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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 塩の在処を、もう誰も知らない


その夜、結局ほとんど眠れなかった。


寝台に入って目を閉じても、耳の奥で「ヴェルナー伯爵がこちらへ向かっている」というハロルドの声が、いくつかの角度で繰り返された。早馬の知らせがどこから来たのか、どの街道を通ってくるのか、同道は何人か。ハロルドも詳しくは聞けていなかった。


毛布を引き寄せて、天井の木目を数えた。一本、二本、三本。


前世なら、眠れないときは牛乳とハチミツだったな。ハチミツ、ここにもあるのかしら。あっても、今夜は起きて厨房まで行く気力がない。


天井を眺めているうちに、空の色だけが先に白くなった。



朝いちばんに、執務室へ呼ばれた。


扉を開けた瞬間、いつもと空気が違うのが分かった。机の上が、昨日の夕方よりも紙の山が高い。レオンハルト様は、昨晩この部屋で寝たのかもしれない。白シャツの袖口が、少しだけ乱れていた。


「昨夜の知らせは聞いたな」


「はい」


「もう一つある」


彼は机の端から一枚の書状を取って、こちらに差し出した。


紋章が、ヴェルナー家のものではなかった。王都財務庁の印。


私は一礼して受け取り、開いた。


『貴辺境伯領宛。

ヴェルナー伯爵領における本年度穀物税申告につき、別紙に記載のとおり重大な齟齬を確認せり。

当該伯爵家と直近まで取引のあった商人ギルドへの聞き取りにおいて、貴辺境伯領に在籍中の前夫人アデライン殿の関与を示唆する証言あり。

事実関係確認のため、王都への出頭を、近く正式に要請する可能性あり。

王国財務庁 第二課 マルセル』


数字というのは嘘をつかない、と前世の先輩がよく言っていた。七年分の帳簿をつけてきて、その言葉の重さを何度も確かめてきた。数字の並びは、人の噂より正確に人を映す。誰が何を盗ったか、誰が何をやらなかったか、全部、並びの癖に出る。


顔を上げると、レオンハルト様がこちらを見ていた。


「齟齬、とあるが」


「はい」


「君の、責任ではない」


断定の口調だった。


早い。確認もせずに、そう、言い切っていいんですか。いいんですね、この人は。


「私が七年間つけていた帳簿を、離縁の日にすべて持ち出しました。屋敷には写しも残しておりません。残してしまえば、改竄される可能性がありましたので」


「ならば、屋敷に残った数字は」


「現在の奥様が、一から書き直されたものかと存じます。あるいは、書き直しきれなかったものを、そのまま提出なさったのか」


どちらでも、結論は同じだった。



午後、ハロルドを介して、商人ギルド長カミル殿からまた便箋が届いた。今度は震えていない字だった。字が落ち着いているぶん、内容は重かった。


『アデライン様。

商人十三名、本日付で、ヴェルナー伯爵家との一切の取引を正式に解消いたしました。

理由は「帳簿の信頼が失われたため」、の一点にございます。

また、ヴェルナー家の使用人のうち、執事補佐のトマ、厩番のエリク、会計見習いのクラリスの三名が、相次いで辞職願を出したとの報がございます。

塩の置き場所を知る者が、もう、屋敷におりませぬ。

カミル』


塩の置き場所を、知る者が、いない。


ユリウスがあの手紙に書いた「塩の置き場所さえ誰も知らないありさまだ」の一行が、まっすぐ戻ってきた。あのときは困った顔で書いたのだろうに。いまは、屋敷全体が、その一行に追いつかれている。


追いつかれた、というより、追い越されたのだ。人も、数字も、一人ずつ、それぞれの速度で離れていく。引き止める手は、もう、あの家にはない。


私はカミル殿の便箋を折りたたみ、昨日の草稿の下に差し込んだ。



夕刻、執務室に戻ると、レオンハルト様が窓辺に立っていた。


めずらしく、机の前ではなかった。腕を組んで、北ではなく、南の方角を見ていた。ヴェルナー領の方向だった。


「アデライン」


「はい」


「あの伯爵が、この領に入ることを、俺は許していない」


短かった。けれど、輪郭がはっきりとしていた。


「入境の許可証を持たずに北街道を越えれば、辺境警備の兵が止める。書類の不備であれば、三日は足止めできる」


「……三日」


「時間を稼ぐ。君が王都に出頭を要請される前に、俺のほうで一度、王都へ書簡を送る。君の筆跡で残された三年分の帳簿の写しを、正式な証拠として提出する用意がある」


私は答えられなかった。お礼を言うべきところだったのに、口が動かなかった。


彼は窓辺から一歩、机のほうへ戻ろうとして、途中でふと立ち止まった。


「君の書いたあの交易路の草稿を、昨夜、もう一度読み直した」


「……ありがとうございます」


「良い仕事だ。手放すつもりはない」


その言い方は、交易路の話をしているのか、それとも別の何かの話をしているのか、私には分からなかった。


分からないまま、耳の裏のあたりが、じん、と一度、痺れた。たぶん、一瞬だけ血の巡りがおかしくなったのだと思う。手放す、って。仕事の話、だよね、うん、そう、仕事の話。決めつけておこう、今は。



離れへの帰り道、中庭で、若い兵士が二人、地図を広げて話しこんでいた。通り過ぎざま、片方の声が耳に入った。


「北街道の第三関門、許可証の様式をここ一月で新しいものに差し替えたんだったよな」


「ああ。古い様式じゃ、通せないってことになってる」


私は、歩みを少しだけ緩めた。


一月前。ちょうど、私が辺境に着いた頃。


偶然、かしら。偶然でも、いいかな。たぶん、違うけれど。


石畳の冷たさが、靴底からじんわり伝わってきた。


離れの扉を開けると、ハロルドが暖炉の前で薪をくべていた。火は、まだ小さかった。

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