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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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第5話 熱い茶を、苦い顔もせずに


辺境の地図を、机いっぱいに広げていた。


西の山あいから北の港までの交易路が、細い線で三本引いてある。どの線も、途中で太くなったり細くなったり、妙な迂回をしたりしている。何度見ても、この三本は「合理的に引いた」と言うより「昔からそうだったのでそのまま使っている」線だった。


前世でいえば、十年前のサプライチェーン図を現役で使ってる会社だ。倒産寸前じゃない、こういうところ。失礼、アイゼンベルク領は倒産しません。心の中で一人で謝ってから、私は赤い羽根ペンを持ち直した。ハロルドに頼んで使用人棚の奥から出してもらった、子供用の色ペン。正式な地図に赤を入れる度胸はまだないので、薄い写しの上に描いている。


二本目の線を、北寄りに十五里ほど動かす。途中の小さな街を経由させる。ここまでが書けたところで、扉が軽く叩かれた。


「失礼いたします、アデライン様。お茶をお持ちしました」


離れの世話係を兼ねている若い娘、ミアだった。盆の上には、湯気の立つカップが二つ。


「二つ?」


「閣下から、執務室へ届けよと。『あちらの部屋のほうにも』との仰せで」


あちらの部屋、とは、私のことだ。


ミアは器用に片方を私の机に置き、もう片方を盆に残したまま、「では、執務室へお持ちしますね」と微笑んで出ていきかけた。


「ミア」


「はい?」


「閣下って、お茶はどういう温度がお好き?」


何気なく聞いた。ただの雑談のつもりだった。


ミアは一瞬、きょとんとした。それからふっと笑って、声を落とした。


「前の厨房長が申しておりましたが、閣下は、本当は、熱いのは少し苦手のようで」


「……え」


「でも、ご自分では一度もそう仰ったことがございません。たぶん、お気づきでないのだと」


そう言い残して、ミアは執務室へ消えていった。


私は、差し出されたカップをじっと見た。


立ちのぼる湯気が、さっきより少しだけ、濃く見えた。



午後、改革案の草稿を持って執務室へ向かった。


レオンハルト様は、いつものとおり机に向かっていた。机の端には、ミアが置いていったはずのカップ。中身はほとんど減っていなかった。いや、半分ほど減っていた。前に差し入れられたときと、同じくらい。


飲んでる。ちゃんと、飲んでる。冷めるまで待って、なんてこともせず、普通の顔で。


私は何も言わずに草稿を机の上に広げた。


「辺境の交易路について、一案ございます」


「聞こう」


三本の線のうち真ん中の一本を指さす。


「西の小麦の集荷地と、北の港をつなぐ路線でございます。現状、途中で二度、大きく迂回されておりますが、これは三十年前に川の氾濫があった際の回避路、と記録にございました」


「ある」


「現在、その川は堰の工事で流路が変わっております。迂回の理由は、もう、ございません」


レオンハルト様の指が、地図の迂回部分を軽く撫でた。


「直線に戻せ、と」


「完全な直線には、まだいたしません。ここと、ここに、小さな集落がございます。いずれも穀物の集荷に協力してくださっている集落でございまして、経路から外しますと、彼らが困ります」


赤ペンで書き込んだ新しい線を、指で追う。


「ですので、一本を二本に分け、十五里ほど北寄りに寄せます。集落を経由させつつ、従来より三日、港までの日数を短縮できる計算にございます」


「三日」


低い声に、初めて、はっきりとした温度があった。


「採算の試算は」


「こちらに」


差し出した紙面に、彼の視線が落ちる。指先で左から右へ、数字を辿っていく。途中、一度だけ止まった。


「この、維持費の項」


「集落の道普請の労役を年二回、アイゼンベルク家から職人を派遣する前提で、通常の半分に抑えております。職人の給金は、討伐報奨金の余剰から振り替えが可能かと、三年分の帳簿から試算いたしました」


「三年分の帳簿」


「はい」


「なるほど」


彼は草稿から顔を上げて、私を見た。表情は、ほとんど変わらない。変わらないのに、目の奥の光だけが、微妙に違って見えた。


「これは、俺一人では、思いつかなかった」


「恐れ入ります」


「採用する。本決裁は、明日に」


私は一礼した。たぶん、少しだけ頭を下げるのが遅れた。口の中が乾いていた。


そのとき、彼がカップに口をつけた。


ごく自然に。なんでもない顔で。熱そうな湯気が立っているのに、顔色ひとつ変えずに、一口。


私は、息を止めた。


熱いはずなのに。ミアが言ってた。本当は、熱いの、苦手だって。じゃあ、なぜ。


続きを自分で考えるのが、少しだけ怖かった。考えたら、いまここで言葉にしたくなる。言葉にしたら、きっと、戻れなくなる。



夕方、草稿は正式な採用書類として書き直され、執務室の決裁箱に入った。ハロルドが「よくぞ」と短く言っただけだったが、長卓での夕食のとき、いつもより黒パンを一切れ多く私の皿に載せてきた。


離れに戻る廊下で、窓の外の北の空を見上げた。雲が、少しだけ薄くなっていた。


熱い茶を、苦い顔もせずに飲む人を、なんと呼べばいいんだろう。


言葉に、したくないな、まだ。したら、きっと、戻れなくなる。


部屋の扉を閉めた瞬間、廊下の遠くで、急ぎ足の靴音が聞こえた。一度、二度。それから、ハロルドの声が、いつもより硬く響いた。


「アデライン様。王都からの早馬にございます。ヴェルナー伯爵が、こちらへ向かっておられる、と」

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