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五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く  作者: 生サーモン


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2/8

【第2話】一曲の価値

 1920年4月。


 春が来た。だが西二十八番街の安アパートに春の恩恵は乏しい。窓を開ければ馬糞と排気ガスの混合臭が流れ込み、通りの向こうでは移民の子供たちが汚水の溜まりで遊んでいる。


 レオナルド・モレッティは、ピアノの前で5曲目の楽譜を清書していた。


 2月に書いた3曲目は、小さな出版社に15ドルで売れた。1920年の15ドル——当時の安いアパートの家賃1ヶ月分に相当するが、一曲の対価としてはあまりに安い。だがブレナン以外に流通させることが目的だった。4曲目はブレナンに持ち込んだが「前の方が良かった」と突き返された。


(ブレナンの耳は確かだ。4曲目は安全に書きすぎた。あの男は「少しだけ変わっている」曲を嗅ぎ分ける。問題は、嗅ぎ分けた上で25ドルで買い叩くことだが)


 5曲目は勝負曲だった。

 AABA形式(32小節の基本構成)を基本にしつつ、Bセクションでサブドミナント・マイナー(一瞬だけ物憂げな空気に変わる和音)を使った。1920年代のポピュラー音楽では珍しい進行だ。だが不協和音ではない。むしろ甘美で、少しだけ切ない。ダンスフロアで踊りながら聴ける「美しい逸脱」を狙った。


 タイトルは『April Moon(四月の月)』。


(前世ならパソコンの音楽制作ソフト(DAW)で全パートを打ち込んでミックスダウンまで一人でやれた。今はピアノと紙しかない。だがこの時代の作曲家は全員同じ条件だ。条件が同じなら、100年分の理論知識がアドバンテージになる)


 清書が終わった。鞄に入れ、コートを羽織った。


 四月でもまだ肌寒い。だが真冬のような凍えはない。通りの木々が芽吹き始めていた。





 ブレナン・ミュージック・パブリッシング。

 二階の事務所に通されると、ブレナンは例によって葉巻をくわえ、山積みの楽譜の向こうから顔を出した。


「モレッティ。また来たか」


「新しい曲を持ってきました」


「弾け」


 ピアノの前に座った。

 『April Moon』。Aセクションの穏やかなメロディ。Bセクションへの転換——サブドミナント・マイナーが一瞬だけ空気を変え、すぐに元の調性に解決する。


 弾き終わった。


 ブレナンが葉巻を置いた。前回よりも、沈黙が長い。


「……モレッティ」


「はい」


「お前、どこで勉強した」


「独学です。ピアノと、楽譜と——耳で」


(嘘じゃない。前世では音大で1年半勉強し、中退後はYouTubeとUdemyで音楽理論を独学した。この時代の人間に言えることではないが)


 ブレナンが鼻を鳴らした。


「独学か。イタリア人は耳がいいからな。お前の親父も仕立て屋の割にはいいピアノを弾くと聞いたことがある。死んだそうだな」


「3年前に」


「そうか」


 ブレナンが立ち上がり、窓際に歩いた。外を見ながら言った。


「いい曲だ。Bセクションの和声が——なんと言うかな、引っかかる。いい意味で。ソング・プラガーに弾かせたら、客の足が止まるだろう」


(来た)


「買おう」


「おいくらですか」


「25ドル」


 空気が止まった。


(同じだ。前回と同じ25ドル。あの時はまだ「悪くない」程度の評価だった。今回は「いい曲」だと言った。Bセクションの和声を褒めた。それでも——25ドル)


「ブレナンさん」レオは静かに言った。「前回よりも良い曲だと言っていただけましたね」


「言った」


「でも値段は同じですか」


 ブレナンが振り返った。小さな目がレオを射抜く。


「モレッティ。お前はいくつだ?」


「22です」


「22か。22のイタリア人の小僧が書いた曲の値段は、25ドルだ。いい曲だろうが悪い曲だろうが、お前の名前で楽譜が売れるわけじゃない。客はメロディを買うんじゃない。ブレナン・ミュージックの名前を買うんだ。流通は俺が持ってる。販売網は俺が持ってる。お前が持ってるのはピアノと鉛筆だけだ。——25ドルだ。嫌なら他を当たれ」


 沈黙が3秒続いた。


「分かりました」


 契約書にサインした。買い切り。『April Moon』の全ての権利がブレナン・ミュージック・パブリッシングに移転する。


 25ドルを受け取った。


「いい子だ」ブレナンが葉巻を咥え直した。笑みが浮かんでいる。勝者の笑みだ。「また持ってこい。お前は書ける奴だ。月に2曲持ってくれば50ドルだ。悪くない副収入だろう」


(副収入。俺の100年分の知識が、お前にとっては副収入か)


「ありがとうございます。また伺います」


 レオは微笑んで頭を下げた。いつものように、礼儀正しいイタリア系の青年として。


 だが事務所を出て階段を降りる足取りは、前回よりも遅かった。ポケットの中の25ドルが、鉛のように重い。


(『April Moon』は——いい曲だ。前世の基準で言っても、商業的に使える水準だ。ヒットするかどうかは時の運だが、可能性はある。もしあの曲がラジオで流れたら——いや、まだラジオの商業放送は始まっていない。だが2年後に始まる。そしてあの曲の権利はもう俺の手にはない)


 通りに出た。

 四月の風が顔を撫でた。


(25ドル。これが今の俺の値段だ。——だが、いつまでもこの値段じゃない)





 五月。


 新聞の一面を、ある事件が席巻した。


 「ニコラ・サッコ、バルトロメオ・ヴァンゼッティ——マサチューセッツ州で逮捕。靴工場強盗殺人の容疑」


 5月5日。2人のイタリア系移民が、ブレインツリーの靴工場で起きた強盗殺人事件の容疑で逮捕された。


 レオは新聞を読みながら、コーヒーを飲んだ。安い食堂の隅のテーブル。周囲の客の会話が耳に入る。


「また wop か」

「イタリア人はアナーキストだからな」

「サッコ? ヴァンゼッティ? 名前からしてマフィアだろう」


 wop。イタリア系移民への蔑称だ。Without Official Papers(公式書類なし)の略とも、ナポリ方言の guappo(ならず者)からとも言われる。


 レオの背中に、冷たい視線が刺さった。食堂の客が——レオのイタリア系の顔立ちを見て、視線を逸らす。逸らすのは、見つめていた証拠だ。


(サッコとヴァンゼッティ。前世でドキュメンタリーで観た。アメリカ司法史上最大の冤罪事件の一つと言われている。2人はアナーキストではあったが、殺人の物的証拠は乏しかった。だが裁判は予断に満ち、陪審員は「イタリア系移民のアナーキスト」という属性だけで有罪を確信した。そして——1927年に処刑される)


 7年後の処刑を知りながら、何もできない。いや——何もする必要がない。レオは政治活動家ではない。だがこの事件は、レオの日常に直接影響する。


 イタリア系移民への偏見が、全米で激化する。


 食堂を出た。通りを歩くと、煙草屋の店主が新聞を読みながら首を振っている。「イタリア人は国に帰りゃいいのに」。声が聞こえた。


(帰る国はない。俺はここで生まれた。この街で生まれ、この街で育った。——それでも「イタリア人」だ。この国では、移民の子は永遠に移民だ)


 だが足は止めなかった。怒りは腹の底に沈め、歩調を変えずにアパートに向かった。


 怒っている暇はない。6曲目を書かなければ。





 六月から八月にかけて、レオは曲を書き続けた。


 6曲目はブレナンに25ドルで売った。7曲目は別の小さな出版社に20ドルで売った。8曲目はどこにも売れず、引き出しの中に眠っている。


 収入は少しずつ安定してきた。月に1曲から2曲のペースで書き、売る。月収は30ドルから50ドル。食えはするが、蓄えは増えない。


(このペースでは駄目だ。曲を書いて売るだけでは、永遠にブレナンのような出版社の下請けだ。版権を手放し続ける限り、俺の資産は蓄積しない。曲はブレナンの金庫に入り、俺の手元に残るのは25ドルの紙幣だけだ)


 だが打開策は見えていた。

 二つある。


 一つは、スピークイージーでの演奏。曲を売るのとは別に、演奏の仕事で固定収入を確保する。


 もう一つは——版権を自分で握る仕組みを作ること。つまり、自分の出版社を持つこと。


(出版社を設立するには資金が要る。最低でも数百ドル。今の俺には遠い。それに、無名の出版社がいきなりヒット曲を出せる保証もない。出版を始めても、しばらくは赤字を垂れ流す可能性がある)


 そこで生きてくるのが「プランB」だ。

 無声映画用の「場面別BGMカタログ」の直販ビジネス。

 「悲しい場面用」「追跡シーン用」「ロマンス用」。全国の映画館にいる専属ピアニストたちは、常に使い勝手のいい伴奏用楽譜を探している。大衆向けのヒットソングという博打を打つ前に、まずは確実に需要のあるB2B(業者向け)市場を狙い、出版社の固定収入源を作る。


(スピークイージーの演奏で種銭を貯め、出版社を設立し、BGMカタログで初期の屋台骨を支える。それが当面の目標だ)





 九月。


 暑さが引き始めた頃、レオは別の衝撃を受けた。


 九月十六日。正午過ぎ。

 ウォール街とブロード・ストリートの交差点で、馬車に積まれた爆弾が爆発した。


 死者38名、負傷者143名。


 J.P.モルガンの本社ビルの正面で起きた爆発は、ウォール街を血と瓦礫で覆い尽くした。犯人は特定されなかったが、捜査当局は即座に「イタリア系アナーキスト」の犯行と断定した。


 レオはアパートで号外を読んだ。


「ウォール街爆弾テロ——イタリア系過激派の犯行か」


(出た。サッコ=ヴァンゼッティ事件の5ヶ月後に、ウォール街で爆弾テロ。犯人はおそらくイタリア系のアナーキスト集団——ガレアニストと呼ばれる一派だ。前世の歴史で読んだ。だが実際には犯人は確定しないまま事件は風化する。ただし——「イタリア人は危険だ」という偏見だけは、確実に強化される)


 翌日、通りを歩くと空気が変わっていた。


 パン屋の店主がイタリア語を話す客に冷たい目を向けていた。路上で新聞を売る少年が「テロリスト!」と叫んでイタリア系の通行人を指差していた。リトル・イタリーのカフェでは、店主が英語の看板を急いで掲げていた。「WE ARE AMERICANS」と書かれていた。


 レオは黙って歩いた。


(この時代のイタリア系移民が置かれた状況を、前世の俺は教科書の文字として読んでいた。「差別があった」。たった4文字だ。だが実際に生きてみると——空気が違う。街角で向けられる視線の重さ、会話が途切れる瞬間の緊張、「あいつもアナーキストかもしれない」という疑いの目——これは教科書には載らない)


 だが同時に、冷静な計算も走っていた。


(偏見は壁になる。だが壁は——迂回できる。あるいは、壁の向こう側に回り込むことができる。金があれば。権力があれば。あるいは、相手に利益をもたらす存在になれば。——出版社を持つ。版権を握る。利益を生み出す仕組みを作る。そうすれば、「あのイタリア人」は「あのビジネスマン」に変わる)


 アパートに帰り、ピアノの前に座った。9曲目を書く。今度は——偏見に怒りをぶつけるのではなく、偏見を持つ人間の耳にも響く曲を。


 最高の復讐は、成功することだ。





 十月。


 曲を書き溜めながら、レオは別の動きを始めていた。


 スピークイージーの情報を集めている。


 禁酒法施行から10ヶ月。マンハッタンの裏通りには、すでに無数のスピークイージーが芽吹いていた。合言葉で裏口から入る酒場。密造酒やカナダからの密輸酒を出し、ジャズやピアノの生演奏で客を楽しませる。


 レオナルド・モレッティの記憶を辿ると、いくつかの心当たりがあった。リトル・イタリーのパスタ屋の地下。グリニッチ・ヴィレッジの古本屋の奥。ミッドタウンの高級アパートメントの最上階。


(スピークイージーの数は、この時点で既に数千——禁酒法が終わる頃にはNYCだけで推定2万から10万になる。取り締まる側の連邦捜査官は1500人。汚職も横行する。つまり——スピークイージーは事実上黙認される。そしてそこには、音楽が必要だ)


 十月の終わり、レオはリトル・イタリーの裏通りにある一軒のスピークイージーの扉を叩いた。


 合言葉は「フランチェスコおじさんからの紹介」。


 重い木の扉が開き、煙と酒と汗の匂いが押し寄せた。地下へ続く狭い階段を降りると、20テーブルほどの空間が広がっていた。天井は低く、照明は暗い。隅にアップライトピアノが置いてある。今は誰も弾いていない。


 カウンターの向こうに太った男がいた。アンジェロ。元はパスタ屋だが、禁酒法の施行後に地下を改装してスピークイージーを始めた。


「すみません」レオはカウンターに歩み寄った。「ピアニストを探していないか。弾かせてくれないか」


 アンジェロが顔を上げた。レオの顔をじっと見た。


「モレッティの息子か。仕立て屋の。——弾けるのか?」


「弾けます」


「弾いてみろ」


 ピアノの前に座った。鍵盤の調律は酷い——3つほどの鍵が完全に死んでいた。だが弾けないわけではない。


 何を弾くか、一秒だけ迷った。


(この客層は——リトル・イタリーの労働者階級だ。一日の仕事を終えた後に、違法の酒を飲みに来ている。求めているのは、華麗な技巧ではない。身体が揺れる音楽だ)


 ラグタイムを弾いた。スコット・ジョプリンの「The Entertainer」——ではなく、ジョプリンのスタイルを借りつつ自分のフレーズを混ぜた即興。リズムを強調し、左手のベースラインを太く響かせた。


 3曲目を弾き終わる頃には、客が拍手をしていた。


 アンジェロが近づいてきた。


「悪くない。金曜と土曜の夜、9時から深夜1時まで。1晩5ドルでどうだ」


(1晩5ドル。週2回で月40ドル。悪くない——いや、相場としてはやや安い。だが今は実績がない。ここから始める)


「やらせてください」


 握手した。アンジェロの手は太く、油で光っていた。


「一つだけ」アンジェロが声を潜めた。「うちに来る客の中に——その筋の人間もいる。見て見ぬ振りをしろ。余計な口を利くな。いいな?」


「分かりました」


(その筋——マフィア。リトル・イタリーのスピークイージーなら当然だ。イタリア系の組織犯罪——この街ではジュゼッペ・マッセリアやサルヴァトーレ・マランツァーノのような大物から、街角のチンピラまで、禁酒法の施行がイタリア系マフィアの資金源を爆発的に増やした。酒の密造と密輸は莫大な利益を生む。スピークイージーはその販売網の一部だ)


(関わりたくはない。だが——避けられない。この街でイタリア系として音楽をやる以上、裏社会との接点はゼロにはできない。最小限の接触で、最大限の距離を保つ。それが方針だ)


 地下の階段を上がり、裏通りに出た。

 十月の夜風が冷たかった。





 スピークイージーでの演奏が始まった。


 金曜と土曜の夜、9時から深夜1時まで。4時間のピアノ演奏。客のリクエストに応え、間にオリジナル曲を混ぜる。


 最初の数週間で、レオはこの仕事の構造を理解した。


(スピークイージーのピアニストに求められているのは、三つだ。一つ、踊れる曲を切れ目なく弾くこと。二つ、客のリクエストに即座に応えること。三つ、酔った客が絡んできても笑って流すこと。——前世のカラオケバイトと構造は同じだ。求められるのは芸術性ではなく、サービス精神と即興力)


 だが同時に、ここは「実験場」でもあった。


 オリジナル曲を弾くと、客の反応がダイレクトに分かる。どのメロディで身体が揺れ、どの和声で首をかしげ、どのリズムで手拍子が起きるか。これはティン・パン・アレーの事務所では得られないフィードバックだ。


(DTMの時代は、再生数とコメントがフィードバックだった。ここでは——目の前の人間の身体がフィードバックだ。正直で、残酷で、即時的。七十二再生のニコ動よりも、はるかに学びが多い)


 十一月の金曜の夜。


 いつものように弾いていると、地下への階段を降りてくる一人の男に気づいた。


 長身で痩せた黒人の男。30歳くらいか。コートの下にくたびれたスーツを着ている。帽子を深くかぶり、カウンターの端に座って密造ウイスキーを注文した。


 レオがラグタイムを弾いている間、その男はじっと聴いていた。一曲が終わるたびに、微かにうなずいていた。


 深夜零時を過ぎ、客がまばらになった頃。男がピアノの横に歩いてきた。


「お前、独学か?」


 低い声だった。穏やかだが、底に力がある。


「独学です」


「左手のベースラインがいい。だが右手のフレーズが——少し窮屈だ。枠にはめすぎてる」


(分かる奴だ)


「どういう意味ですか?」


「お前のメロディは——楽譜通りに弾く音楽だ。きちんとしてる。だが音楽ってのは、きちんとしてるだけじゃ足りない。息をする余地が要る。譜面の隙間に——風が通る場所が」


 男が、ピアノの隣に座った。


「弾いていいか?」


「どうぞ」


 男が鍵盤に触れた瞬間、空気が変わった。


 ブルース・スケール(ジャズやブルース特有の音階)を基調にした即興。左手のベースラインは単純だが、右手のフレーズが——跳ねる。歌う。鍵盤を押すのではなく、鍵盤から音を引き出している。


 30秒で分かった。この男は本物だ。


(これが——ジャズか。前世でDAWの画面越しに聴いていた「ジャズ」とは、まるで違う。録音された音声を分析して、コード進行を書き起こして、理論として理解していた。だが今、目の前で鳴っている音は——理論ではない。呼吸だ)


 男が弾き終わった。


「お前の名前は?」


「レオ。レオナルド・モレッティ」


「クリフトン・ジョンソン。クリフでいい」


 握手した。クリフの手はレオより大きく、指が長い。ピアニストの手だ。


「お前、曲を書いてるんだろう?」


「書いてます」


「ティン・パン・アレーに売ってるのか」


「はい」


「もったいないな」


「どういう意味です?」


 クリフが薄く笑った。


「お前の和声感覚は面白い。だが——ティン・パン・アレーの枠に押し込めてる。あの白人の出版社どもは、売れる型にはまった曲しか買わない。お前の面白い部分は、型からはみ出す部分だ。それを切り落として売ってるんだろう?」


(……図星だ)


「食わなきゃならないので」


「分かるよ」クリフが立ち上がった。「俺もだ。ハーレムのクラブで弾いてるが——白人の客が聴きたい『黒人音楽』を弾かされてる。本当に弾きたいものは弾かせてもらえない」


 クリフが帽子をかぶり直した。


「お前がティン・パン・アレーの型を捨てたくなったら——ハーレムに来い。125番街の北、レノックス・アベニュー。『エディのところ』と言えば通じる。そこで弾いてる」


「行きます」


 クリフが階段を上がっていった。

 レオはピアノの前に残り、クリフが弾いた即興を、記憶の中で反芻した。


(あの呼吸感。フレーズの隙間に風が通る感覚。理論では書けない。だが——理論で分析はできる。クリフの即興をベースに、ティン・パン・アレーの構造とジャズの呼吸を融合させたら——この時代の誰も聴いたことがない音楽が書ける)


 拳を握った。


 だがそれは——今じゃない。今はまだ種銭を貯める段階だ。





 十一月の終わり。


 レオはスピークイージーの演奏を続けながら、曲を書き、売り、数字を積み重ねていた。


 テーブルの上に資産台帳を広げた。


 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1920年11月末


 【資産】

  現金       $107.56

  アップライトピアノ $50(推定)

  楽譜原稿     $0(在庫2曲)


 【負債】

  なし(家賃滞納は解消済み)


 【月間収入】

  楽曲売却  $25-50(不安定)

  演奏料   $40(週2回×$5×4週)

  合計    $65-90/月


 【月間支出】

  家賃   $15

  食費   $15(前月$12から増。冬場は温かい食事が増えた)

  交通費  $2

  楽譜用紙等 $2

  合計   $34/月(前月比+$4)


 【純資産】$157.56(ピアノ含む)

 【前月比】+$32.33

 ――――――――――――――――――――――


(増えてはいる。月30ドルずつ。だがこのペースだと、出版社設立に必要な資金——最低200ドルから300ドル——を貯めるのに半年以上かかる。遅すぎる)


 何か——加速する手段が要る。


 ペンを置き、窓の外を見た。

 冬が近づいている。通りの木は葉を落とし、灰色の空が低く垂れこめている。


(もっと稼ぐには——もっと多くの場所で弾くか、もっと高く売れる曲を書くか、あるいは——別の収入源を見つけるか)


 別の収入源。

 レオの頭の中で、一つの数字が浮かんだ。


 1921年夏。戦後不況の底。株価が最安値圏に沈む。

 ここが——最初の投資チャンスだ。


(だがまだ早い。今の手持ちで株を買っても、スズメの涙だ。出版社を先に作る。版権収入の流れを作り、その上で——株式市場に入る。順番を間違えてはいけない)


 ピアノに向かった。10曲目を書く。





 年が明けた。1921年。


 レオの生活は安定し始めていた。スピークイージーの演奏は金曜と土曜の夜。平日は曲を書き、月に1曲から2曲をティン・パン・アレーの出版社に売る。ブレナンには2ヶ月に1曲のペースで持ち込んでいた。


 ブレナンの反応は、回を追うごとに変わっていった。


 最初は「悪くない」だった。

 次は「いい曲だ」になった。

 そして最近は——


「モレッティ、お前の曲は確かに売れる。だがな——」


 三月。ブレナンの事務所。


「お前の曲を2曲、ヴォードヴィルの歌手に売った。反応は悪くなかった。楽譜も——最初の月で800部出た」


(800部。楽譜1部が50セントとして、売上は400ドル。俺に入ったのは25ドル。利益率にして6パーセント以下。——これが搾取の構造だ。だが今はまだ、我慢の時期だ)


「ありがとうございます」


「感謝してもらう必要はない。ビジネスだ。——で、今日は何を持ってきた?」


 レオは新曲を弾いた。11曲目。少しだけブルーノート(少し外れたような哀愁ある音)を混ぜた、甘くて少し哀しいバラード。


 ブレナンが聴き終わった後、いつもより長く黙っていた。


「……モレッティ」


「はい」


「お前、ハーレムに行ってるな」


(バレてるか)


「少し。知り合いのジャズマンがいるので」


「ブルーノート。この和声はジャズの影響だ。——いいか、モレッティ。うちの客層は行儀のいい白人の中産階級だ。こんな黒人音楽の要素が混ざった不穏な曲は、連中の家の客間パーラーには合わない。分かるな」


(分かるよ、ブレナン。客層がどうこうは建前で、お前はそうやって適当な難癖をつけて少しでも安く買い叩きたいだけだ。——だが2年後にラジオが来る。ラジオはブレナンのような門番を通らない。電波に乗った音楽に、出版社の検閲はかからない。聴く側は作曲者の顔も出自も知らない——音だけで判断する。その時、お前の小賢しい理屈は崩壊する)


「分かりました。気をつけます」


「いい子だ。——25ドルだ」


 また25ドル。


 契約書にサインした。11曲目の権利が、ブレナンの手に渡った。


 事務所を出る時、廊下でブレナンの声が聞こえた。電話をかけているようだった。


「——ああ、モレッティって小僧がいるんだ。イタリア人の。曲は書ける。安いしな。月に1曲は確実に持ってくる。使える奴だよ。——ああ、次はもっと安く買えるかもしれん」


(もっと安く)


 レオは足を止めなかった。階段を降り、通りに出た。


(聞こえたぞ、ブレナン。「次はもっと安く買う」。——そうだな。お前にとっての俺は、25ドルの部品だ。安くて替えの利く、使い捨ての部品。——だがな、ブレナン。部品は、いつか機械を作る側に回る。お前が知らないうちに)


 ポケットの中の25ドルを握りしめた。


 帰り道、新聞スタンドの前で足を止めた。見出しが目に入った。


「サッコ=ヴァンゼッティ裁判——弁護側、証拠の不備を主張」


(7月に有罪判決が出る。そして6年後に処刑される。2人のイタリア人の命が、この国の偏見に踏みにじられる。——俺にはどうすることもできない。だが覚えておく。この国がイタリア人に何をしたか)


 新聞を買わなかった。2セントを節約した。


 アパートに帰り、ピアノの前に座った。


 12曲目を書く。


(ブレナンに売らない曲を書く。いつか——自分の看板で出す曲を。その日のために、引き出しの中に溜めておく)


 鍵盤に指を置いた。


 冷たいアパートの中で、ピアノの音が響いた。


 窓の外では、1921年の春が近づいていた。


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