第8話 あの子の母は、どなたです
出立の朝は、空が妙に高かった。
離れの前に二台の馬車。一台は私とハロルド、もう一台はレオンハルト様と辺境警備の兵三人。王都までは早馬で六日、馬車なら九日の道のりだと聞かされた。
荷物の最後の確認をしていたとき、城の正門のほうから、一度、短い角笛の音が上がった。
角笛は、許可のない客の到着を告げる合図だった。
ハロルドが、荷紐を結ぶ手を止めた。
「……まさか」
「たぶん、そうです」
走りたい衝動を、踵に押し込んだ。走って迎えに行く義理はない。けれど歩きだけは、止められなかった。石畳の上を、中庭を横切って、正面の広間へ。
広間の扉は、もう開いていた。
◇
旅塵にまみれたマントを羽織った男が、ひとり、広間の中央に立っていた。
縦の線が長い字をそのまま身にまとったような、細い肩と整った顎。七年見続けた夫の姿だった。疲れてはいるが、顔つきには怒りよりも「自分は正しい」という確信のほうが濃く残っている。後ろには同道の従者が一人だけ。武装はしていない。
私を見つけた瞬間、ユリウスは笑顔を作った。
作った、と分かる笑顔だった。
「アデライン。迎えに来た」
「ようこそ、と申し上げるべき場所でも立場でもないかと存じます」
「冷たいな。七年連れ添った夫に」
「七年連れ添った、の主語の幅を、もう少し正確にしていただけますか」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。ただ、舌の奥が、鉄の味を含んだように鈍くなっていた。
ユリウスは一歩、私のほうへ詰め寄ろうとした。
その前に、誰かが、間に入った。
広間の奥、柱の陰から出てきたレオンハルト様だった。いつから立っていたのかは分からない。ただ、彼が動いたのは、ユリウスの靴が石床を鳴らすより、一拍、早かった。
彼はひとことも発さないまま、私の斜め前に立った。肩幅の広さで、ユリウスの視線が一度、遮られる。窓から差す朝の光が、ちょうど背後から差していて、銀灰色の髪の輪郭が白く抜けていた。
「何だ、貴殿は」
ユリウスの声が初めて尖った。
「アイゼンベルク」
それだけで十分だった。辺境伯の名を、この国の伯爵家で知らぬ者はいない。
ユリウスの表情筋が、ほんの数秒、迷子になった。
◇
「誤解があるようだ、辺境伯閣下。アデラインは私の妻だ。内輪の話に、外の方が口を挟む筋のものではない」
「離縁状はすでに教会に届いているはずだ」
「まだ受理されていない」
「俺の調べでは、十日前に受理されている」
ユリウスの顎が、少しだけ上がった。
「そういう細かい事務の話ではない。アデラインには、戻ってきてもらわねば困るのだ。屋敷の差配、使用人の統率、それにアルフォンスのこともある。あの子はまだ幼い。実の母のそばから離すのは」
広間の空気が、その一言で、ぴたりと止まった。
乾いた笑いが、奥のほうで、勝手に湧いた。
「ユリウス様」
「うん?」
「今、あなたは、何と仰いました?」
「だから、アルフォンスの、実の母のことだ。リゼットにとっても、あの子を」
実の、母。
実の、母。
ふざけるな。
いや違う。ふざけてたのは、笑っていたのは、私のほうだ。
あの子に、帽子を刺してやっていた私のほうだ。
橅の葉と、小さな熊を。
「妻の手によるものだ」と、社交界で、あなたは笑って言った。
笑って、言った。
指先が氷みたいに冷たくなっていた。喉の奥は、逆に、妙に熱かった。冷たいのと熱いのが、鎖骨のあたりで鉢合わせして、行き場をなくしていた。
私は、息を一度、ゆっくり整えた。
「あの子の実の母が、リゼット様だと、ご自身の口で、ほかでもない、辺境伯閣下のご面前で、はっきりと仰いましたね」
ユリウスの顔から、血の気が、ゆっくり引いた。
遠縁の養子だと、彼自身が去年の夏、私に言ったのだ。橅の葉と小さな熊を刺繍したお揃いの帽子を、彼は「妻の手によるものだ」と社交界で紹介したのだ。
「言葉の綾だ」
「そういう綾がご趣味の方を、妻と呼んでいた七年間を、私はこれから、ゆっくり思い返していこうと思います」
レオンハルト様が、私の背後で、静かに息を吸い直したのが分かった。
◇
ユリウスはもう笑顔を作ろうとしなかった。
「アデライン。戻ってこい」
「お断りいたします」
「戻ってこなければ、私は君を王都の財務庁会議に、私の名で告発する」
「私はすでに、私の名で召喚されております。告発の必要はございません」
「君の後ろのその男を、失うことになるぞ」
それは、たぶん、言わないほうがよかった一言だった。
私の前で、レオンハルト様が、初めて口を開いた。
「その台詞は、貴殿が俺に向けて言うべきものだ。彼女を通すな」
低い声。刃の温度だった。
「俺が失うかどうかは、俺が決める」
ユリウスは、何か言いかけて、やめた。従者の肩を強く叩いて、そのまま踵を返した。去り際、振り返りもしなかった。
広間の扉が閉まる音を、私は、他人事のように聞いた。
◇
広間の真ん中に、ふたりだけ、残された。
レオンハルト様は、ゆっくりと振り返って、私の顔を見た。表情は相変わらず少ししか動かない。ただ、目の奥の光が、昨日までとは違う角度で差していた。
「アデライン」
「はい」
「俺は、たぶん、君に」
言いかけて、止まった。
言葉が、というより、彼の誠実さが、そこで止めさせたのだと思う。王都会議の前だった。まだ、何ひとつ、決着がついていなかった。
「いや。いまは、やめておく」
「……はい」
「続きは、王都から戻ったあとにしたい」
「はい」
私は、それ以上は何も言わなかった。
鎖骨のあたりで行き場をなくしていた冷たさと熱さが、ゆっくりと、混ざりあって、どこか深いところへ沈んでいった。沈んだ先で、名前のつかない感情が、静かに広がっていた。
◇
馬車が動き出したのは、陽が高くなる前だった。
窓の外を、北の針葉樹の森が流れていく。往きよりも、少しだけ、色が濃く見えた。
ハロルドが向かい合わせの席で、膝に古い帳簿の束を抱えていた。七冊。一冊も欠けていない。
「アデライン様」
「はい」
「王都に、忘れ物は、ございませんか」
忘れ物。
七年前に、たくさん置いてきたもの。七年間、拾えなかったもの。塩の置き場所、帳簿の桁、正しい言葉づかい、そして、あの子に刺した帽子の意味。
「一つだけ、あります」
「と、申しますと」
「答え合わせを、まだしていません」
ハロルドは、それ以上は尋ねなかった。
馬車は、南へ向かって、ゆっくり加速していった。




