前に戻るのだ。

文学に新たなものを求めるか、予めある大事にしたいものを求めるかは、読者それぞれだろう。『1Q84』は後者だ。その価値、その表現、その見方について、あまりにも新しい発見がないので、かえってこの作品がいずれ古典の位置を占めるかあやしい。

つまり村上春樹の創り出すゲームのルールに参加するかということだが、このあからさまさにはとても参加する気にはならない。ここまで長い理由は、ひとえに、物語の物語、読者のイニシエーションを狙っているとしか思えない。そして(小説内の)リアルとフィクションを接合したためにかおる異臭が、ちょっと受け付けられない。我々がすんなり受け取るには、技法の時代が戻り過ぎている。中世の祈祷書のような戦略だと思う。その限りにおいてはよくできた拵えだから、作品として評価されることはあるだろう。この小説を深く読むということがあれば、それはひたすら技術の問題、いかに書かれているか、いかに表現しているのか、ということが焦点になるだろう。この小説だけを見ていけば、他の様々な小説のように、それは無限にあるかもしれない。その結論は、その読みは、恐らくこの小説を脅かさない。つまり読者がこの小説をくつがえすことができない、という事態が発生する。何となれば、技術ばかりを見ていくのは、或る任意の聖典のレトリックを吟味し、信仰自体を吟味することをしない試みに似るから。恐らくその試みは一つの正しい解釈、一つの正しい結論を生み出すが、それはあらかじめ作品内にコード化され内包されていたテクニックとしての古めかしい価値観・見方である。それは後ろ向きに進む機械だ。というより、その秘められたものが自明のものである点で、一ミリたりとも進まない駆動機だ。再生産が可能な道徳は、極めて現代的だ、そういう意味では。だがそれを乗り越えるための批判精神に欠けている点で、やはり既存のゲームであり、それに参加できる者を選別し、選別される。だから、人にこの作品や作家の評価を訊かれることがあったりしたら、なにはともあれ「よくできた小説です。とてもうまい作家です」と答えるだろう……答えるしか表現の仕様がない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ