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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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4/10

第4話 戻ってこいとだけ書かれた便箋


辺境の朝は、王都よりも二時間くらい遅れて始まる。


空が白くなってから、実際に人が動き出すまでに、妙な間がある。針葉樹の森が夜の残りを抱え込んでいて、城の中庭にも冷たい青さがしばらく居座る。最初の一週間は寝坊するかと思ったけれど、人間というのは不思議なもので、二週目に入るころには体のほうが勝手にこの時間に慣れてくれた。


朝食は、使用人たちと同じ長卓で取る。


黒パンに、塩気の強いバター。乾いたソーセージ。根菜のスープ。貴族夫人時代の「白パン二切れと薄いお茶」の朝食とはまるで違う。隣の若い厨房係が「奥様、食べるの早くなりましたね」と小声で笑ったので、私は口を拭きながら「お仕事の前ですから」と返した。


「奥様」、そろそろやめてほしいな。いえ、直さなくていいです、の雰囲気でもないし、まあ、呼ばせておこう。



手紙は、昼前に届いた。


執務室の隣に与えられた小さな作業部屋で、三年分の推移表の二稿目を清書していたときだった。ハロルドが扉の外で一度だけ咳払いをして、それから入ってきた。


「アデライン様。王都より」


差し出された封蝋に、見慣れた紋章が押されていた。橅ではなく、剣と薔薇。ヴェルナー伯爵家の印だ。


私は万年筆を置いた。羽根ペンではない、ヴェルナー家から持ち出した私物の万年筆。インクがわずかに指に滲んでいた。


封を切る前に、一度だけ深く呼吸をした。心の中でではなく、本当に、息を吸って吐いた。ハロルドがそれを見て、何も言わずに壁際に下がった。


便箋は一枚だけ。ユリウスの字は、相変わらず気取っていて、縦の線が長い。


『アデライン。

君の気まぐれにも困ったものだ。

リゼットが屋敷の差配に戸惑っている。使用人たちも動揺している。

君がいなくなってから、台所の塩の置き場所さえ誰も知らないありさまだ。

悪いが、一度戻ってきてくれ。

話し合いはそれからだ。正妻の座を取り上げるつもりはない。

もともと、君には君の役割が』


そこまで読んで、私は便箋を裏返した。


裏は白紙だった。


「悪いが」で始まる手紙、八割は悪くないと思ってる人が書くんだよね。前世で上司にさんざん言われた。



返事は、書かなかった。


代わりに、私は便箋を折り直して、机の引き出しに一緒に入っていた古い帳簿の表紙の間に挟んだ。七年分の帳簿の、いちばん新しい一冊の、いちばん後ろのページ。そこに。


「ハロルド。お返事の代筆、頼めるかしら」


「仰せのままに」


「一行でいいの。『お手紙、拝受いたしました。アデライン』。それだけ」


ハロルドは、しばらくこちらを見ていた。それから、深く、ゆっくりと頷いた。


「仰せのままに」


二回目の「仰せのままに」は、一回目より少しだけ重かった気がする。気のせいかもしれない。



午後、推移表の二稿目を執務室に持っていった。


レオンハルト様は机に向かっていた。窓を背にしているせいで、銀灰色の髪の輪郭が光に溶けて、細い筋だけが残って見える。近づく足音で顔を上げた彼は、私の手元の紙束に目を落とし、それからなぜか、一度だけ、私の顔を見た。


「顔色が」


ひとことだけだった。


「えっ」


「いや」


彼は言い直さなかった。ただ、机の上の書類を脇にどけて、場所を空けた。無造作だった。無造作すぎて、逆に、律儀な感じがした。


私は推移表を広げた。昨日よりも項目を細かく分けてある。穀物の内訳を、小麦、ライ麦、えん麦、の三系統に分離。討伐報奨金を出現種別でさらに二列に分けた。説明しながら、自分の声が昨日よりも落ち着いているのに気づいた。


仕事してると、静かになる。前世からそうだった。忙しさが、いちばん効く薬だった。


レオンハルト様は、指先で表の右端を辿っていった。ふと、手が止まった。


「机の端の、あれは何だ」


視線の先。私は反射的に振り返る。


やってしまった。清書の際に、昨日の手紙を一緒に持ってきてしまっていた。封筒の端だけが紙束の下から覗いている。ヴェルナー家の封蝋の赤が、悪目立ちしていた。


「失礼いたしました。私信でございます」


「そうか」


彼はそれ以上は何も言わなかった。ただ、推移表に戻った視線が、ほんの一瞬だけ遅れた。指先が、推移表の縁を軽く叩いた。トン、と一度だけ。


「アデライン」


初めて、名前で呼ばれた。


「君の仕事は、俺が買った。もしあの封筒に書かれていることで、君が俺のところを離れねばならん理由ができたなら、言え」


え。今の、なに。なに、その、聞き方。こめかみの脇の血管が、どく、と一度だけ強く鳴った。前世で、上司が部下の家庭の事情を聞くときの、あの雑な「大丈夫?」とは違う。もっと不器用で、もっと一方的で、なのに、なぜか耳に残る言い方。


「ございません」


私は、たぶん、少しだけ早口で答えた。


「私がこちらを離れる理由は、こちらで作りたく存じます」


レオンハルト様は、またうなずいた。軽く。本当に、軽く。それから、もう一度、推移表に視線を戻した。



その夜、ハロルドがまた便箋を持ってきた。


今度は商人ギルド長カミル殿からだった。開くと、相変わらず字が震えていた。


『拝啓。

王都に、気になる噂が立っておりますゆえ、お耳に入れまする。

ヴェルナー伯爵領の今年の穀物税の申告、数字が合わぬ由。

財務庁の若い役人が、すでに書類の綴じ直しを始めたとのこと。

査察の動き、近いかもしれませぬ。お気をつけくださいませ。

カミル』


私は便箋を折りたたみ、膝の上で二度、指先で平らに撫でた。


査察。


前世の私なら、その単語を聞いて胃が痛くなった。決算期の悪夢だった。でも今夜は、不思議と痛まなかった。


窓の外では、北の風がいつもの音で鳴っていた。


ユリウスの「戻ってきてくれ」の一枚と、カミル殿の「査察の動き」の一枚が、机の上で、少しだけ離れて並んでいた。


二枚の紙の間の、その空白を、私はしばらく見つめていた。

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