1. 私の名前
父の葬儀の翌朝、遺言状の封が切られた。
昨日の弔問の百合がまだ匂う書斎で、割れた封蝋を囲むのは、私と長兄、三兄、叔父だけだ。長兄は撫でつけた赤茶の髪の下で襟を直し、厚い胴で遺言状を隠すように覗きこむ。
「何だこりゃぁ!? 女に家督は継げない。父上の書き損じだ」
当主の欄にあったのは、三人の兄の誰の名でもない。末娘リスベート、私の名前だった。
三兄が蜂蜜色の巻き髪を揺らして身を寄せる。しなやかな身体を傾け、長兄の肩越しに細い顎を突き出して、遺言状と私を見比べた。
長兄ディートヘルムが声を上げて笑い、三兄ラドルフがそれに続く。優しく言ったのは、叔父ヒエロニムスだけだ。
「形だけでいい。実務は私が見てやろう」
笑いが止む。引き受けます。その短い言葉が、唇の内側でほどけてしまう。押さえた遺言状が滑り、叔父が広い肩を屈めて拾った。
叔父の、耳へ流した黒髪の下で、柔らかな眉が上がる。差し戻された遺言状には、やはり私の名がある。相続人の欄にも、私だけ。最後の夏の父の字は細く震えているのに、私の名だけは一画ずつ押さえるように太かった。
三兄が私の顔を覗きこむ。
「そんなに睨むなよ。叔父様が助けてくださるんだ。難しいことは頼めばいい。君は字がきれいなんだから、礼状を書いてさ。ほら、お礼は?」
琥珀色の目は、黙っていると睨んで見えるらしい。私は眉を緩めようとした。うまく動かず、喪服の襟だけを首に冷たく感じる。
「……睨んでは、いません。まだ読み終えていませんから」
けれど、父の名で出た手紙と証文を十年書いてきたのは、書記を務めた私だ。
港の荷の出入りも、取引先の奥方の誕生日も、兄が隠した借金の額も、全部覚えている。
長兄が父の机を叩く。
「父上は家計を俺に任せるつもりだった。当然だろう。この机ごと渡せ。お前は俺の言うとおりに書けばいい。俺が立て直してやる」
私は遺言状へ目を戻す。
「継げないとは書いてありません。どこにそう書いてあるのですか?」
私の前で、兄は遺言の末尾を爪で弾いた。
「父上の最後の字を見ろ。こんなに乱れて! もう、まともに考えられなかったんだ。当主の名を間違えたんだよ!」
私は震える字を端から端まで辿る。最後まで書き切られた自分の名の下を押さえる。
「父は書き損じると線を引いて私に書き直させました。この遺言には、その線がありません」
兄は机を叩き、私の言葉を遮る。
「線がないから何だ! 父上が弱っていたのは、屋敷の誰もが見ている! お前だって見ただろう!」
私は末尾を押さえたまま、顔を上げる。
「はい、弱っていました。けれど、お兄様、震える字と間違えた字は違います。ここには、私の名があります」
兄は引き出しへ手を伸ばす。
「いいから机を渡せ! 父上の仕事を写しただけのお前に、家の苦労が分かるか!」
写しただけ。その言葉で、遺言状の端を握り込んでいた。折ってしまう前に手を緩め、兄の手より先に引き出しを開ける。
父の机で、債権者の照会状を広げ、保証を断る返書の本文を書いた。署名は父。仲介の名はどちらにもないが、借り手の名と額なら覚えている。あの日の父は長いあいだ筆を持ったまま、署名の一行だけを書かずにいた。
折り目の深い照会状を選ぶ。借り手の名を隠さず、私は兄へ向けた。
「三千二百金貨。お兄様のお名前で借りたお金です」
声は小さい。それでも、数だけは震えずに出た。長兄は焦茶色の目を照会状に留め、張った頬の上で太い眉を寄せる。
「その紙を読むな! 兄の顔を潰すつもりか?」
私は返書の控えを横へ置き、机の筆を取った。兄の声が天井まで跳ねても、私の声はそこへ届かない。
「父は保証を断っています。お兄様の借りを家の支払いには替えられません。家計とは別の話です。当主が誰でも、そこは変わりません」
長兄は返書の控えを見下ろす。
「断ったのは父上だ! お前が口を出すことじゃない! 父上がいれば、お前なんかに!」
私は父の署名を示す。
「その返書の本文を書いたのは、私です。署名は父がしました。父が決めたことを、私に覆せとおっしゃるのですか?」
兄は照会状の額から目を逸らし、遺言状へ手を振る。
「父上の字を真似られるのはお前だけだ。遺言もお前が書いたんだろう! 何とでも書ける! 自分が継ぐと書けば済むんだからな!」
私は筆を置いた。机に触れるかすかな音が、やけにはっきり響く。
「父の字は真似られます。けれど、父が書かなかったことは一字も書きません」
長兄が顔を背けた。
「……口の減らない書記だ」
叔父が封と保管証を皆へ向ける。
「この封は私が皆の前で切ったね。立会人は、兄上が目の前で全文を書き、印で封じたと証しているよ。私たちも、その証に従おう」
長兄が封を睨んだ。
「……封は、確かに父上の印だ。だが、俺はまだ納得していない」
私は叔父へ手を差し出す。
「遺言を書いた日を確かめます。保管証の日付を、拝見してもよろしいですか?」
叔父は保管証を私に手渡す。
「もちろんだよ。お前が読むのが、いちばん早いだろう」
保管証の八月一日を見て、遺言状を引き寄せた。港の商談をした日だ。
なぜ父がその日に遺言を書いたのかは分からない。身内への返事と遺言は、父の自筆だ。開くまで一字も知らなかった紙に、私の名が書かれている。明日から何を書けばいいのか、父にはもう聞けない。
三兄は口を閉じ、金茶色の目を保管証から長兄へ移す。
私は照会状を長兄の側へ戻した。叔父が兄の肩に手を置く。
「借りの話は、家の者どうしで後にしよう。今は落ち着いて、ディートヘルム」
私は返書の控えを、照会状とは分けて置く。
「家の支払いと分けてくださるなら、私もそれで構いません」
叔父は黒褐色の目で私を見て、頷いた。丸い頬を緩め、礼状用の束に手を添える。
「弔問の礼状は一緒に整えよう。お前が宛先を分けてくれれば、文面を考えられるね」
私は礼状用の紙を分ける。
「そちらはお願いします、叔父様。ヨナタンお兄様は、今どちらに? 遺言のこともお伝えしないと」
叔父は頷いて紙の端を揃えた。
「葬儀の夜に書庫へ発ったよ。兄上の古い取引の控えを揃えてくるそうだ。戻ったら、私たちも一緒に確かめよう」
私は分けた礼状を手元へ寄せる。
「はい。戻られたら、控えを私にも見せてください。家の約束を確かめます」
家督の相続は、一年のうちに王の承認を受けなければ無効になる。
叔父が筆立てへ目をやりながら言い添える。
「承認は年に一度、九月一日の謁見だけだ。今年の謁見は、今朝もう王都で済んでいるね」
私は保管証から顔を上げた。
「では、私が承認を受けられるのは、翌年の九月一日だけですね。開封から一年目の日です。その日には、まだ間に合いますか?」
叔父が保管証を封に重ねる。
「そう、一年目の当日も数えに入る。家の債務と約束を引き受け、果たしたことを王へ話すんだよ」
三兄も遺言状を覗こうと残り、長兄は机から離れない。
「王が認めなければ俺が継ぐ。名が載っただけで、もう当主のつもりになるなよ」
私は机の縁を押さえる。
「はい。ですから、一年のうちに認めていただきます。名が載っただけで済むとは、思っていません」
兄たちは、その一年で私を当主の椅子から引きずり下ろすつもりらしい。
椅子を引くと、栗色のまとめ髪が背に触れた。喪服の細い肩にも、小柄な身体にも大きすぎる席だ。父の背に合わせた背もたれが、私の頭のずっと上まである。椅子は相続できても、父の足の長さまでは相続できない。私は座り直し、遺言状を手元へ寄せる。
「家の約束は私が引き受けます。お兄様方の暮らす席も残します。借りの支払いとは分けます。どちらも、この家の話ですから」
墨の残る中指を肘掛けへ掛けた。冷たい。こんなに大きな席なのに、父のぬくもりを探せる場所はない。ここへ座るより、隣に立っていたかった。
長兄が机越しに身を乗り出す。
「まだ家のことで言うことがある! 勝手に済んだ顔をするな!」
私は小さな顎を上げる。ここなら、遺言状も兄たちの顔も見える。机の向こうへ届くよう、私は言葉を区切る。
「どうぞ。一件ずつ、お相手いたします」




