第4話 戻ってこいとだけ書かれた便箋
辺境の朝は、王都よりも二時間くらい遅れて始まる。
空が白くなってから、実際に人が動き出すまでに、妙な間がある。針葉樹の森が夜の残りを抱え込んでいて、城の中庭にも冷たい青さがしばらく居座る。最初の一週間は寝坊するかと思ったけれど、人間というのは不思議なもので、二週目に入るころには体のほうが勝手にこの時間に慣れてくれた。
朝食は、使用人たちと同じ長卓で取る。
黒パンに、塩気の強いバター。乾いたソーセージ。根菜のスープ。貴族夫人時代の「白パン二切れと薄いお茶」の朝食とはまるで違う。隣の若い厨房係が「奥様、食べるの早くなりましたね」と小声で笑ったので、私は口を拭きながら「お仕事の前ですから」と返した。
「奥様」、そろそろやめてほしいな。いえ、直さなくていいです、の雰囲気でもないし、まあ、呼ばせておこう。
◇
手紙は、昼前に届いた。
執務室の隣に与えられた小さな作業部屋で、三年分の推移表の二稿目を清書していたときだった。ハロルドが扉の外で一度だけ咳払いをして、それから入ってきた。
「アデライン様。王都より」
差し出された封蝋に、見慣れた紋章が押されていた。橅ではなく、剣と薔薇。ヴェルナー伯爵家の印だ。
私は万年筆を置いた。羽根ペンではない、ヴェルナー家から持ち出した私物の万年筆。インクがわずかに指に滲んでいた。
封を切る前に、一度だけ深く呼吸をした。心の中でではなく、本当に、息を吸って吐いた。ハロルドがそれを見て、何も言わずに壁際に下がった。
便箋は一枚だけ。ユリウスの字は、相変わらず気取っていて、縦の線が長い。
『アデライン。
君の気まぐれにも困ったものだ。
リゼットが屋敷の差配に戸惑っている。使用人たちも動揺している。
君がいなくなってから、台所の塩の置き場所さえ誰も知らないありさまだ。
悪いが、一度戻ってきてくれ。
話し合いはそれからだ。正妻の座を取り上げるつもりはない。
もともと、君には君の役割が』
そこまで読んで、私は便箋を裏返した。
裏は白紙だった。
「悪いが」で始まる手紙、八割は悪くないと思ってる人が書くんだよね。前世で上司にさんざん言われた。
◇
返事は、書かなかった。
代わりに、私は便箋を折り直して、机の引き出しに一緒に入っていた古い帳簿の表紙の間に挟んだ。七年分の帳簿の、いちばん新しい一冊の、いちばん後ろのページ。そこに。
「ハロルド。お返事の代筆、頼めるかしら」
「仰せのままに」
「一行でいいの。『お手紙、拝受いたしました。アデライン』。それだけ」
ハロルドは、しばらくこちらを見ていた。それから、深く、ゆっくりと頷いた。
「仰せのままに」
二回目の「仰せのままに」は、一回目より少しだけ重かった気がする。気のせいかもしれない。
◇
午後、推移表の二稿目を執務室に持っていった。
レオンハルト様は机に向かっていた。窓を背にしているせいで、銀灰色の髪の輪郭が光に溶けて、細い筋だけが残って見える。近づく足音で顔を上げた彼は、私の手元の紙束に目を落とし、それからなぜか、一度だけ、私の顔を見た。
「顔色が」
ひとことだけだった。
「えっ」
「いや」
彼は言い直さなかった。ただ、机の上の書類を脇にどけて、場所を空けた。無造作だった。無造作すぎて、逆に、律儀な感じがした。
私は推移表を広げた。昨日よりも項目を細かく分けてある。穀物の内訳を、小麦、ライ麦、えん麦、の三系統に分離。討伐報奨金を出現種別でさらに二列に分けた。説明しながら、自分の声が昨日よりも落ち着いているのに気づいた。
仕事してると、静かになる。前世からそうだった。忙しさが、いちばん効く薬だった。
レオンハルト様は、指先で表の右端を辿っていった。ふと、手が止まった。
「机の端の、あれは何だ」
視線の先。私は反射的に振り返る。
やってしまった。清書の際に、昨日の手紙を一緒に持ってきてしまっていた。封筒の端だけが紙束の下から覗いている。ヴェルナー家の封蝋の赤が、悪目立ちしていた。
「失礼いたしました。私信でございます」
「そうか」
彼はそれ以上は何も言わなかった。ただ、推移表に戻った視線が、ほんの一瞬だけ遅れた。指先が、推移表の縁を軽く叩いた。トン、と一度だけ。
「アデライン」
初めて、名前で呼ばれた。
「君の仕事は、俺が買った。もしあの封筒に書かれていることで、君が俺のところを離れねばならん理由ができたなら、言え」
え。今の、なに。なに、その、聞き方。こめかみの脇の血管が、どく、と一度だけ強く鳴った。前世で、上司が部下の家庭の事情を聞くときの、あの雑な「大丈夫?」とは違う。もっと不器用で、もっと一方的で、なのに、なぜか耳に残る言い方。
「ございません」
私は、たぶん、少しだけ早口で答えた。
「私がこちらを離れる理由は、こちらで作りたく存じます」
レオンハルト様は、またうなずいた。軽く。本当に、軽く。それから、もう一度、推移表に視線を戻した。
◇
その夜、ハロルドがまた便箋を持ってきた。
今度は商人ギルド長カミル殿からだった。開くと、相変わらず字が震えていた。
『拝啓。
王都に、気になる噂が立っておりますゆえ、お耳に入れまする。
ヴェルナー伯爵領の今年の穀物税の申告、数字が合わぬ由。
財務庁の若い役人が、すでに書類の綴じ直しを始めたとのこと。
査察の動き、近いかもしれませぬ。お気をつけくださいませ。
カミル』
私は便箋を折りたたみ、膝の上で二度、指先で平らに撫でた。
査察。
前世の私なら、その単語を聞いて胃が痛くなった。決算期の悪夢だった。でも今夜は、不思議と痛まなかった。
窓の外では、北の風がいつもの音で鳴っていた。
ユリウスの「戻ってきてくれ」の一枚と、カミル殿の「査察の動き」の一枚が、机の上で、少しだけ離れて並んでいた。
二枚の紙の間の、その空白を、私はしばらく見つめていた。




