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五線譜と密造酒 ――1920年のアメリカ世界で、百年先の音楽を弾く  作者: 生サーモン


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4/13

【第4話】モレッティ・ミュージック

 1922年1月。


 ニューヨークの冬は容赦がない。ハドソン川からの風がマンハッタンを横断し、路地裏のゴミ箱の蓋を鳴らし、歩行者のコートの裾をめくり上げる。蒸気暖房のパイプが凍結し、三階のレオの部屋のラジエーターは二日間沈黙していた。


 だがレオは笑っていた。


 机の上に積み上げた紙幣と硬貨を数え終え、帳簿に書きつけた。


 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1922年1月初旬


 【資産】

  現金       $327.15

  アップライトピアノ $50(推定)

  楽譜原稿(未売却) 在庫8曲


 【負債】

  なし


 【月間収入】

  楽曲売却  $30-50/月

  演奏料   $60/月(増額交渉成功。$7.50/夜×8回)

  合計    $90-110/月

 ――――――――――――――――――――――


 327ドル。


(出版社を作れる金額に達した。——2年かかった。1920年の1月に47ドルで目覚めてから、丸2年。曲を書き、スピークイージーで弾き、25ドルずつ積み重ねて——ようやくここまで来た)


 だが出版社を作るだけでは不十分だ。作った後に、何をどう売るかが本当の勝負になる。


 そのためには——一人では足りない。





 「ゴールドバーグ楽譜店」。


 ティン・パン・アレーの端、ブロードウェイ寄りの通りに面した小さな店だった。ショーウィンドウには楽譜が並び、奥のピアノからは断続的に音が聞こえてくる。


 ドアを押すと、カウベルが鳴った。


 店内は狭い。壁一面に楽譜棚。中央にアップライトピアノが一台。カウンターの向こうに——


「いらっしゃい」


 ルース・ゴールドバーグ。21歳。


 黒髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけた小柄な女性。父親のソロモン・ゴールドバーグが経営する零細楽譜出版社の一人娘で、事実上の番頭を務めている。


 レオナルド・モレッティの記憶によれば、ゴールドバーグ楽譜店はティン・パン・アレーでも最下層に位置する零細出版社だ。ブレナンのような中堅どころと比べると、流通力は十分の一以下。だがルース——ルーと呼ばれる彼女は、数字に強く、著作権法に詳しく、業界の裏側を熟知していた。


(ルー・ゴールドバーグ。前世の記憶にはない人物だ。だがレオナルド・モレッティの記憶では、何度かこの店で楽譜を買ったことがある。その度にルーが「この曲はうちで出してる」「この作曲家の版権はブレナンが持ってる」と、聞いてもいない情報を教えてくれた。——つまりこの女は、業界の版権構造を頭の中にマッピングしている)


「モレッティさん。久しぶりね。楽譜を買いに?」


「いや——今日は相談に来た」


「相談?」


 レオはカウンターに寄りかかった。


「自分の出版社を作りたい」


 ルーの目が一瞬光った。すぐに冷静な表情に戻ったが、レオはその一瞬を見逃さなかった。


「——座って。コーヒーでも淹れる」


 奥の小さなテーブルに案内された。ルーがコーヒーを淹れる間、レオは店内を見回した。棚に並ぶ楽譜の量は多くない。品揃えも偏っている。零細の苦しさが、棚の隙間に見えていた。


 ルーがコーヒーを持ってきた。


「それで——出版社を作るって。資金は?」


「300ドルある」


「300ドル。——正直に言うと、ギリギリね。ニューヨーク州の事業登記が15ドル。最初の楽譜印刷、1000部として——版型代が30ドルから50ドル、紙代と印刷費で40ドルから60ドル。合計で100ドルちょっとは初期費用で飛ぶ。残りの200ドルで、家賃と生活費と追加印刷費を賄いながら、収入が立つまで持ちこたえなければならない」


(さすがだ。聞いてもいないのに、コストの内訳を即座に出してきた)


「持ちこたえられると思うか?」


「曲次第ね」ルーが眼鏡を直した。「あなたの曲を——一曲、聴かせて」


 レオはピアノの前に座った。


 何を弾くか、一秒考えた。ブレナンに売った曲ではなく、引き出しの中に溜めておいた「自分の看板で出す曲」を。


 15曲目。AABA形式だが、Bセクションでリハーモナイズを施したバラード。元の和声を保ちつつ、ベースラインを半音で動かすことで、景色が変わったように聞こえる。


 弾き終わった。


 ルーが腕を組んだ。


「……なるほど」


「どう思う?」


「Bセクションの和声が面白い。ブレナンなら——何と言った?」


「たぶん『いい曲だ、25ドル』だろう」


「そうね。ブレナンはこの曲を25ドルで買って、楽譜を刷って、もしヒットしたら何千ドルも儲ける。あなたには一セントも入らない」


「だから自分で出す」


「それは分かってる。問題はね、モレッティさん——」


「レオでいい」


「レオ。問題は、楽譜を刷っても、売る場所がないこと。ブレナンには流通網がある。ヴォードヴィルの劇場、ダンスホール、デパートの楽譜コーナー、地方の小売店——全部繋がってる。あなたの出版社にはそれがない。1000部刷って、誰に売るの?」


 レオは頷いた。


「その通りだ。だからルー——あんたの力が要る」


「私の?」


「あんたはこの業界の版権構造を知っている。誰がどの曲の権利を持っていて、どの流通網がどの出版社に紐づいているか。——俺が知らないことを、あんたは知っている」


 ルーは三秒黙った。


「——あなた、ブレナンの客でしょう。私がブレナンに歯向かったら、うちの店まで潰される可能性があるのは分かってる?」


「分かってる。だから——あんたの名前は出さない。俺の出版社のパートナーとして、裏方に回ってくれればいい」


「報酬は?」


「利益の15パーセント」


 ルーが眼鏡の奥から目を細めた。


「20パーセント」


「17パーセント。それ以上は——今は出せない」


「……いいわ。17パーセント」


(即決。——ルーは待っていたんだ。自分の知識を活かせる場所を。父親の零細出版社では、彼女の能力は持ち腐れている。だが女性がこの業界で独立するのは、1920年代ではほぼ不可能だ。俺の出版社が——彼女にとっての突破口になる)


 握手した。ルーの手は小さいが、握りが強かった。


「一つだけ聞いていい?」ルーが言った。


「何だ」


「あなた、ブレナンに曲を何曲売った?」


「9曲」


「9曲。全部買い切り?」


「全部」


「その9曲が、もし楽譜でそれぞれ2000部売れたとする。1部50セントの小売価格で、出版社の取り分が40パーセントだとすると——ブレナンは1曲あたり400ドル、9曲で3600ドル稼ぐことになる。あなたに払ったのは——9曲合計で225ドル」


(3600ドルと225ドル。利益率で言えば、ブレナンは俺の労働から94パーセントを搾取している)


「だから出版社を作る」


「そうね。——もう一つ。ASCAPには入ってる?」


「まだだ」


「入るべきよ。すぐに」





 ASCAP。

 American Society of Composers, Authors and Publishers。

 アメリカ作曲家著作者出版者協会。


 ルーが説明した。


「ASCAPの仕組みはこうよ。レストランでもダンスホールでもラジオ局でも——あなたの曲が公衆の場で演奏されたら、演奏権料が発生する。ASCAPがその使用料を徴収して、作曲家と出版社に分配する。ブレナンに売った曲は——権利がブレナンにあるから、演奏権料もブレナンに入る。でも自分の出版社で出した曲なら、演奏権料は全部あなたの手元に残る」


(演奏権料。これが——ラジオの時代に爆発する収入源だ。1923年にASCAPとラジオ局の包括的ライセンス契約が始まり、ラジオで楽曲が流れるたびに演奏権料が発生するようになる。曲がヒットしてラジオの定番になれば——寝ている間にも金が入る。版権ビジネスの本質は、ここにある。一曲の「権利」を握り続けることで、長期にわたって収入を生む資産になる。株の配当と同じ構造だ)


「だが——ASCAPに入るには実績が要るんじゃないか?」


「出版された楽曲が必要ね。自分の出版社で出した曲でもいい。——つまり、出版社を先に作って、最初の一曲を出版する。それをASCAPへの加入申請に使う。順番としてはそうなる」


「その順番で行く」


 ルーが頷いた。


「もう一つ重要なこと。——これからの音楽ビジネスで一番大事なのは、『曲を書くこと』じゃない。『権利を握ること』よ。楽譜の売上は一回きりだけど、演奏権は——曲が演奏され続ける限り、永遠に入ってくる。あなたの出版社は、楽譜を刷る会社じゃない。権利を管理する会社にするべきよ」


(ルー。あんたは——正しい。完全に正しい。前世の音楽業界の知識が裏付けている。2020年代の音楽ビジネスは、ストリーミング再生の権利使用料で回っている。その構造の原型が、1920年代のASCAPと演奏権料にある。——あんたはこの時代にいながら、100年後の本質を見抜いている)


「ルー、すごいな」


「何が?」


「版権ビジネスの本質を、完全に理解してる」


 ルーが少し赤くなった。すぐに眼鏡を直して取り繕った。


「当たり前よ。うちは零細だけど、父が40年この商売をやってるの。見て育った」


「あんたの父親は——版権の重要性を分かっていたのに、なぜ零細のままなんだ?」


 ルーの目が曇った。


「ユダヤ系だから。流通を握ってる大手は——うちに卸してくれない。ブレナンみたいな中堅でも、うちとは取引しない。業界の暗黙のルールがあるの。ユダヤ系の小さな出版社は、ユダヤ系の小さな市場で商売しろ、ってね」


(イタリア系の差別。ユダヤ系の差別。黒人の差別。この時代のアメリカは——差別の層構造でできている。WASPが頂点にいて、その下に序列がある。俺とルーとクリフは、それぞれ別の層で差別されている。だが——三人が組めば、三つの市場にアクセスできる)


「ルー。俺たちの出版社は——WASP の流通網に乗らなくてもいい」


「え?」


「ラジオだ」


「ラジオ?」


「今年——1922年に、商業ラジオ放送が本格的に始まる。ラジオは楽譜を売る必要がない。電波に乗せて曲を流す。流通網が要らない。ブレナンの持ってるヴォードヴィルの劇場もデパートのコネも——ラジオの前では意味を失う」


 ルーが目を見開いた。


「——続けて」


「ラジオ局は楽曲を必要としている。放送する曲が足りないんだ。来月にはWEAFが本格的な商業放送を始める。全国にラジオ局が増えていく。その全てが——曲を求める。俺たちの出版社がASCAPに入り、ラジオ局に楽曲を供給すれば——ブレナンの流通網を迂回して、直接リスナーに届けられる」


「でも——ラジオ局がうちみたいな無名の出版社の曲を使う保証は——」


「ないよ。最初は」レオはコーヒーを飲んだ。冷めていた。「だが——いい曲は、いい曲だ。ラジオは聴衆を選ばない。イタリア人が書いたかユダヤ人が書いたか、ラジオを聴いてる人には分からない。音だけが流れる」


 ルーが三秒黙った。

 それから——微笑んだ。


「……面白い。——あなた、ただのピアノ弾きじゃないのね」


「ただのピアノ弾きだよ。ただ——先を見てるだけだ」


(先を見てる。100年先を。——だがそれはルーには言えない)





 二月。


 事業登記の手続きを始めた。

 サルが役所周りを担当し、ルーが書類を整えた。


 出版社の名前は——


「モレッティ・ミュージック・パブリッシング」


 サルが紙に書いた名前を見て、首を傾げた。


「モレッティ? お前の名前を看板にするのか?」


「当然だろう」


「イタリア人の名前だぞ。——ブレナンの客は白人の中産階級だ。『モレッティ』って看板を見て、楽譜を買うか?」


(サルの懸念は正しい。この時代、イタリア系の名前はマイナスに働く。だが——)


「看板は変えない」レオは言った。「イタリア人の名前で売る。それが——最終的には強みになる」


「どういう意味だ?」


「今はまだ説明できない。だが——信じてくれ」


(説明できない理由は二つある。一つは、ラジオの時代に名前は見えないから。もう一つは——いずれこの名前が、業界で「あの曲を書いた出版社」として認知される日が来るからだ。名前を変えて隠すのは短期的な戦略だ。長期では、名前を晒して勝つ方が強い)


 サルが肩をすくめた。「お前がそう言うなら」


 三月。登記が完了した。


 「モレッティ・ミュージック・パブリッシング」

 所在地:ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区(レオのアパートの住所)

 代表:レオナルド・モレッティ

 事業内容:楽譜出版および音楽著作権管理


 登記費用$15、印鑑$3。


(始まった)





 最初の楽譜を印刷した。


 15曲目——あのBセクションでリハーモナイズを施したバラード。タイトルは『Silver Lining(銀色の裏地)』。


(Silver Lining。「Every cloud has a silver lining」——どんな暗雲にも銀色の裏地がある。つまり、どんな困難にも希望がある。禁酒法の時代にふさわしいタイトルだ。そして——この曲の権利は、永久に俺の手元にある)


 印刷は、ルーの父ソロモンの印刷設備を借りた。1000部。版型代$30、紙と印刷$45。合計$75。


 1000部の楽譜が、レオのアパートの床に積み上がった。


「……狭い」


「当たり前よ。6メートル四方の部屋に1000部の楽譜を置いたら、歩く場所がなくなるわ」ルーが呆れた顔で言った。


「倉庫を借りる金はない」


「知ってる。だから——早く売るのよ」


 サルが楽譜の束を抱えて立ち上がった。


「俺が売ってくる。リトル・イタリーの店と、グリニッチ・ヴィレッジのレコード屋。あと——スピークイージーの客にも声をかける」


「頼む」


 ルーがASCAPの資料を広げた。


「出版実績を積めば、いずれASCAPに加入申請できる。通れば、演奏権料の分配が始まるわ」


(ASCAPへの加入。これが——長期的な収入基盤になる。楽譜は一回売ったら終わりだが、演奏権は曲が演奏される限り入り続ける。ラジオが普及すれば、1曲のヒットで年間数千ドルの権利収入が見込める。——だがそれは2年後の話だ。今は——目の前の1000部を売ることに集中する)





 四月。


 ブレナンの事務所に行った。


 先月渡した九曲目——ダンスホール向けの軽い二拍子——の代金を、まだ受け取っていなかった。


「ブレナンさん。先月の曲の件で」


「ああ、あれか」ブレナンが引き出しを開けた。「25ドルだ」


 紙幣を受け取り、領収書にサインした。


 立ち上がりかけたところで、ブレナンが声をかけた。


「——次はいつだ?」


「次?」


「次の曲だ。来月中にもう一曲持って来られるか。ダンスホール向けが最近よく出るんだ」


 レオは一瞬、言葉に詰まった。


「……しばらくは、新しい曲は持って来られないかもしれません」


 ブレナンの目が細くなった。葉巻を灰皿に置いた。


「持って来られない? お前は月に一、二曲は書いてただろう。——何かあったのか」


「個人的に取り組んでいることがありまして」


 ブレナンは二十年この業界にいる男だ。作曲家が持ち込みを止める理由は二つしかない。他の出版社に流れたか——自分で始めたか。


「モレッティ」低い声だった。「お前、まさか自分の看板を出すつもりじゃないだろうな」


 三秒の沈黙。


 嘘をつく選択肢はあった。だが意味がない。ティン・パン・アレーは狭い。登記は公開情報だ。ここで嘘をついて後から判明する方が、余計な敵意を買う。


「先月、モレッティ・ミュージック・パブリッシングという名前で登記しました」


 ブレナンの顔が変わった。最初は驚き。次に——怒りではなく、むしろ可笑しさに近い表情。


「出版社だと? お前が?」


「はい」


「流通はどうする。ヴォードヴィルの劇場との契約は? デパートの楽譜コーナーは? ソング・プラガーは雇えるのか?」


「……ラジオに賭けるつもりです」


「ラジオ?」ブレナンが鼻で笑った。「あのおもちゃか。——モレッティ、ラジオで音楽を流して何になる。楽譜が売れなくなるだけだ。ラジオで聴けるなら、誰が金を出して楽譜を買う?」


(ブレナン。お前は——半分正しい。ラジオは確かに楽譜の売上を食う。だがお前が見落としているのは、演奏権料だ。ラジオで曲が流れるたびに、ASCAPを通じて権利者に金が入る。楽譜を売らなくても——ラジオが金を生む。それが、お前にはまだ見えていない未来だ)


「そうかもしれません。でも——試してみます」


 ブレナンが机に両手をついた。


「モレッティ。お前の曲は確かに悪くなかった。だがな——25ドルの曲を書くのと、出版社を経営するのは別物だ。流通のない出版社は——印刷した楽譜を抱えて溺れるだけだ」


「忠告、ありがとうございます」


「忠告じゃない。警告だ」ブレナンの目が光った。「この業界で、俺の許可も取らずに看板を出す奴は——長く持たない。お前が困った時に俺のところに来ても、今日の条件は出さない」


「分かりました」


 レオは立ち上がった。ポケットの中の25ドル紙幣に触れた。9曲分、合計225ドル。そのうちの最後の一枚。


「ブレナンさん。25ドル、ありがとうございました」


 ブレナンの顔が一瞬歪んだ。


 レオは頭を下げ、事務所を出た。


 階段を降りながら、背中に声が聞こえた。ブレナンが電話を取る音。ダイヤルを回す音。


「——ああ、俺だ。モレッティって小僧がいただろう。あのイタリア人の——ああ、あいつが自分の看板を出したらしい。モレッティ・ミュージックだと。……ああ。——潰すか」


(——想定内だ。遅いか早いかの違いでしかなかった。この街は狭い)


 レオは足を止めなかった。通りに出て、冷たい春風の中を歩いた。


(潰すか。やってみろ、ブレナン。お前の武器は流通網と業界のコネだ。だが俺はお前の土俵では戦わない。お前が楽譜の売上にしがみついている間に、俺はラジオに乗る。お前が古い仕組みを守ろうとしている間に、俺は新しい仕組みを作る。——この戦いは、お前が思っているよりも長い。そして俺は、結末を知っている)





 ティン・パン・アレーの通りを、レオはゆっくりと歩いた。


 右も左も楽譜出版社のビルが並んでいる。窓からソング・プラガーのピアノが聞こえる。印刷所から楽譜の束を抱えた少年が走ってくる。


 この界隈が——音楽ビジネスの中心だ。少なくとも今は。


(だがこの街の構造は、あと5年で激変する。ラジオが楽譜を駆逐し、電気録音がレコードの品質を劇的に改善し、トーキー映画が音楽を映像と結びつける。ティン・パン・アレーは——消えないが、王座から降りる。その時、準備ができている者だけが生き残る)


 角を曲がったところで、新聞の号外売りの声が聞こえた。


「WEAF、商業放送を開始! ラジオの時代が来る!」


(来た。——1922年2月、WEAF局の商業ラジオ放送開始。前世の知識通りだ。ここから——ラジオの爆発的普及が始まる)


 号外を買った。2セント。


 記事を読みながら歩いた。WEAFはAT&Tの子会社で、ニューヨーク市内に向けて音楽や講演を放送する。広告主を募集し、広告収入モデルの実験を始める——


(広告収入モデル。ラジオ局は広告主から金をもらい、番組の合間にCMを流す。番組の中身として音楽を使う。つまり——ラジオ局は「楽曲」を大量に必要とする。しかも毎日、何時間分も。楽譜出版社から楽曲の使用許諾を得て演奏するか、あるいは——出版社と直接契約して楽曲を供給してもらう。ここに、モレッティ・ミュージックの入り口がある)





 五月。


 サルが最初の営業報告を持ってきた。


「レオ。200部売れた」


「200?」


「リトル・イタリーで80部、グリニッチ・ヴィレッジで40部、スピークイージーの客に30部。残りはルーの父親の店で」


 200部。1部50セントの小売で、卸値は30セント。売上は60ドル。


(60ドル。印刷費$75に対して60ドルの売上。まだ赤字だ。だが——動き始めた。1000部のうち200部が1ヶ月で売れた。残り800部。全部売れれば売上は240ドル。印刷費を引いて利益は165ドル。さらにASCAPの演奏権料が加われば——)


「サル、もう一つ」


「何だ?」


「ラジオ局に行く」


「ラジオ局?」


「WEAFに楽曲を持ち込む。ラジオで流してもらえれば——宣伝になる。楽譜の売上にも繋がる。そしてASCAPの演奏権料も入る」


 サルが眉を上げた。


「ラジオか。——聴いたことはあるが、あのおもちゃで音楽を流して金になるのか?」


「なる。2年以内に」


「2年後の話を今からするのか」


「2年後に準備ができている者が勝つんだ」


 サルが首を振った。「お前は——時々、未来人みたいなことを言うな」


(未来人。——そのものだよ、サル)





 七月。


 サッコ=ヴァンゼッティ事件の一審有罪判決から一年。弁護側の控訴が続いていたが、メディアの関心は薄れつつあった。だが、リトル・イタリーの老人たちの怒りは消えていなかった。


 レオはカフェでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた。


「サッコ=ヴァンゼッティ弁護団、新証拠を提出——控訴審の見通しは不透明」


(結局、彼らは死ぬ。1927年8月。処刑される。世界中で抗議運動が起きるが、結果は変わらない。——この国はイタリア人を人間だと思っていない。だが——金があれば話は変わる。カーネギーだって移民だ。JPモルガンだって——いや、モルガンはWASPだ。だがロスチャイルドはユダヤ系だ。金は偏見を超える。少なくとも——超えるふりをさせる)


 新聞を折りたたんだ。


 『Silver Lining』の楽譜は、3ヶ月で400部を超えた。ヒットとは呼べないが、零細出版社の最初の曲としては悪くない数字だ。


 ASCAPへの加入は、まだ先の話だった。実績を積む必要がある。


 2曲目の出版準備に入っていた。タイトルは『Midnight Rhythm(深夜のリズム)』。スピークイージーの空気を瓶詰めにしたような——暗くて熱くて、少しだけ危険な匂いのする曲。


 サルが営業先を広げていた。マンハッタンだけでなく、ブルックリンとブロンクスの楽器店にも卸し始めた。


 ルーがラジオ局への売り込み資料を作っていた。


 クリフとの共作も続けていた。電気録音の時代に備えた「仕込み曲」のストックが、10曲を超えた。


 歯車が——ゆっくりと、だが確実に回り始めていた。





 1922年8月末。


 レオは資産台帳を更新した。


 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1922年8月末


 【資産】

  現金       $438.20

  アップライトピアノ $50(推定)

  楽譜在庫     約600部(原価$45相当)

  モレッティ・ミュージック版権 2曲(評価額:未定)


 【負債】

  なし


 【月間収入】

  楽譜売上  $60-80/月(卸売)

  演奏料   $60/スピークイージー

  合計    $120-140/月


 【月間支出】

  家賃    $15

  食費    $15

  サル給与  $25/週→$100/月

  印刷費積立 $15/月

  雑費    $5

  合計    $150/月


 【純資産】$533.20(楽譜在庫・版権含む)

 ――――――――――――――――――――――


(支出が収入をわずかに上回っている。サルの給与が重い。だが——サルの営業力なしに楽譜は売れない。ここは投資フェーズだ。もう一曲ヒットすれば——あるいはASCAPの演奏権料が入り始めれば——収支が逆転する)


 窓の外は夏の終わり。


(出版社を作ってから半年。ブレナンからの妨害は——今のところ目に見える形では来ていない。だがブレナンの「潰す」は本気だっただろう。いずれ何かの形で来る。——来る前に、もう一段上がらなければ)


 次のステップは3つ。


 一、ASCAPへの正式加入。演奏権料の収入基盤を確保する。

 二、ラジオ局への楽曲供給契約。WEAFだけでなく、増え続ける新興ラジオ局にも。

 三、3曲目、4曲目の出版。カタログを増やす。


(そしてその先に——電気録音革命(1925年)、トーキー映画(1927年)、株式市場への参入。ロードマップは頭の中にある。問題は、一歩一歩を確実に踏むこと。焦らず、だが遅れず)


 ピアノに向かった。


 3曲目を書く。モレッティ・ミュージック第3弾。今度は——ラジオ放送に最適化した曲を書く。


(ラジオの音質は、今のところ酷い。帯域が狭く、歪みが多い。だが逆に言えば——ラジオで映える曲は、シンプルで覚えやすく、中音域が豊かな曲だ。複雑な和声は電波で潰れる。だからメロディラインを際立たせ、リズムを明快にし、サビを何度も繰り返す構造にする。——これは、前世のラジオ向けポップスの設計思想と同じだ)


 鍵盤に指を置いた。


 部屋の片隅には、1000部の楽譜の残り——600部が積み上がっている。机の上には出版社の帳簿。壁には手書きの営業先リスト。


 2年前、47ドルで目覚めたこの部屋が——小さな音楽出版社の本社になった。


(まだ底辺だ。ティン・パン・アレーの数百の出版社の中で、最下層。ブレナンから見れば虫ケラ程度の存在だろう。——だがな、ブレナン。虫ケラは、踏み潰されなければ育つ。そしてお前は——踏み潰すのが遅かった)


 指が鍵盤の上を走り始めた。


 そのとき、ドアを叩く音がした。


 サルだった。顔色が悪い。


「レオ。——ブレナンが動いた」


「何?」


「うちの楽譜を置いてくれてた楽器店のうち、3軒から——取引停止の連絡が来た。理由は言わない。だが——ブレナンの名前がちらついてる」


(来たか。——ブレナンの報復。流通を潰しにかかっている。俺の楽譜を置く店に圧力をかけ、取引を切らせる。古典的だが、効果的な妨害だ)


「何軒残ってる?」


「安定してるのは——五軒。リトル・イタリーの店は義理で残ってくれてるが、いつまで持つか」


 レオは立ち上がった。


「ルーに連絡してくれ。——ラジオの件を前倒しにする」


「前倒し?」


「ブレナンが楽譜の流通を潰すなら——楽譜に頼らない収入源を作る。ラジオだ。ラジオ局に曲を供給し、演奏権料で稼ぐ。楽譜はおまけになる。——ブレナンが潰せるのは楽譜の販路だけだ。電波は潰せない」


 サルが息を吐いた。


「お前は……本当に、頭の中に計画があるんだな」


「ある。——行くぞ」





 九月。


 レオはWEAF局のスタジオに楽曲のデモを持ち込んだ。

 まだ小さな局だったが、放送時間を埋める楽曲を常に求めていた。


 結果は——


「面白い曲だね。何曲持ってる?」


「現在三曲出版済みです。さらにストックが十二曲」


「月に二曲新曲を供給できるなら——うちの夜の番組で使ってみたい」


(入った)


 WEAF局との楽曲供給の口約束を取り付けた。正式な契約ではないが——放送での使用実績ができれば、いずれASCAPに加入申請する際にも有利に働く。


 ルーが電話をかけまくっていた。WEAFだけでなく、ニューヨーク近郊の小規模ラジオ局にも。


「WOR局が興味を示してる。あとニュージャージーのWJZ局も」


「全部行け。曲は出す」


(ラジオ局の数は、これから爆発的に増える。1922年末には全米で数百局になる。その全てが楽曲を必要とする。今のうちに関係を築いておけば——二年後にASCAPの包括ライセンス契約が始まった時、演奏権料の分配で圧倒的に有利になる)


 ブレナンの楽譜流通妨害は続いていたが、レオの戦場はもう楽譜ではなかった。電波だ。





 1922年10月。


 レオは机の上に資産台帳を広げた。


 ――――――――――――――――――――――

 レオナルド・モレッティ 資産台帳

 1922年10月末


 【資産】

  現金       $412.55

  アップライトピアノ $50

  楽譜在庫     約400部

  モレッティ・ミュージック版権 3曲

  ラジオ局との関係 3局(供給口約束)


 【負債】

  なし


 【月間収入】

  楽譜売上  $40-50/月(流通減少の影響)

  演奏料   $60/月

  合計    $100-110/月


 【月間支出】

  $150/月(変動なし)


 【純資産】約$500(版権含む)

 ――――――――――――――――――――――


(赤字だ。月40ドルのペースで現金が減っている。ブレナンの妨害で楽譜売上が落ちた分が効いている。あと三ヶ月でキャッシュが尽きる。——だがASCAPに加入できれば、演奏権料が入り始める。ラジオ局への供給が軌道に乗れば、楽譜に頼らない収入基盤ができる。問題は——間に合うかどうかだ)


 窓の外は秋深い。


 だがレオの頭の中には、確信があった。


(間に合う。ラジオの普及速度は——前世の知識が教えてくれている。1923年には受信機が500万台を超える。商業放送の数は急増する。楽曲需要は爆発する。——あと半年だ。半年持ちこたえれば、風向きが変わる)


 ピアノに向かった。

 四曲目を書く。


 鍵盤の上で、指が踊った。


 テーブルの上には、出版社の登記証書。壁には営業先のリスト。引き出しの中には、電気録音時代に備えた仕込み曲のストック。


 全ての歯車が——かみ合い始めていた。


 だがまだ底辺だ。ブレナンの影。マッシモの影。差別の壁。金の不足。


(それでも——2年前に47ドルで目覚めた男が、今は自分の看板を持っている。500ドルの純資産。3曲の版権。3つのラジオ局との関係。一人の相棒と、一人のビジネスパートナーと、一人のジャズマンの仲間。——ゼロからここまで来た)


(あと七年。1929年まで、あと七年。その間に——音楽帝国の基盤を作る。ラジオと電気録音とトーキー映画で、この時代の音楽産業の三本柱を握る。そして1929年10月——全てを売り抜け、暴落で刈り取る)


(だが今は——四曲目を書く。一歩ずつ)


 ピアノの音が、小さなアパートの中に響いた。


 窓の外では、1922年の秋が深まっていた。

 ラジオ受信機を買った隣人の部屋から、かすかに音楽が聞こえてきた。ノイズだらけの、途切れ途切れの放送。


(ラジオの時代が来る。——あの雑音の向こうに、俺の曲が流れる日が来る)


 指が鍵盤を叩いた。


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