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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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第9話 答え合わせ、いたしませんか


王都の財務庁の会議室は、思っていたよりも天井が低かった。


七年暮らした街なのに、この部屋には一度も入ったことがなかった。壁一面が濃い胡桃材で、正面に王家の紋章。長机が三つ、ロの字に並べられ、中央の空いた空間に発言者が立つ形式だった。


議長席にいるのは、王国財務庁第二課のマルセル卿。中年の、眼鏡の縁が細い、どこか神経質そうな男だった。私が入廷したとき、彼は手元の書類の山を崩さずに一度だけ目を上げて、軽く会釈をした。


「前夫人アデライン殿。ご足労、痛み入る」


「お呼びいただきましたので」


私の二歩後ろに、ハロルドが帳簿の入った木箱を抱えて控えていた。さらにその斜め後ろの席に、辺境伯レオンハルト様。証人席。腕を組み、口は引き結ばれ、視線だけが真っ直ぐ正面を見ていた。


反対側の席には、ユリウス・ヴェルナー伯爵。それから、その隣に、リゼット嬢の姿もあった。


呼んだのね、奥様として同席を。たぶん、最悪の判断だと思うけれど。まあ、いい。数字の前では、所作は武器にならない。



マルセル卿が、書類の山の一番上を軽く叩いた。


「本日の議題は、ヴェルナー伯爵領の本年度穀物税申告における齟齬である。提出された申告書と、商人ギルドの取引記録の間に、およそ四千石の差異が確認されている」


四千石。


会議室の空気が、一段沈んだ。前世で言えば、中堅企業の粉飾決算のラインだった。


「伯爵、御説明を」


ユリウスが立ち上がった。準備してきたらしい口調だった。


「恐れながら申し上げます。本年度の申告書類は、私の妻、前妻の誤りでございます。彼女は長年、屋敷の帳簿を任されておりましたが、離縁を前に書類を持ち出し、残された写しは不完全なものでした。そこから現在の妻が書き起こす際に、やむを得ず欠けた部分が生じた次第にございます」


滑らかだった。ユリウスの話し方は、いつも滑らかだった。


マルセル卿が、ゆっくりと私のほうを向いた。


「アデライン殿。反論は?」


私は一歩、前に出た。


「反論ではなく、ご確認をお願い申し上げたく存じます」


「どうぞ」


「ハロルド、一冊目を」


ハロルドが木箱から一冊、取り出して、私の手に渡した。革の表紙、ヴェルナー家の刻印、角の擦り切れ方まで、七年私の手にあった帳簿。


長机の上に、そっと置いた。


「こちらが、ヴェルナー伯爵領、三年前の穀物収支帳簿の原本にございます。ページを繰っていただきますと、すべての記入が、同じ筆跡で一貫しておりますことが、お分かりいただけるかと存じます」


マルセル卿が、ページを捲った。二枚、三枚、四枚。無言のまま。


「二冊目」


また受け取って、置く。


「三冊目」


七冊目まで、机の上に並べきった。


帳簿の列が、会議室の真ん中を、一本の壁のように横切った。


「お手数ですが、七冊のうちの、任意の一ページと、本年度の申告書類の筆跡を、お手元の鑑定官にて比較していただけませんか」


マルセル卿は何も言わずに、後ろの文官に目で合図を送った。



会議室の外で、筆跡鑑定は三十分ほどかかった。


その間、誰もほとんど口を開かなかった。ユリウスは一度、リゼットに小声で何か囁いた。リゼットはうなずきかけて、すぐに視線を落とした。彼女の膝の上で、指先が、布を強く握っていた。


所作が美しい人の、崩れる瞬間って、本当に静かなのね。前世の上司の不倫発覚のときと、同じ顔してる。……いえ、これ、考えないでおこう。


レオンハルト様はその間、微動だにしなかった。ただ一度、横目でこちらをちらりと見た。それだけで、会議の緊張の何割かが、私の肩から外れた。


やがて、文官が戻ってきた。


「申し上げます。提出された本年度申告書類の筆跡は、原本七冊の筆跡とは、明らかに異なります。また、原本七冊の筆跡は、すべて同一人物のものと鑑定されました」


マルセル卿が、眼鏡の縁を指で押し上げた。


「伯爵。この結果について」


ユリウスの顔から、血の気がまた引いた。広間のときと同じ引き方だった。


「妻の、引き継ぎが不十分で」


「どちらの妻の話か、今一度、明確にされよ」


マルセル卿の声は、怒りではなく、事実を事実として扱うときの、あの平らかな温度だった。


ユリウスは答えなかった。


私は、静かに、言った。


「ユリウス様。答え合わせ、いたしませんか」


彼の視線が、こちらに、ゆっくりと動いた。


「三年分の帳簿、すべて、私の字です。本年度の申告書類の字は、どなたのものですか?」


会議室の空気が、ぴたりと止まった。


リゼットは、もう顔を上げなかった。



大筋は、そこから先、半時間で片付いた。


本年度の申告書類の筆跡は、ヴェルナー伯爵家の会計見習いクラリス嬢のものと判明した。彼女はすでに辞職していたが、後日の聴取で「奥様から、記載内容を指示された」と証言する準備がある、と別の書状が出てきた。リゼット嬢からの横流しの痕跡は、商人ギルドの記録と突き合わせることで、数字の筋が浮かんできた。


マルセル卿は、淡々と、結論を読み上げた。


伯爵位、一時停止。

領地経営権、王国の直轄監査下へ。

リゼット嬢の横領については、別途、正式な裁きの場へ。


個人の失敗の話ではなかった。ヴェルナー伯爵領の税収は、この国の西部の食糧流通の三割を担っていた。それが一年間、まるごと「書き直された数字」の上に立っていた。影響は、国の穀物価格そのものに及びかねなかった。


会議室を出るとき、ユリウスが、私の背中に声を投げた。


「アデライン。君は、こうなるのを、最初から見ていたのか」


私は、振り返らずに答えた。


「見ていたのは、数字のほうです。七年間、ずっと」



会議室の外、回廊のいちばん端の窓に、午後の光が差していた。


レオンハルト様が、私の少し後ろで立ち止まった。それから、黙ったまま、手を差し出してきた。革の手袋を外していた。


私はその手に、自分の手を重ねた。


「アデライン」


「はい」


「王都から戻ったら、と、俺は昨日、言ったな」


「仰いました」


「戻らずに、ここで言う」


窓の光が、彼の銀灰色の髪を、白く縁取っていた。


「俺の辺境に――ずっといてくれないか」


代わりに、もっと静かな何かが、私の喉の奥まで上がってきて、一度、息を詰まらせて、それから、言葉になった。


「はい」


短い返事だった。


短いけれど、七年分の答え合わせの、いちばん最後の一行だった。

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