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推しのために離縁しました  作者: 秋月 もみじ


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2/10

第2話 推しは画面の向こうにいるはずでした


馬車の揺れというのは、思っていたよりずっと、腰にくる。


王都を出て三日目。舗装された街道はとうに尽きて、車輪はひたすら石と土の上を跳ねている。膝の上の旅行鞄が、段差のたびに小さく飛び上がる。中に詰めた七年分の帳簿が、体重を持った生き物みたいに「どすん」と落ちてくる。


「……ハロルド。貴族のご令嬢って、普段こんな距離を移動するものかしら」


御者台のハロルドが、振り返らずに低く笑った。


「普段は、なさいません」


「ですよね」


膝の鞄を抱え直す。窓の外を、背の低い針葉樹の森がずっと流れていく。王都の庭園で見慣れた薔薇や噴水は、影も形もない。代わりにあるのは、低くたれこめた雲と、湿った土の匂いと、遠くで水が跳ねる音だけ。


北だ。本当に、北に来てしまった。


前世で有給は二日しか取れなかった私が、どうしてこうして馬車で三日も旅ができているんだろう。自由、というのは、こういう匂いがするものだったっけ。思い出そうとすると、前世の記憶は妙に断片的になる。蛍光灯。通勤電車。ライブ会場の熱気。剣を構える銀髪の横顔。それらが同じ箱の中でカチャカチャ鳴っている感じがする。


整理がつかないまま、でも一つだけ、やけに鮮明に残っているものがあった。


膝の鞄から、折りたたんだハンカチを一枚、取り出す。


白い麻布に、深い藍の糸で刺した紋様。橅の葉を三枚、円の中に組み合わせて、縁取りに細い縄目。前世で十年、推しの設定資料を見ながら、暇さえあれば針を動かしていた。この刺繍だけは、手が勝手に覚えていた。目が覚めた朝、引き出しの奥で、七年前に刺したまま忘れていたこれを見つけた。


いま思えば、あれはあのときからの予告編だった気がする。



馬車がゆっくりと止まった。


「アデライン様。城が見えました」


ハロルドの声にうながされて、窓から身を乗り出す。


灰色の石。ただし、磨かれた石ではない。雪と風に削られて角が丸くなった、古い岩のような石。それを積み上げて、北の空を背に、ひとつの城が立っていた。装飾はほとんどない。旗が一本、ぴんと伸びて風に鳴っている。


知っている。


知っている、この城。


設定資料集の第三巻、見開きのあのページ。一言一句じゃないけれど、輪郭は同じ。耳の後ろが、ふっと冷たくなった。風のせいかもしれない。たぶん、違う。



門の前で、案の定、呼び止められた。


「伯爵夫人? アポイントは」


「ございません」


当たり前だった。この国の貴族女性が、単身で辺境の城に「ちょっとお会いしたくて」と現れる例は、たぶん、ない。門衛の若い兵士は、眉を寄せて、次に困った顔をして、最後に上官らしき中年の男を呼びに走った。


ハロルドが、私の前に一歩出た。


「ヴェルナー伯爵家前夫人、アデライン様の紹介状をお預かりしております。王都の商人ギルド長カミル殿よりの、辺境伯閣下宛ての書状でございます」


出発前日、ハロルドが「念のため」と書かせてくれた、あの一枚。もともと商人ギルドは、私と領地の穀物取引を通じて顔見知りだった。カミル殿は話を聞いて一晩で紹介状を認めてくれた。字が汚いのを詫びながら。


ハロルド、あなた、用意周到すぎない? まさか、前から準備してた? してた気がする。


門衛が書状を持って奥へ消える。戻ってくるまでの時間、私は立ったまま、自分の靴の爪先を見ていた。革の表面に、細かい泥の粒が跳ねていた。ここに来るまでの三日分の、旅の粒だった。


「お通しせよ、とのことです」


門が、思ったより静かに開いた。



執務室だった。


広い部屋ではなかった。書類棚と、大きな机と、壁にかかった辺境の地図。それだけ。暖炉はあったが、火は入っていない。窓から差しこむ午後の光が、机の端を白く切っていた。


机の向こうに、人が立っていた。


背が高い。肩幅が広い。黒い軍服のような上着に、裾の長いマント。黒革の手袋を片方だけ外したところだった。髪は銀灰色で、陽の加減で青みがかって見える。切れ長の目は、こちらを見ているのに、こちらを見ていない感じがする。表情らしい表情が、ない。


知っている。


本当に、知っている。


前世の私が、十年かけて眺め続けた輪郭が、そこに立っていた。


息の仕方が、一瞬、分からなくなった。吸うのが先か、吐くのが先か。舌の付け根が、ざらり、と乾いた。


「ヴェルナー伯爵家前夫人。よく来た」


声は、思ったより低くて、思ったより短かった。余計な音を徹底的に削ぎ落とした声。


「辺境伯、レオンハルト・フォン・アイゼンベルクだ。用件を聞こう」


用件。


そう、用件があって来た。七年分の帳簿と、領地経営の知識と、それを買ってくれる雇い主が必要だった。ここへ来たのはそのためだ。推しに会うためじゃない。推しに会うためでは、断じて、ない。断じて、ない、ってば。


膝の上で、勝手に手がハンカチを握りしめた。


私は口を開きかけ、閉じ、もう一度開いて、そして自分の敬語が少し早口になるのを止められなかった。


「初めて、お目にかかります。アデライン、と申します。商人ギルドからの紹介状にございますとおり、領地経営と帳簿の実務にて、七年ほどの経験がございまして、もしお役に立てる場面がございましたら、その、お雇いいただけないかと」


言い終わって、自分でも「早口だったな」と思った。


辺境伯は、わずかに顎を引いた。うなずき、だと思う。たぶん。


「帳簿、か」


「はい」


「見せてもらっても」


「どうぞ」


旅行鞄から、一冊、取り出して机に置く。手が震えないように気をつけた。辺境伯は手袋を完全に外し、革の表紙に指先を置いた。


そのとき、目線が、私の手元に落ちた。


正確には、私が鞄を抱えたときに膝にこぼれ落ちた、あの白いハンカチに。


「……」


辺境伯の手が、ぴたりと止まった。


それまで一度も動かなかった表情筋の、どこか一本が、確かに動いた気がした。


「その紋様」


低い声だった。さっきより、ほんの少しだけ温度が違う。


「どこで、見た」


私は答えられなかった。口の中が、からからに乾いていた。答えられるはずがない。前世の設定資料集の第三巻で見ました、なんて。


窓の外で、旗が風に鳴った。


推しは、画面の向こうにいるはずだった。


それが今、机越しに、私の古い刺繍を見つめていた。

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