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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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10/10

第10話 推しは尊いが、夫はもっと尊かった


辺境の秋は、短い。


王都から戻って二月と少し。森の針葉樹の根元に、背の低い草が黄色く色づき、朝の中庭には霜が降りるようになった。吐く息が白い。白いけれど、胸の奥は、いつも少しだけ温かい。


私はもう「前夫人」ではなく、ただの「アデライン」と呼ばれていた。離れの世話係のミアも、長卓の厨房係たちも、最近はその呼び方に慣れてきたらしい。奥様、と呼ばれなくなったぶん、かえって毎朝の挨拶が増えた。


「おはようございます、アデライン様」


「おはよう、ミア。ねえ、今日って何か、城下で準備してない?」


「ふふ。閣下から、まだ内緒と言われております」


内緒、と言われた瞬間、前世の社畜本能が「何かやらされるな」と身構えた。けれど、今のこの場所で「やらされる」ことは、たいてい、悪い意味ではない。



王都から戻ってすぐ、ヴェルナー伯爵領の話はひとまず一区切りついた。


ユリウスは伯爵位を一時停止のまま、王都郊外にある母親、ヴェルナー伯爵太后の実家の別邸に引き取られた。社交界の夜会からは自然と名前が消え、招待状の差出人一覧に「ヴェルナー」の文字を探しても、もう見つからないという話を、カミル殿からの短い便りで知った。


リゼット嬢は男爵家の娘の身分に戻され、王都の商人ギルドとの一切の取引を断たれた。アルフォンスは、王家が指名した後見人のもとに預けられた。これは主人公の私が決めたことではない。王国の手続きがそう決めた。それでよかったと思う。


あの帽子、返してもらわなくても、よかったな。あの子が被ってくれていたなら、それで十分。橅の葉と、小さな熊。


思い出しながら、私は中庭の桃の木を見上げた。夏の終わりに実をつけるはずの枝は、今はすっかり葉を落として、細い骨組みだけになっていた。それでも、春にはまた、と思うと、不思議と先のことが楽しみだった。



昼過ぎ、ハロルドが私を城の正面広間まで連れ出した。


「アデライン様。少し、外までお出ましを」


「外?」


「はい。閣下が、お待ちです」


正面広間の扉を押し開けた瞬間、北風ではない、もっと賑やかな音が耳に入ってきた。


城下の広場に、人が集まっていた。


屋台。木の組み立て櫓。色の布。笛と太鼓。辺境の秋の市とは明らかに違う空気だった。子供たちが広場の真ん中を走り回り、年寄りが椅子を並べ、厨房係たちが大鍋からスープを掬っていた。


その真ん中に、レオンハルト様が立っていた。


私を見つけると、彼はわずかに顎を引いて、いつもどおりのうなずきをした。ただ、いつもより一拍だけ、遅かった。


「来たか」


「これは、何の、お祭りですか」


「お前がつけた名だ」


「え?」


「『推し活』の祭りだそうだ」


広場の櫓の上から、若い触れ役が声を張り上げた。


『アイゼンベルク辺境領、第一回、推しへの感謝のお祭りにございます! 本日は、日頃より心に描いておられる”推し”のお名前を、こちらの木札にお書きくださいませ!』


私は、しばらく、立ったまま動けなかった。


え。

え、私、やりました? 名付けました?

やってない。やってないけれど。

違う。これ、名付けかどうかの話じゃない。

これは、この人なりの、返事だ。


執務室で「推し活というのは、響きは軽いが、本質は信仰に近いのだな」と呟いた日から、彼の中で、この祭りはもう始まっていたのだ。言葉にはしない。けれど、彼は、動いたのだ。



広場を、二人で、ゆっくり歩いた。


子供たちが木札に何か書きつけては、祭りの櫓に吊るしていく。「おかあさん」「じいちゃん」「山の精霊さま」「パン屋のおじさん」。読んでいるうちに、私はなぜか、目の奥よりも先に、喉の奥のあたりが熱くなった。


「閣下。この祭り、毎年、続けるおつもりですか」


「続ける。お前が、いる限り」


お前が、いる限り。


私はまだ、「奥様」の肩書きを辞退したままだった。籍は王国の手続きを経る途中で、正式な辺境伯夫人になる日は、もう少し先の話だった。それでも、彼の口が言う「お前が、いる限り」は、そういう紙の話よりも、ずっと確かだった。


広場の外れに、桃の木を模した木の枝が一本、立てられていた。実の代わりに、小さな紙の札が、いくつもいくつも、結び付けてあった。


その中の一番下に、一枚だけ、黒い革の紐で結ばれた札があった。


私は、近づいて、屈みこんだ。


札には、短く、こう書かれていた。


『 アデライン 』


それだけだった。


背後で、足音が止まった。


私は札を手に取らなかった。取ってしまえば、この場所から動かせなくなるような気がした。札はこの枝に結ばれたまま、風に任せて揺れているのが、たぶん、正しかった。


立ち上がって、振り返った。


レオンハルト様が、黒革の手袋を外したまま、立っていた。


「推す側は、推される側に、気づかれないものだと、お前は言ったな」


「……申しました」


「俺は、気づかれたい」


低くて、たぶん、この人が一生のうちに出した言葉の中で、最も誠実な温度だった。


私は、笑った。


笑って、それから、たぶん泣きそうな顔になって、最後にもう一度、笑った。


「気づいておりました」


「いつから」


「ぬるい茶を、熱い顔もせずに、苦い顔もせずに、黙って飲んでくださったあたりから」


レオンハルト様の、いつも動かない表情筋の、いくつかが、一度に動いた。


それがどんな表情だったかは、たぶん、私の言葉では描写しきれない。



夜、離れの暖炉の前で、ハロルドに手紙を書いた。


宛先は、商人ギルド長カミル殿。王都の友人とも呼べる、字の震える老人。


『カミル殿へ。

お世話になりました。

塩の置き場所を、ようやく新しい家で、自分の手で決めました。

七年前より、ほんの少しだけ、高い棚の上にございます。

手を伸ばさないと取れませんが、取れないことはない、くらいの高さです。

ちょうど、いい。

アデライン』


封蝋を押す前に、一度だけ、便箋を声に出さずに読み返した。


前世の私は、推しを画面の向こうに見ていた。

今世の私は、推しに、朝の挨拶をしている。


それは、祈りの距離が、一歩だけ、縮まったということだった。

一歩でも、縮まれば、違う。

祈りは、向こうにも、届く。


窓の外で、北風が、低く一定に鳴っていた。


私は、便箋を折りたたみ、封蝋を押した。


終わり、ではなく、続きの始まり、の音がした。

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― 新着の感想 ―
綺麗な終わり方なのですが、 いつももう少し続きが読みたいと思ってしまいます。素敵なお話ありがとうございました
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