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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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第8話 あの子の母は、どなたです


出立の朝は、空が妙に高かった。


離れの前に二台の馬車。一台は私とハロルド、もう一台はレオンハルト様と辺境警備の兵三人。王都までは早馬で六日、馬車なら九日の道のりだと聞かされた。


荷物の最後の確認をしていたとき、城の正門のほうから、一度、短い角笛の音が上がった。


角笛は、許可のない客の到着を告げる合図だった。


ハロルドが、荷紐を結ぶ手を止めた。


「……まさか」


「たぶん、そうです」


走りたい衝動を、踵に押し込んだ。走って迎えに行く義理はない。けれど歩きだけは、止められなかった。石畳の上を、中庭を横切って、正面の広間へ。


広間の扉は、もう開いていた。



旅塵にまみれたマントを羽織った男が、ひとり、広間の中央に立っていた。


縦の線が長い字をそのまま身にまとったような、細い肩と整った顎。七年見続けた夫の姿だった。疲れてはいるが、顔つきには怒りよりも「自分は正しい」という確信のほうが濃く残っている。後ろには同道の従者が一人だけ。武装はしていない。


私を見つけた瞬間、ユリウスは笑顔を作った。


作った、と分かる笑顔だった。


「アデライン。迎えに来た」


「ようこそ、と申し上げるべき場所でも立場でもないかと存じます」


「冷たいな。七年連れ添った夫に」


「七年連れ添った、の主語の幅を、もう少し正確にしていただけますか」


自分でも驚くほど、声は震えなかった。ただ、舌の奥が、鉄の味を含んだように鈍くなっていた。


ユリウスは一歩、私のほうへ詰め寄ろうとした。


その前に、誰かが、間に入った。


広間の奥、柱の陰から出てきたレオンハルト様だった。いつから立っていたのかは分からない。ただ、彼が動いたのは、ユリウスの靴が石床を鳴らすより、一拍、早かった。


彼はひとことも発さないまま、私の斜め前に立った。肩幅の広さで、ユリウスの視線が一度、遮られる。窓から差す朝の光が、ちょうど背後から差していて、銀灰色の髪の輪郭が白く抜けていた。


「何だ、貴殿は」


ユリウスの声が初めて尖った。


「アイゼンベルク」


それだけで十分だった。辺境伯の名を、この国の伯爵家で知らぬ者はいない。


ユリウスの表情筋が、ほんの数秒、迷子になった。



「誤解があるようだ、辺境伯閣下。アデラインは私の妻だ。内輪の話に、外の方が口を挟む筋のものではない」


「離縁状はすでに教会に届いているはずだ」


「まだ受理されていない」


「俺の調べでは、十日前に受理されている」


ユリウスの顎が、少しだけ上がった。


「そういう細かい事務の話ではない。アデラインには、戻ってきてもらわねば困るのだ。屋敷の差配、使用人の統率、それにアルフォンスのこともある。あの子はまだ幼い。実の母のそばから離すのは」


広間の空気が、その一言で、ぴたりと止まった。


乾いた笑いが、奥のほうで、勝手に湧いた。


「ユリウス様」


「うん?」


「今、あなたは、何と仰いました?」


「だから、アルフォンスの、実の母のことだ。リゼットにとっても、あの子を」


実の、母。

実の、母。

ふざけるな。

いや違う。ふざけてたのは、笑っていたのは、私のほうだ。

あの子に、帽子を刺してやっていた私のほうだ。

橅の葉と、小さな熊を。

「妻の手によるものだ」と、社交界で、あなたは笑って言った。

笑って、言った。


指先が氷みたいに冷たくなっていた。喉の奥は、逆に、妙に熱かった。冷たいのと熱いのが、鎖骨のあたりで鉢合わせして、行き場をなくしていた。


私は、息を一度、ゆっくり整えた。


「あの子の実の母が、リゼット様だと、ご自身の口で、ほかでもない、辺境伯閣下のご面前で、はっきりと仰いましたね」


ユリウスの顔から、血の気が、ゆっくり引いた。


遠縁の養子だと、彼自身が去年の夏、私に言ったのだ。橅の葉と小さな熊を刺繍したお揃いの帽子を、彼は「妻の手によるものだ」と社交界で紹介したのだ。


「言葉の綾だ」


「そういう綾がご趣味の方を、妻と呼んでいた七年間を、私はこれから、ゆっくり思い返していこうと思います」


レオンハルト様が、私の背後で、静かに息を吸い直したのが分かった。



ユリウスはもう笑顔を作ろうとしなかった。


「アデライン。戻ってこい」


「お断りいたします」


「戻ってこなければ、私は君を王都の財務庁会議に、私の名で告発する」


「私はすでに、私の名で召喚されております。告発の必要はございません」


「君の後ろのその男を、失うことになるぞ」


それは、たぶん、言わないほうがよかった一言だった。


私の前で、レオンハルト様が、初めて口を開いた。


「その台詞は、貴殿が俺に向けて言うべきものだ。彼女を通すな」


低い声。刃の温度だった。


「俺が失うかどうかは、俺が決める」


ユリウスは、何か言いかけて、やめた。従者の肩を強く叩いて、そのまま踵を返した。去り際、振り返りもしなかった。


広間の扉が閉まる音を、私は、他人事のように聞いた。



広間の真ん中に、ふたりだけ、残された。


レオンハルト様は、ゆっくりと振り返って、私の顔を見た。表情は相変わらず少ししか動かない。ただ、目の奥の光が、昨日までとは違う角度で差していた。


「アデライン」


「はい」


「俺は、たぶん、君に」


言いかけて、止まった。


言葉が、というより、彼の誠実さが、そこで止めさせたのだと思う。王都会議の前だった。まだ、何ひとつ、決着がついていなかった。


「いや。いまは、やめておく」


「……はい」


「続きは、王都から戻ったあとにしたい」


「はい」


私は、それ以上は何も言わなかった。


鎖骨のあたりで行き場をなくしていた冷たさと熱さが、ゆっくりと、混ざりあって、どこか深いところへ沈んでいった。沈んだ先で、名前のつかない感情が、静かに広がっていた。



馬車が動き出したのは、陽が高くなる前だった。


窓の外を、北の針葉樹の森が流れていく。往きよりも、少しだけ、色が濃く見えた。


ハロルドが向かい合わせの席で、膝に古い帳簿の束を抱えていた。七冊。一冊も欠けていない。


「アデライン様」


「はい」


「王都に、忘れ物は、ございませんか」


忘れ物。


七年前に、たくさん置いてきたもの。七年間、拾えなかったもの。塩の置き場所、帳簿の桁、正しい言葉づかい、そして、あの子に刺した帽子の意味。


「一つだけ、あります」


「と、申しますと」


「答え合わせを、まだしていません」


ハロルドは、それ以上は尋ねなかった。


馬車は、南へ向かって、ゆっくり加速していった。

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