第3話 冷徹な辺境伯が、帳簿を読める
「その紋様、どこで見た」
問いの温度が、妙に近かった。
答えられるわけがない。前世の記憶です、画面の向こうで拝見しました、なんて。私は握りしめていたハンカチを、できるだけ自然に膝の下へ滑らせた。
「昔、祖母の形見にございました。古い図案集から写したもの、とだけ聞いております」
半分は、嘘ではない。母方の祖母は刺繍好きで、私が幼いころ、手本の糸くずを分けてくれた。あとの半分は、まあ、許してほしい。
辺境伯レオンハルト様は、それ以上は尋ねてこなかった。手袋を置いた指先で帳簿の表紙を軽く叩き、短くうなずいた。
「そうか」
そうか、の一語で終わる会話は、前世の社内会議ではまずなかった。会議はいつも「そうか」の三十倍くらいの言葉を使って同じことを言っていた。この人、本当に言葉数が少ない。省エネ契約でも結んでるのかしら。
心の中だけで軽口を叩きながら、私は差し出された一冊目の帳簿に目を落とした。
◇
雇用の話は、思ったよりも呆気なくまとまった。
「帳簿が読めるのなら、人手は要る。試用で三月。住まいは城の離れ。食事は使用人と同じ卓でよければ提供する。給金はこの額だ」
紙片を一枚、机の上に滑らせて寄越される。金額は、ヴェルナー伯爵家時代の私の「個人手当」の倍近かった。
「……よろしいのですか」
「見合う仕事をしてもらう前提だ」
「承知いたしました」
返事を終えた瞬間、ハロルドが扉の外で「ほう」と小さく息を吐いたのが、気配で分かった。この七年、書斎で私がどれほど値切られる側に回ってきたか、彼だけは知っている。
レオンハルト様は、席を立った。
「執務は明日からでいい。今日は旅の疲れを落とせ」
「いえ、可能でしたら、今日のうちに帳簿を拝見させていただけませんか」
自分でも驚くくらい、即答していた。理由はひとつじゃない。仕事で頭を占めておかないと、さっきの「その紋様」の声が耳の奥で反芻されそうだった。それも、ある。
レオンハルト様は、軽く眉を上げた。本当に軽く。普通の人なら「無表情」と呼ぶ範囲の動きだった。
「……好きにしろ」
許可だった。
◇
辺境伯領の帳簿は、悲しくなるほど几帳面で、悲しくなるほど古い。
几帳面なのは、書き手が誠実だからだ。古いのは、帳簿の書き方そのものが、三十年前の雛形のままだからだ。収支が月末にまとめて集計されるだけで、項目ごとの推移が追えない。穀物と毛織物と魔獣討伐の報奨金が、同じ欄に混ざって並んでいる。
うっ。これ、新人の決算前徹夜案件だ。いや、違う。もう新人じゃない。私は経理部七年選手だ。
窓際の作業机に向かって、私は袖をまくった。ハロルドが淹れてくれたぬるい茶を一口。それから、真新しい紙束に、罫線を手書きで引き始める。
科目を三本立てに分ける。穀物。物資。討伐関連。月ごとに縦に積む。横に三年分の推移を並べる。前世の会計ソフトの画面が目の裏にちらつくのを、定規の角でゆっくり追い出していった。
気づけば、陽が傾いていた。
「まだ、やっているのか」
入り口からの声に、顔を上げる。レオンハルト様が、扉の枠に肩を預けるようにして立っていた。マントは脱いだらしく、黒の上着だけになっている。手には、なぜか、リンゴが二つ。
「あ、申し訳ございません、つい」
「詫びる話じゃない」
つかつかと近づいてきた彼は、リンゴの片方を机の端に置いた。無造作な置き方だった。言葉より先に、手が動く人なのだ、この人は。
リンゴ。この北の辺境で、この時期に。高いやつだ、これ。
「食え」
「はい。頂戴いたします」
彼は私の書きかけの表を覗き込んだ。一枚、二枚、三枚。目の動きに迷いがなかった。
「これは、三年前から、討伐報奨金の支出が二倍になっている」
「はい」
「理由は」
「魔獣の種類が変わっております。ただ、それ以上に、報奨金の計算式が旧いままのように見受けられます。単価だけ引き上げて、出現数の変動を織り込んでおられない、かと」
短い沈黙。
それから、低い声で、一言。
「助かる」
助かる、と言われて、私の手が止まった。
前世の会社で、上司にそんな言葉をかけられた記憶は、正直、ない。あったかもしれないけれど、覚えていない。覚えていないということは、なかったのと同じだ。
え。いま、なんて。いや、聞こえてた。聞こえてたけれど。鎖骨のすぐ下のあたりが、ふわり、と熱を持った。誤魔化すためにリンゴを手に取ると、ずしりと重かった。皮がつるりとして、陽の色をそのまま閉じ込めたような赤だった。
◇
夜、離れの寝室にハロルドが入ってきた。いつもの抑えた声で、けれど少しだけ早口だった。
「アデライン様。王都からの急ぎの便がございます」
差し出された封蝋は、商人ギルド長カミル殿のもの。開くと、短い一文が真ん中に座っていた。
『ヴェルナー伯爵領の商人、本日をもちまして、穀物および毛織物取引の契約更新を、一斉に見合わせることと相成りました。元奥様のご差配あってこその取引でございました。どうかご無事で』
カミル殿。字、震えてる。怒ってる、この人。
便箋の端に、追伸のような一行があった。
『新しい奥様とやらが、帳簿の桁を三つ読み違えたそうにございます』
私は便箋をきちんと折りたたみ、膝の上に置いた。
窓の外では、北の風が、低く一定に鳴っていた。
ヴェルナー家の朝食室の、リゼットの膝を折る角度を思い出した。美しい所作だった。本当に、美しい所作だった。ただ、帳簿の桁は、所作では読めないのだ。
膝の下のハンカチを、指先で軽く撫でた。
昼間のレオンハルト様の「その紋様、どこで見た」が、まだ耳の奥に残っている。
明日、もう一度、あの執務室の扉を叩く。今度は、手ぶらではなく。三年分の推移表を、抱えて。




