第10話 推しは尊いが、夫はもっと尊かった
辺境の秋は、短い。
王都から戻って二月と少し。森の針葉樹の根元に、背の低い草が黄色く色づき、朝の中庭には霜が降りるようになった。吐く息が白い。白いけれど、胸の奥は、いつも少しだけ温かい。
私はもう「前夫人」ではなく、ただの「アデライン」と呼ばれていた。離れの世話係のミアも、長卓の厨房係たちも、最近はその呼び方に慣れてきたらしい。奥様、と呼ばれなくなったぶん、かえって毎朝の挨拶が増えた。
「おはようございます、アデライン様」
「おはよう、ミア。ねえ、今日って何か、城下で準備してない?」
「ふふ。閣下から、まだ内緒と言われております」
内緒、と言われた瞬間、前世の社畜本能が「何かやらされるな」と身構えた。けれど、今のこの場所で「やらされる」ことは、たいてい、悪い意味ではない。
◇
王都から戻ってすぐ、ヴェルナー伯爵領の話はひとまず一区切りついた。
ユリウスは伯爵位を一時停止のまま、王都郊外にある母親、ヴェルナー伯爵太后の実家の別邸に引き取られた。社交界の夜会からは自然と名前が消え、招待状の差出人一覧に「ヴェルナー」の文字を探しても、もう見つからないという話を、カミル殿からの短い便りで知った。
リゼット嬢は男爵家の娘の身分に戻され、王都の商人ギルドとの一切の取引を断たれた。アルフォンスは、王家が指名した後見人のもとに預けられた。これは主人公の私が決めたことではない。王国の手続きがそう決めた。それでよかったと思う。
あの帽子、返してもらわなくても、よかったな。あの子が被ってくれていたなら、それで十分。橅の葉と、小さな熊。
思い出しながら、私は中庭の桃の木を見上げた。夏の終わりに実をつけるはずの枝は、今はすっかり葉を落として、細い骨組みだけになっていた。それでも、春にはまた、と思うと、不思議と先のことが楽しみだった。
◇
昼過ぎ、ハロルドが私を城の正面広間まで連れ出した。
「アデライン様。少し、外までお出ましを」
「外?」
「はい。閣下が、お待ちです」
正面広間の扉を押し開けた瞬間、北風ではない、もっと賑やかな音が耳に入ってきた。
城下の広場に、人が集まっていた。
屋台。木の組み立て櫓。色の布。笛と太鼓。辺境の秋の市とは明らかに違う空気だった。子供たちが広場の真ん中を走り回り、年寄りが椅子を並べ、厨房係たちが大鍋からスープを掬っていた。
その真ん中に、レオンハルト様が立っていた。
私を見つけると、彼はわずかに顎を引いて、いつもどおりのうなずきをした。ただ、いつもより一拍だけ、遅かった。
「来たか」
「これは、何の、お祭りですか」
「お前がつけた名だ」
「え?」
「『推し活』の祭りだそうだ」
広場の櫓の上から、若い触れ役が声を張り上げた。
『アイゼンベルク辺境領、第一回、推しへの感謝のお祭りにございます! 本日は、日頃より心に描いておられる”推し”のお名前を、こちらの木札にお書きくださいませ!』
私は、しばらく、立ったまま動けなかった。
え。
え、私、やりました? 名付けました?
やってない。やってないけれど。
違う。これ、名付けかどうかの話じゃない。
これは、この人なりの、返事だ。
執務室で「推し活というのは、響きは軽いが、本質は信仰に近いのだな」と呟いた日から、彼の中で、この祭りはもう始まっていたのだ。言葉にはしない。けれど、彼は、動いたのだ。
◇
広場を、二人で、ゆっくり歩いた。
子供たちが木札に何か書きつけては、祭りの櫓に吊るしていく。「おかあさん」「じいちゃん」「山の精霊さま」「パン屋のおじさん」。読んでいるうちに、私はなぜか、目の奥よりも先に、喉の奥のあたりが熱くなった。
「閣下。この祭り、毎年、続けるおつもりですか」
「続ける。お前が、いる限り」
お前が、いる限り。
私はまだ、「奥様」の肩書きを辞退したままだった。籍は王国の手続きを経る途中で、正式な辺境伯夫人になる日は、もう少し先の話だった。それでも、彼の口が言う「お前が、いる限り」は、そういう紙の話よりも、ずっと確かだった。
広場の外れに、桃の木を模した木の枝が一本、立てられていた。実の代わりに、小さな紙の札が、いくつもいくつも、結び付けてあった。
その中の一番下に、一枚だけ、黒い革の紐で結ばれた札があった。
私は、近づいて、屈みこんだ。
札には、短く、こう書かれていた。
『 アデライン 』
それだけだった。
背後で、足音が止まった。
私は札を手に取らなかった。取ってしまえば、この場所から動かせなくなるような気がした。札はこの枝に結ばれたまま、風に任せて揺れているのが、たぶん、正しかった。
立ち上がって、振り返った。
レオンハルト様が、黒革の手袋を外したまま、立っていた。
「推す側は、推される側に、気づかれないものだと、お前は言ったな」
「……申しました」
「俺は、気づかれたい」
低くて、たぶん、この人が一生のうちに出した言葉の中で、最も誠実な温度だった。
私は、笑った。
笑って、それから、たぶん泣きそうな顔になって、最後にもう一度、笑った。
「気づいておりました」
「いつから」
「ぬるい茶を、熱い顔もせずに、苦い顔もせずに、黙って飲んでくださったあたりから」
レオンハルト様の、いつも動かない表情筋の、いくつかが、一度に動いた。
それがどんな表情だったかは、たぶん、私の言葉では描写しきれない。
◇
夜、離れの暖炉の前で、ハロルドに手紙を書いた。
宛先は、商人ギルド長カミル殿。王都の友人とも呼べる、字の震える老人。
『カミル殿へ。
お世話になりました。
塩の置き場所を、ようやく新しい家で、自分の手で決めました。
七年前より、ほんの少しだけ、高い棚の上にございます。
手を伸ばさないと取れませんが、取れないことはない、くらいの高さです。
ちょうど、いい。
アデライン』
封蝋を押す前に、一度だけ、便箋を声に出さずに読み返した。
前世の私は、推しを画面の向こうに見ていた。
今世の私は、推しに、朝の挨拶をしている。
それは、祈りの距離が、一歩だけ、縮まったということだった。
一歩でも、縮まれば、違う。
祈りは、向こうにも、届く。
窓の外で、北風が、低く一定に鳴っていた。
私は、便箋を折りたたみ、封蝋を押した。
終わり、ではなく、続きの始まり、の音がした。




