2. 馬は家に
翌朝、老執事の案内で厩へ来ると、家宝の馬にはもう轡が掛かり、脇に厩の者が控えていた。藁と革の匂いが、喪服の裾にまで絡みつく。持参した手紙を袖へ寄せた私の前で、長兄は買い手へ大きく頷く。
「父上の代から俺が進めてきた話です。三百金貨でお売りします。妹も来ましたし、もうお待たせしません。さあ、連れていってください!」
栗毛の首筋が、差しこむ朝日を弾いた。父が遠乗りのたびに首を叩いていた馬だ。そこに置かれる父の手だけが、もうない。
馬へ近づいた私は、鼻息に押されて一歩退いた。手紙を引くと、鼻先も付いてくる。困る。家宝のほうから証拠を食べにくるとは、思ってもみない。
「すみません、手綱を持っていてください。私はまだ、この馬に待ってもらう頼み方が分かりません。話をする前に、噛みつかれそうです」
厩の者が馬の横へ回る。
「ここで待たせます。紙を少し離してお持ちください。食べ物と思っているようです」
角を隠すと、鼻先が止まった。湿った温もりが手の甲をかすめ、ゆっくり離れていく。私は折り目を撫で、買い手の顔へ目を上げる。
父の机で読んだのは、この買い手から届いた売買条件の手紙だ。現当主の承諾がなければ受け取らない、とある。父から承諾の返書は出ていない。その文面も、折り目にかかった文字も覚えていた。
原本を開くと、朝の光に文字がくっきり浮かぶ。馬から離れ、私は買い手へ差し出した。
「こちらの条件は覚えています。当主の答えがなければ、馬は受け取らないとありますね。誰が何を承諾したか確かめたいので、今回の売約を見せていただけますか?」
馬の買い手が上着から売約と保証の一筆を取り出す。
「昨日の午後、当主様の承諾は済んだと伺い、前金三十金貨をお渡ししました。馬は受け取れるのですか?」
承諾済み、と大きく書いてある。その下にあるのは長兄の署名だけだった。昨日の午後、私は礼状の宛先を分けていたのだ。その間に、まだ口にしていない私の答えが、兄の字で決まっている。
私は売約の端を揃えた。兄の顔まで目を上げてから、声を出す。
「渡すのは馬ではありません。お兄様が先に受け取ったお金です」
長兄が私の前を塞ぐ。朝日を遮った肩の向こうで、馬の革具が鳴った。
「客を呼んでからそんなことを言うな! 俺がどれだけ話をしてきたと思っている? 今になって駄目だなどと、お前が言うのか!」
持ち上げかけた売約が、兄の上着に触れそうになる。私は下げずに持ち直す。
「お話をなさったのは分かります。でも、それは私が売ると言ったことにはなりません。私の答えまで、お兄様が決めないでください」
兄は私の肩越しに買い手を見て、売約を叩いた。乾いた音が、言い終えたばかりの言葉に重なる。
「父上の馬だからこそ、俺が値を付けたんだ。持っているだけの馬を金に替える。家のためだろう! 何が不満だ!」
私は叩かれた端を押さえる。声の出だしが細くなった。そこだけを言い直し、兄へ続ける。
「家のためでも、書いていない答えは足せません。お金を受け取ってから私に頷けと言うのは、違います。私は売ると答えていません」
兄が腰の袋を押さえた。袋のふくらみを隠すように、肘まで身体へ寄せる。
「今ここで返せと言うのか? 話を付けた俺の面目はどうなる! お前はそれで済むだろうが、俺はどうすればいいんだ!」
売約の縁が手に食いこむ。私は裏返りかける声を、言葉ごとに区切った。
「買う方のお話を聞いてください。条件をお持ちなのは、あちらです」
買い手へ道を空けると、厩先から杖の音が近づいてくる。
散歩の途中らしい祖母が、背筋を伸ばして馬を覗く。小柄な姿の上で、銀白の結い髪が朝日に光る。
長兄が祖母の前へ回りこんだ。私へ張っていた声を、そのまま祖母へ投げる。
「お祖母様、俺がまとめた話なんだ。客の前で、こんなのはあんまりだろう? 家のための売買だって、リスベートにも言ってやってくれよ!」
祖母は携えた菓子包みから薄焼きを選び、目尻だけで笑った。馬へはやらず、自分で齧る。
「面白いほうに付く。今日はまだ決めないよ」
面白いほうに付くと笑う祖母オトガルトは、今日もどちらの味方もしない。
お祖母様、と頼みかけて、私は口を閉じた。買い手まで祖母へ顔を向けている。この家では、困ると皆がまず祖母を見る。私の唇にも、その呼び名が残っている。
売約に当主の答えがあると言ったのは、兄だ。当主の答えが要ると示すために持ってきた手紙を、私は自分の手元へ重ねた。揃わない角を直してから、買い手を見る。
「私からお伝えします。この馬は売りません。兄の保証にある承諾は、私のものではありません。お越しいただいたのに申し訳ありませんが、馬をお渡しすることはできません」
「なんでだよ!?」
長兄が噛みついてくる。
「このお父様の馬は我が家の家宝です。他の方とも相談せねばなりませんし、価格の妥当性もまだ検討していません。今、この場で売るわけにはいきません」
「くっ……」
長兄は何か言いたげではあったが、口をキュッと結んだ。
馬の買い手が渋い顔で、保証の一筆を長兄へ向ける。
「ご本人の返事と違います。承諾済みという保証で交わした売約は取り消します。前金をお返しください」
長兄の袋が鳴った。結び目を解こうとする手が、紐を引っ掛けている。兄は買い手へ袋を見せるように持ち上げる。
「そんな顔で見るな! ……まだ使っていない。返せないわけじゃないんだ。今、出すから……」
祖母が菫色の目を袋へ向けた。高い頬骨の上で笑い皺が深くなる。
「使う前で良かったじゃない。ほほほ」
長兄が袋から金貨を出し、馬の買い手の手へ移す。馬の買い手は数え終えた金貨を、自分の財布へ収めた。
「三十金貨、確かに。これで引渡しはいたしません。この保証はお返しします。申し訳ありませんでした」
長兄は自分の書いた一筆を受け取り、買い手へ頭を下げる。
「……俺が先走った。遠くから来てもらったのに、すまなかった」
買い手が売約に取り消しの一筆を添えて収め、去っていく。兄は空の袋を腰へ戻す。だらりと垂れた袋の口から、私は目を離した。馬の通る場所を空けると、握っていた手紙の端が小さく震える。
厩の者が手綱を引いて、馬を元の場所へ戻す。
「いつもの世話へ戻してよろしいでしょうか? 餌も、まだこちらに用意してあります」
私は頷いた。言葉も添えようと口を開くと、さっきまで押し出していた声が、思いがけず弾む。
「はい、そのままお願いします。……残りましたね! 馬も、食べる場所も。よかった」
馬は私を待たずに餌へ向かう。こちらには見向きもしない。食べる場所へ帰れたなら、それでいい。飼い葉を食む音を聞きながら、私はようやく手紙を握る力を緩めた。
老執事が私へ身体を向け、腰を折る。
「当主様。次の用件をお話ししてもよろしいでしょうか?」
畳みかけた手紙の端が、うまく重ならない。当主様。その呼び名を受け取るまでに、私はふと老執事の後ろを見てしまった。そこには、朝の光が差しているだけだ。
昨日まで、この人は私をお嬢様と呼んでいた。父を呼ぶために使われていた言葉が、今は私の答えを待っている。私は折り目を揃え、顔を上げる。
「はい、聞かせてください。馬のことも、これからは轡を掛ける前に、私へ知らせていただけますか? 私がここへ来て、話を聞きます」
老執事が頷き、玄関の方へ手を向ける。
「承りました。明朝は、使用人たちが働く先について話し合います。先方からも、人を取り仕切る方がお越しです」
畳んだ手紙を袖へ寄せる。馬の話が終わったばかりの手に、次の用件の重さが残った。私は老執事へ言葉を返す。
「私が玄関で会います。働いている方々の雇用の証文を、出しておいてください。お会いする前に、私も確かめておきます」
祖母は菓子包みを畳み、散歩へ戻る。
喪服の袖を見下ろせば、まだ藁が付いていた。私はそれを払わず、奥へ帰る馬の尾を見送る。家に残るものの匂いが、袖からかすかに上がってくる。




