可能性と終わり
ロベルト・ムージルはヨハネス・フォン・アレッシュ宛1931年3月15日付の書簡でこんなことを書いている。同時代の作家で、トーマス・マンは百科全書的な方向(たとえていえば鮫の胃袋)に、プルーストやジョイスは解体(もしくは溶解)の方向に走っているが、自分は統合へと志向している、と。
彼は自らの道の正しさを信じて疑わなかったようだが、志半ばで死んだ。『特性のない男』は未完のまま残された。第三の道を自認するムージルの態度は様々に解釈されるだろうが、結局、彼の名はマン・ジョイス・プルースト(また、ムージルが編集者時代にその才能を認めたカフカ)に比べると一般に知られていない。
これはヨーロッパ内の話だが、これを発展させて世界文学というものを考えてみる。今の時代というものを考えてみる。もうすぐノーベル文学賞が発表される(今年は不祥事のあった昨年の分も入れて二名に授与されるらしい)。
そして、上記の作家の内、この賞を受け取ったのはトーマス・マンのみ。私は、マンの強みは該博な知識というよりもその知識を物語として描く能力――つまり読み手を騙す詐欺師的能力にあるという見方を支持しているが、銀行員(生活者)と芸術家との二元的な調和を計った彼は、しかし現代においては(芸術的な意味でも、世俗的な意味でも)成功をしなかっただろう。そもそも彼のような作家が生まれるとは考えにくい。それは次のような理由からである――今や時代はジョイスやプルーストの(意識的にせよ、無意識的にせよ)試みた、解体の方向に舵を切ったからである。
余談:我々同時代人を見ていて思うのだが、我々は本当に解体が上手い。それしか能がないくらいだ。分析したり批判したりする能力は優れているものの、では何かを生み出すことができるかというと、それは難しい。かといって今更トーマス・マンは古い。かのノーベル賞候補らしい作家も、「トニオ・クレーゲル」を古臭いと評したそうである。とくにたいした小説でもないよな、とも。私は彼のこういったものの言い方に非常に同時代性を感じる。彼を好きではない人でさえ、こういった言葉づかいをするのをよく見る。トルストイではないが、「現代の我々はみな幸福で似通っている」なんちゃって(余談終わり)
解体とは、「今まで信じられてきた価値観や尺度が意味を成さなくなり、なにか無機的な、ニュートラルなものに変質してしまうということ」である。百科辞書的であるということは、あらゆる知識を得たように思わせるほどの該博な知識を総動員し、もう一つの世界を造り上げるようにみせることである。
これらの方法は一見対立する。解体が進んだ結果、人間の持っている知識の価値というものは変質してしまったように思う。統合とはおそらく、これらの方法を止揚し、《現在を解体しつつ新たな世界観を提示する》試みである。ムージルは現に在るものごとの裏に隠れている、無数の可能性に着目した。それを感じ取り、まったく別の新たな世界を志向する「可能性感覚」を提唱した。
私は主流となっている現代の世界文学をあまり知らない。しかし全体として、それは決して統合を志向してはいないだろう。文学の向かっている方向は、更なる解体か、更なる知識の拡張だろう。おそらくその両方である。様々な価値観は相対化され、無機質な情報と化すだろう。しかし私は文学が終わってしまうとは考えていない。
それは次のような理由である。つまり、第二次大戦前から戦後にかけての時代の中で活動した上記の作家たちは、彼らなりに時代の抱える問題を書き、それまでの文学を「終わらせた」。言葉には終わらせる作用がある(by三島由紀夫)から、正確にそれが描けていれば文学は一旦は完成し、次の時代が始まる(それが解体であるにせよ。何もないところにはどこからか何かが流れ込んでくるわけだ)。
しかし私はそのような文学の機能は失われたと考えている。価値観の解体を繰り返し、知識が情報化していく中で、文学は自己反省する作用を剥奪され、それによって進化が止まったのだと考える。そしてそのことを理解し、批判している人たちでさえ、おそらく解決できない問題であると思っている。
なぜなら、今の人たちには、書くということ以外にも色々な選択肢があるし、書くという行為しかないということはないからだ。そしてなにより、誰が何を、どんなに文学にとって致命的な文学を書こうとも、それを効率的に解体し情報化する速度は上がっており、次の瞬間にはそれ自体が「終わっている」だけで、文学それ自体に影響を及ぼすことはないからである。
余談:ちなみに、私は人の意識とか、時代の状況とか、文学界だとか、何かを変えたくてこの文章を書いているわけではない。書くと思考が整理できるから書いているのである(余談終わり)。
結論としては、現代において、我々は文学というものに価値を見出すことはできないが、望むならいつまでも書き続けることはできる。それは文学自体がその本質的な作用(終わらせる作用)を失ったからである。文学という呼び方さえ検討すべきかもしれない。しかし、文学というものに限らず、様々なものを統合し可能性を見出していく試みは、不特定の誰かによって続いていくものと思われる。なぜなら、ムージルの言う「可能性感覚」は文学の特権ではないからである。それは一種の開かれた価値観であると私は見ている。




