【第3話】スピークイージーの夜
1921年6月。
ニューヨークの夏は蒸し暑い。アスファルトが熱を吸い込み、夕方になっても放出し続ける。リトル・イタリーの路地裏では、火災用の給水栓を開けて水を浴びる子供たちの叫び声が響いていた。
レオナルド・モレッティは、ハーレムに向かう地下鉄の車内にいた。
クリフに会いに行く。
あの夜——リトル・イタリーのスピークイージーでクリフの即興を聴いてから7ヶ月。月に二、三度、レオはハーレムのクラブに通っていた。クリフの演奏を聴き、時には並んで弾き、そしてジャズの構造を体で覚えていった。
(前世のDTMでジャズを「分析」したことは何度もあった。スウィング感はハネの比率で数値化できる。ブルーノートは♭3と♭7と♭5の3種類。テンションコードは9th、11th、13thの追加。——理論としては完璧に知っていた。だが「知っている」と「弾ける」は違った。クリフの演奏を聴いて初めて分かった。ジャズの本体は理論の外にある)
125番街で降りた。
ハーレムの空気はリトル・イタリーとは違う。通りを歩く人々の肌の色が変わる。教会のゴスペルが聞こえ、路上のギタリストがブルースを弾いている。ジュークジョイントから笑い声と安いジンの匂いが漏れてくる。
レノックス・アベニューの地下にあるクラブ。「エディのところ」。ここもスピークイージーだが、リトル・イタリーのそれとは雰囲気が違う。客の9割は黒人で、白人は——ほぼいない。レオのようなイタリア系が一人で入ると、視線が集まる。
(ここでの俺は「白人」だ。リトル・イタリーでは「イタリア人」として差別される俺が、ハーレムでは差別する側の人間として見られる。——この入れ子構造が、1920年代のアメリカだ)
だがクリフが紹介してくれたおかげで、常連の間では「クリフの連れの白い奴」として認知されていた。敵意はない。警戒はある。だが音楽の話をすれば、壁は低くなった。
「レオ。来たか」
クリフがステージの横で手を上げた。今夜のバンドはトランペット、クラリネット、ピアノ、バンジョー、ドラムの5人編成。クリフはピアニストだが、時々トランペットも吹く。
「今夜は少し新しいことを試す。お前も弾くか?」
「弾かせてくれ」
ステージに上がった。
クリフがカウントを出す。
四拍子のベースラインの上に、クリフのトランペットが乗る。ニューオーリンズ・スタイルの集団即興——だが、クリフのフレーズは伝統的な型に収まらない。音を引き延ばし、裏拍を強調し、メロディラインを意図的に「遅らせる」。
(レイドバック。フレーズを拍の後ろに置くことで、リズムに「引力」が生まれる。前世で100回分析して、理論は知っていた。だが生で聴くと——身体がどう反応するかが分かる。客の肩が揺れ、足が自然に動き出す。これが理論と実践の差だ)
レオはピアノで応えた。クリフのフレーズに合わせて和声を変え、テンションを加え、解放する。前世の理論知識と、この7ヶ月でクリフから学んだ呼吸感を、指先で融合させた。
演奏が終わった時、クリフが——初めて——歯を見せて笑った。
「お前、やっと息してるな」
「どういう意味だ?」
「最初に会った時のお前のピアノは——息をしてなかった。楽譜の上を走ってるだけだった。今は——少し、息をしてる」
(褒められたのか。たぶん褒められたんだ)
「まだ『少し』か」
「十分だ。白人でここまで弾ける奴は——そうはいない。お前の和声感覚は本物だ。問題はリズムの底が浅いことだが、それは時間が解決する」
クリフがビールを二つ注文した。密造ビールだ。味は——前世の発泡酒以下だった。
「レオ。一つ提案がある」
「何だ?」
「お前と一緒に曲を作りたい」
空気が変わった。
「俺のジャズと、お前のティン・パン・アレーの構造を——混ぜてみたい。お前の曲には骨格がある。俺の音楽には血が通ってる。合わせたら——面白いものができるかもしれない」
(クリフ・ジョンソンとの共作。ハーレムのジャズマンと、ティン・パン・アレーのイタリア系作曲家。1920年代に、黒人と白人が共作するということは——常識はずれだ。レコード会社は「レース・レコード」と「白人向けレコード」を完全に分けている。市場は分断されている。ブレナンが言った通り、「ダブルで不利」になる可能性がある)
(だが——前世の知識が告げている。1920年代後半から1930年代にかけて、ジャズは黒人音楽から「アメリカ音楽」へと変貌する。ガーシュウィンがそれを証明する。ベニー・グッドマンが人種の壁を越えたバンドを率いる。俺とクリフの共作は——時代の先を行くことになる。問題は、その先が「早すぎる」かどうかだ)
「やろう」レオは言った。「だが——すぐに売れるものは作れないかもしれない」
「分かってる。だが俺たちが面白いと思うものを作る。売れるかどうかは——後で考えればいい」
握手した。
(後で考えればいい——か。クリフ、お前はミュージシャンだからそう言える。俺はビジネスマンだ。「後で」が「いつか」を知っている。1925年に電気録音が来る。マイクを使った録音は音質を劇的に改善し、ジャズの微妙なニュアンスも収録できるようになる。その時——俺たちの共作は「売れるもの」になる。だがそれは4年後だ。今は——仕込みの時期だ)
■
7月。
新聞を開いた。
「サッコ=ヴァンゼッティ——有罪判決。死刑宣告」
7月14日。マサチューセッツ州の裁判所が、二人のイタリア系移民に有罪判決を下した。
レオは新聞を膝の上に置いた。
(来た。——知っていた。前世で読んだ通りだ。証拠は不十分。裁判は偏見にまみれていた。判事は「この被告たちは意識ある犯罪者である」と事前に述べていたという話もある。だが結果は変わらない。有罪。死刑。——6年後に処刑される)
リトル・イタリーの空気は重かった。
通りのカフェでは、老人たちがイタリア語で怒りを語っていた。「サッコもヴァンゼッティも無実だ」「アメリカ人は俺たちを殺したいんだ」「この国に正義はない」。
レオは黙って聞いていた。
(怒りは正当だ。だが怒りだけでは何も変わらない。サッコとヴァンゼッティは6年間の法廷闘争の末に処刑される。全米で、いや全世界で抗議運動が起きるが、結果は変わらない。——俺にできることは何もない。だが俺にできることがある。自分自身の戦いを進めること。金を稼ぎ、仕組みを作り、「イタリア人」というだけで踏みにじられない位置に——少なくとも自分だけは——たどり着くこと)
その日の夜。
リトル・イタリーのスピークイージーで弾いていると、見知った顔が現れた。
「よう、レオ」
サルヴァトーレ・コスタンツォ。サル。
幼馴染だ。レオナルド・モレッティの記憶に深く刻まれている名前。リトル・イタリーのマルベリー・ストリートで一緒に育った。サルの父はイタリア食材の八百屋を営んでいて、モレッティ家の仕立て屋とは通り一つ挟んだ向かい同士だった。
(サル。陽気で口が達者で、喧嘩っ早いが情に厚い。マルベリー・ストリートで一緒に育った幼馴染だ。典型的なシチリア系の気質)
「サル。久しぶりだな」
「3ヶ月も顔を見せないなんて、どうしてたんだ。お前がこっちの店で弾いてると聞いたから来てみたが——上手くなったな」
「金をもらって弾いてるからな。——お前は? 親父さんの店は」
サルの表情がわずかに曇った。
「まだやってるよ。やってるが——きつくなってきた。グランド・ストリートに大きい食料品店ができただろう。あそこに客を持っていかれてる。品揃えじゃ勝てない、値段でも勝てない。親父は『うちは顔なじみが来てくれる』って言い張ってるが、顔なじみだって安い方に流れる」
「お前が一人で回してるのか」
「俺と親父の二人だ。仕入れも配達も帳簿も全部。弟はまだ14だし、妹は嫁に行った。——俺が抜けたら店は回らない。だが俺がいても、じり貧だ」
サルがカウンターに座り、密造ジンを注文した。一口飲んで顔をしかめた。
「まずいな。戦前の酒が懐かしい。——で、お前はまだティン・パン・アレーの連中に曲を売ってるのか?」
「売ってる。25ドルで」
「25ドル?」サルが声を潜めた。「レオ、あの連中は楽譜にしてたんまり儲けるんだろう。お前の取り分がたったの25ドルか。——割に合わないだろう」
「知ってるよ」
「知っててやってるのか。——お前はいつもそうだ。頭はいいのに、商売が下手だ。親父さんもそうだった。いい仕立てをするのに、安く請け負ってばかりで——」
「サル」
「何だ」
「俺は、いつまでも25ドルで売るつもりはない」
サルがジンのグラスを置いた。レオの目を見た。
「……どういう意味だ?」
「自分の出版社を作る。曲の権利を自分で握って、自分で売る。ブレナンの下請けじゃなくて——自分の看板で」
サルは黙った。ジンのグラスを指先で回しながら、天井を見ている。
「……出版社。金は?」
「あと3ヶ月で300ドル貯まる。登記と最初の楽譜印刷に足りる計算だ」
「印刷して、それからどうする。ブレナンの流通網はないんだろう。楽譜を刷っても売る場所がなけりゃ、紙の山を抱えて終わりだ」
(——さすがだ。サルの頭は八百屋で腐らせるには惜しい)
「だから——お前の力が要る。交渉と集金と、リトル・イタリーの人脈。俺が曲を書いて、お前が売る」
サルが顔を上げた。
「俺を誘ってるのか。——だが俺には親父の店がある。今でもギリギリなのに、俺が時間を割いたら——」
「いきなり専業でとは言わない。最初は空いた時間だけでいい。夜と休みの日に営業を手伝ってくれれば十分だ。出版社の売上が安定して、お前が踏ん切りをつけられる数字が見えてから——その時に考えればいい」
「週給は」
「兼業の間は歩合だ。楽譜が売れた分から渡す。お前が専業に切り替える時が来たら——週25ドル」
「工場労働者並みじゃないか」
「最初はな。だが——俺の計画通りに行けば、1年以内に倍にする」
「計画。お前には計画があるのか」
「ある。大衆向けのヒットソングは水物だが、俺たちはまず、全国の無声映画館向けに『場面別BGMカタログ』の楽譜を直販する。確実に需要があるB2Bの商売で出版社の足場を固める。次にニッチな黒人音楽市場に食い込み、最後に——近いうちに来るラジオ放送の波に乗って、メインストリームをひっくり返す」
サルの目が微かに光った。ただの夢物語ではなく、最初のステップが極めて現実的な「商売」の顔をしていることに気づいたのだろう。
(この先9年間の本当の計画——電気録音を先取りし、株式市場で増やし、暴落で刈り取る——そんな未来のことまではサルには言えない。だが、直近のビジネスモデルに説得力があれば、こいつは動く)
「一つだけ教えろ」サルが身を乗り出した。「お前の曲を25ドルで買い叩いてるブレナンは、月にいくら稼いでる」
「出版社としての利益は——少なく見積もって月300ドルは下らない。曲を書く側と、権利を持つ側で、稼ぎの桁が違う」
「300ドル」サルの目つきが変わった。八百屋の息子が、初めて桁の違う商売の輪郭を見た顔だった。「——考えさせてくれ。三日」
「ああ。急がない」
(即答で飛びつかない。——そこが信頼できる部分だ。考えてから乗る人間は、乗ったら降りない)
——三日後。
サルがレオのアパートに来た。
「やる」
「親父さんには」
「話した。空いた時間に友人の仕事を手伝う、店は今まで通りやる、とだけ伝えた。親父は——『お前がやりたいならやれ。だが店を潰すな』と」
「分かった。——パートナーだ」
「ああ。——だがレオ、一つだけ条件がある」
「何だ?」
「俺の従兄弟のことは気にするな」
レオの手が止まった。
「従兄弟?」
「ヴィンセンツォ。お前も知ってるだろう。マルベリー・ストリートの——」
(ヴィンセンツォ・コスタンツォ。サルの父方の従兄弟。レオナルド・モレッティの記憶にある。子供の頃は一緒に遊んだが、十代の半ばからリトル・イタリーの「あっち側」に行った。つまり——マフィアだ)
「ヴィンセンツォがどうした」
「あいつは——フランク・マッシモの下で働いてる」
マッシモ。
あの夜、スピークイージーに現れた男の名前が、再び浮上した。
「マッシモの?」
「ああ。あいつはマッシモの組の末端にいる。チンピラだが——血は繋がってる。だからな、レオ。俺がお前と組んでビジネスを始めたら——あいつらが嗅ぎつけてくるかもしれない。みかじめ料を要求するかもしれない。だが俺は堅気だ。あいつらとは関わらない。それだけは——分かっておいてくれ」
(サルの従兄弟がマッシモの組織にいる。つまり——サルと組むことは、間接的にマッシモと繋がることを意味する。繋がりたくはない。だが——この街でイタリア系のビジネスをやる以上、マフィアとの接触は避けられない。問題は距離の取り方だ)
「分かった。気にしない。お前は堅気だ。それでいい」
サルがもう一杯注文した。
「よし。パートナーだ。——乾杯しようぜ。密造酒だが」
「密造酒に乾杯か」
「禁酒法の時代だからな。合法の酒はない」
二つのグラスがぶつかった。まずいジンだった。
■
8月。
アンジェロのスピークイージーで弾いていた、ある土曜の夜のことだ。
地下への階段を降りてくる足音が、いつもと違った。重く、ゆっくりで、それでいて迷いがない。
フランク・マッシモが現れた。
40歳。体格のいい男で、濃い眉の下に鋭い目がある。仕立てのいいスーツを着ているが、袖口のカフスボタンだけが安っぽい——金メッキが剥げかけている。マッシモの上には、もっと大きな組織がある。マッシモ自身は中堅の幹部で、スピークイージーを数軒と、ブートレガー(密造酒業者)のネットワークを一つ仕切っている。
取り巻きを二人連れていた。どちらもガタイが良く、上着の下に何か隠している。
アンジェロが背筋を伸ばした。
「マッシモさん。いらっしゃいませ」
「アンジェロ。いつもの」
マッシモはカウンターの中央に座った。密造ウイスキーがすぐに出てきた。上等な瓶だ——おそらくマッシモ自身の組織が仕入れたカナダ産の密輸品。自分の商品を、自分のスピークイージーで飲む。
レオはピアノを弾き続けた。視線を合わせないようにしながら、指だけを動かす。
(マッシモ。こいつは——危険だ。前世の知識にはないローカルな人物だが、レオナルド・モレッティの記憶が警鐘を鳴らしている。粗暴で短気。芸術への理解はゼロ。力と金でしか物事を測れない男。だが——この店のオーナーであるアンジェロは、マッシモの組織から酒を仕入れ、みかじめ料を払っている。つまり、この店で弾く俺も、間接的にマッシモの庇護の下にいることになる)
3曲弾いた。
マッシモがウイスキーを傾けながら、ちらりとレオを見た。
「あのピアノの小僧は誰だ」
アンジェロが答えた。「モレッティの息子です。仕立て屋の」
「モレッティ。——ああ、あの仕立て屋か。死んだな」
「3年前に」
「そうか。——で、腕は?」
「悪くないですよ。客にも受けてます」
マッシモが立ち上がった。ウイスキーのグラスを持ったまま、ゆっくりとピアノの方に歩いてきた。
レオは弾き続けた。ラグタイム風の軽快な曲。指は正確に動いているが、心拍が上がっている。
マッシモがピアノの横に立った。
「おい」
レオが顔を上げた。
「はい」
「お前、何を弾いてる?」
「リクエストはありますか?」
「リクエスト?」マッシモが鼻で笑った。「俺は音楽は分からん。だが——いい音か悪い音かは分かる。お前の音は悪くない」
「ありがとうございます」
マッシモがウイスキーを一口飲んだ。それから——
「いい腕だ」
低い声だった。褒めているのか、品定めしているのか、判断がつかない。
「俺のために弾け」
(来た)
「——マッシモさんの店で、ですか?」
「俺はミッドタウンにも店を持ってる。もっと上等な店だ。白人の客も来る。そこにピアニストが要る。週3回。一晩10ドル。悪くないだろう」
(一晩10ドル。アンジェロの店の倍だ。週3回で月120ドル。——金額だけ見れば破格の条件だ。だが意味が違う。マッシモの店で弾くということは、マッシモの傘下に入るということだ。みかじめ料の代わりに「労働」で上納するということだ。一度入ったら——出るのが難しくなる)
「光栄ですが——今はアンジェロのところと、曲を書く仕事で手一杯でして」
マッシモの目が細くなった。
「断るのか?」
空気が凍った。取り巻きの二人がわずかに身じろぎした。
「断るわけではありません。ただ——今は両立が難しいんです。もう少し余裕ができたら、ぜひ」
3秒の沈黙。
マッシモが、ふっと笑った。
「いいだろう。急がない。だが覚えておけ、モレッティ。俺は待てる男だ。だが——いつまでも待つわけじゃない」
マッシモがカウンターに戻っていった。
レオはピアノを弾き続けた。指は動いていたが、背中に冷たい汗が流れていた。
(断った。だが完全に断ったわけじゃない。曖昧にした。時間稼ぎだ。——マッシモとの関係は、いずれ何らかの形で処理しなければならない。暴力では勝てない。かといって永遠に逃げ続けることもできない。——別の方法で、この男を無力化する手段を考えなければ)
演奏を終え、地下から地上に出た。
夏の夜の空気が、ぬるい。
通りの角で、サルが待っていた。
「サル。聞いてたのか」
「外で聞いてた。マッシモが来たって聞いたから——心配で」
「大丈夫だ。断った」
「断った……」サルが息を吐いた。一瞬ほっとした顔を見せたが、すぐに眉を寄せた。「——だがレオ、あの男を怒らせたら……」
「怒らせてない。曖昧にしただけだ。時間を稼いだ」
「時間を稼いでどうする?」
「金を貯める。出版社を作る。マッシモに頼らなくても食える状態を作る。そうすれば——交渉の余地が生まれる」
サルが頭を掻いた。
「お前は……いつもそうだ。頭で考える。——だがレオ、あいつらは頭で考えない連中だぞ。拳で考える」
「分かってる」
(分かっている。だが——拳では勝てない。金でも、今はまだ勝てない。だが情報なら——いつか勝てる日が来る。連中は力と金で警察や政治家をねじ伏せているが、絶対に防げない「未来の弱点」を俺だけが知っている。この先10年で、連邦政府が本気で脱税を武器にする時代が来る。アル・カポネが最終的に投獄されるのは殺人でも密売でもなく、脱税だ。力でもねじ伏せられない相手が、いずれ現れる)
「行こう。帰って寝る。明日は曲を書く」
「明日は日曜だぞ」
「曲に日曜はない」
サルが肩をすくめた。二人で夜のリトル・イタリーを歩いた。
■
9月。
レオはクリフと2度目のセッションをした。ハーレムのクラブで、閉店後の深夜に。
クリフのトランペットとレオのピアノ。二人だけの即興。
弾きながら、レオは一つの確信を深めていた。
(クリフの音楽は——録音されるべきだ。この呼吸感、このダイナミクス、この即興の躍動。だが今のアコースティック録音では、クリフの音楽の半分も伝わらない)
アコースティック録音。
レコードの録音方式として現在主流のこの技術は、巨大なラッパ型のホーン(集音器)に向かって演奏し、その振動でワックスの原盤に直接溝を刻むものだ。マイクロフォンは使わない。
つまり、音量のバランスは「楽器とホーンの距離」で物理的に調整するしかない。トランペットが大きすぎればホーンから離し、ヴァイオリンが小さすぎれば近づける。ドラムは振動が大きすぎてレコードの針が飛ぶため、使えない。
(この録音技術では、ジャズの本質は記録できない。ダイナミクスの変化、ブラシの繊細なタッチ、ミュートを使ったトランペットの囁き——全部、ホーンの前で潰れてしまう。だが——あと4年で変わる)
「クリフ」
「何だ?」
「レコードの録音が——いつか、もっと良くなる時が来る」
クリフが怪訝な顔をした。
「良くなる? どういう意味だ」
「マイクロフォンを使った録音だ。ホーンの代わりにマイクで音を拾い、電気信号に変換してから盤に刻む。周波数帯域が広がる。ダイナミクスも記録できる。お前のトランペットの——あの息遣いまで、レコードに入る日が来る」
クリフが首を傾げた。
「マイクロフォン? ラジオ放送で使ってるあれか」
「そうだ。あの技術がレコード録音に応用される。——たぶん、数年以内に」
「お前、なんでそんなことを知ってる?」
「電気工学の雑誌で読んだ。ウエスタン・エレクトリックが研究しているらしい」
(嘘ではない。ウエスタン・エレクトリックは実際に研究している。4年後に実用化することを知っているのは俺だけだが——そこは言う必要がない)
「ふうん」クリフはさして興味がなさそうだった。ミュージシャンにとって、録音技術は「自分の音楽」ではない。「まあ——良くなるならいいことだ。今のレコードは、俺の音の半分も入ってない」
「そうだ。だから——俺たちの共作は、その時に備えて仕込んでおく。マイク録音に適した音楽を、今から書いておく」
「マイク録音に適した音楽?」
「ダイナミクスの変化が大きい曲だ。今のアコースティック録音では潰れてしまうが、マイク録音なら——全部記録される。その時に『すでに準備ができている曲』を持っている奴が、先行者利益を総取りする」
クリフがゆっくり頷いたが、少しだけ眉をひそめた。
「それが何年後かは知らんが、それまで待つのか?」
「いや、待たない。それは本命(プランA)だ。それまでの間は、今のポンコツな録音技術でも確実にウケる曲を作る。黒人市場向けのニッチな曲だ。大手が見落としているその市場で、俺たちのインディーズレーベルを立ち上げるんだ。それで小銭と名前を稼ぎながら、本命の時期に備える」
クリフが目を見開いた。そして声を立てて笑った。
「お前は——面白い奴だな。ミュージシャンの話をしてるかと思うと、急にビジネスの話になる」
「両方やらないと食えないからな。一本足打法は素人のやることだ」
「……違いない」
(クリフに全ては話せない。だが方向性は共有できた。足元ではレース・レコード市場で日銭と実績を作りつつ、マイク録音の時代に備えて、ジャズの呼吸感を活かした楽曲を裏で仕込んでおく。1925年に電気録音が実用化された瞬間、俺たちの曲はメインストリームの「最適解」になる。——完璧なポートフォリオだ)
深夜2時。クラブを出た。ハーレムの通りは静かだった。
地下鉄で帰る途中、レオはノートに書きつけた。
「電気録音対応曲リスト」
1. ダイナミクス幅の広いバラード(pp〜ff)
2. ミュートトランペット+ピアノの二重奏(繊細な音色対比)
3. ブラシドラム入りの4ビート(現行のアコースティック録音では不可能)
(今はまだ録音できない。だが曲は書ける。楽譜として完成させ、引き出しの中に溜めておく。1925年にウエスタン・エレクトリックが電気録音を発表した瞬間に、最初のセッションを入れる。それまでに——曲を増やし、クリフとのアンサンブルを磨き、そして金を貯める)
■
10月。
資産台帳を更新した。
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レオナルド・モレッティ 資産台帳
1921年10月末
【資産】
現金 $196.40
アップライトピアノ $50(推定)
楽譜原稿(未売却) $0(在庫5曲+共作用ストック3曲)
【負債】
なし
【月間収入】
楽曲売却 $25-40/月(平均)
演奏料 $40/月
合計 $65-80/月
【月間支出】
家賃 $15
食費 $13(夏場は果物が安い)
交通費 $3(ハーレム通いが増えた)
楽譜用紙等 $2
雑費 $1(石鹸、散髪など)
合計 $34/月
【純資産】$246.40(ピアノ含む)
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(あと100ドル足りない。出版社設立に必要な最低資金は300ドル——登記費用、最初の楽譜印刷費、最低限の広告。あと3ヶ月で貯まる計算だ。1922年の頭には——動ける)
窓の外は秋深い。葉が散り、灰色の空が広がっている。
1921年の夏に株価が底を打った。ダウ平均は63ポイント付近。戦後不況の底だ。
(買いたかった。この底値で買っておけば——数年後には数倍になる。だが生活費を引くと株に回せるのは多くて数十ドル。それが数倍になったところで100ドルにも届かない。順番を間違えてはいけない。まず出版社。版権収入の流れを作り、それから金融に進む)
ピアノに向かった。
15曲目を書く。
今度は——自分の出版社で出す最初の曲を。
鍵盤に指を置いた。
部屋の中にピアノの音が響いた。
テーブルの上の新聞には、こう書いてあった。
「不況の底を脱したか——企業景況感、回復の兆し」
(回復が始まる。1920年代の繁栄——「ロアリング・トゥエンティーズ」が、ゆっくりと幕を開ける。俺は、その波に乗る。——だが波の終わりも知っている)
指が鍵盤の上で踊った。
マッシモの影が、まだ背中に張り付いていた。




