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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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第7話 推し活というのは、信仰に近いのだな


朝、執務室の自分の椅子が、違っていた。


いや、一見すると同じだった。黒い革張りの、背もたれの高い、飾り気のない椅子。けれど腰を下ろした瞬間、座面のクッションが前よりもわずかに柔らかい。肘掛けの位置も、ほんの少しだけ低い。昨日まで、長時間書き物をすると肩が凝っていたあの角度が、今朝は楽だった。


え? 待って。いつ、誰が、替えたの。


私は立ち上がって、椅子をまじまじと見た。脚の一本に、木目の小さな節がある。以前の椅子にはなかった節だ。同じようでいて、違うものが、そこに置かれていた。


廊下の向こうから、ミアが通りかかった。


「ミア、あの、この椅子」


「はい。昨夜、閣下のご指示で、使用人棚の奥から一番新しいものに差し替えました」


「……閣下が」


「『執務机用にしては硬すぎる』と仰っておられました。でも、閣下の執務室の椅子は、ずっと同じものですよ?」


ミアはきょとんとした顔で盆を抱えたまま、そのまま通路を通り過ぎていった。盆の上には、湯気の立つカップが一つ。今日から、私の分は、ミアではなく誰かが先に運んでくれているらしかった。


硬すぎる、って、自分の椅子に言ってないの、この人。いや、これ、考えるのやめておこう。考えたら、顔が赤くなるやつだ、たぶん。



午前の執務室は、いつもどおり静かだった。


三本立ての帳簿を広げ、レオンハルト様が決裁印を押していく。私は横で、彼の指先が迷った欄を一つずつ拾って補足していく。ペンのインクが紙を擦る音と、暖炉の薪の小さな音だけがあった。


ふと、気が緩んだ拍子に、独り言が漏れた。


「……やっぱり、この時期の塩漬け肉の計上は、来月に繰り越しておきたいですね。推し活的に言えば、給料日までのアニメ円盤の積み立てと同じ発想で」


言った直後、口元を押さえた。


レオンハルト様が、決裁印を途中で止めて、こちらを見ていた。


「推し、活」


「あ、いえ、その、口癖のようなもので」


「何だ、それは」


普通、この手の雑談は「そうか」の一言で流される人のはずだった。なのに、今日は違った。彼は決裁印を机に置き、顎を少し引いて、続きを待っていた。


聞いちゃうんだ、あなた。聞かなくてよかったのに。いや、嬉しいけれど、どう説明すれば。


私は一度、深く息を吸った。


「人間には、心から敬い、密かに応援し、日々の糧にしている対象というものが、時折ございます。その対象を追いかけ、支える行いを、祖母の故郷の言い回しで、『推し活』と呼んでおりました」


祖母の故郷、が今日二度目の便利な嘘になった。ごめんなさい、祖母ちゃん。


レオンハルト様は、しばらく黙っていた。指先で机の縁を、一度、軽く叩いた。


「対象は、知っているのか、自分が推されていることを」


「多くの場合、ご存じありません」


「それで、成り立つのか」


「成り立ちます。推す側の、胸の内で」


また、短い沈黙。


それから、低い声で、ぽつりと。


「推し活、というのは、響きは軽いが、本質は信仰に近いのだな」


え。

なんで。

なんで、あなたがそれを、言うんですか。


舌の付け根が、ぴり、と痺れた。何か言いたくて、でも言葉が、組み立てる前にほどけていく。私は何も言えずに、ただうなずいた。首の角度が、自分で思ったよりも深くなっていた。



正午の少し前、ハロルドが執務室に来た。いつもと違って、扉を開ける前に二度、ノックが入った。彼がそうするときは、内容が重い。


「閣下。アデライン様。王都からの、急ぎの文書にございます」


封蝋は、王国財務庁のもの。


私が受け取る前に、レオンハルト様が先に手を伸ばした。一拍、彼の指先が私の指に触れた。触れたというより、ほんのわずかに、ぶつかった。革の手袋越しではなく、直接だった。


彼は気にした様子もなく封を切り、中身に目を走らせた。読み終えるまで、わずかの時間だった。それから、紙を私のほうに差し出した。


『王国財務庁、第二課マルセルより。

ヴェルナー伯爵領の本年度穀物税申告の齟齬に関し、第二回の合同査察会議を開催する。

前夫人アデライン殿の在任期間における帳簿記載につき、当人より直接の陳述を求む。

召喚の日時を別紙のとおり指定する。

貴辺境伯には、証人としての同席を要請する。』


王都。七年暮らした街。ユリウスが待っている街。私が、自分の足で離れた街。


戻らなきゃいけないのか。戻って、説明して、数字を見せる。それが、いちばん、早い。


「俺も行く」


ひとことだった。


「辺境伯閣下のご同席は、会議への正式要請にございますから」


「要請がなくても、行った」


彼は私の顔を見ずに、机の上の決裁印を置き直した。小さな音が、妙に乾いて響いた。



夕方、中庭に桃が届いていた。


小さな籠が、離れの扉の前に置かれている。辺境の桃は夏の終わりの短い時期にしか採れないと聞いていたが、この時期にどこから届いたものか、書き手の名前はなかった。


ハロルドが、籠を見て、一度だけ、ふっと笑った。


「アデライン様。お茶をお淹れしましょうか。ぬるめに」


「……ぬるめ?」


「いえ。独り言にございます」


暖炉の火が、ぱちりと一度、音を立てた。明日、王都への出立の準備にかかる。

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