第七章 忘れた世界
白い天井を見上げた瞬間、ワッパの胸の奥へ強い違和感が広がった。
ここが森ではないことは、考えるまでもなくわかっていた。
木々のざわめきもなければ、白い霧が地面を這う音も聞こえず、エルナの手を握っていた感覚さえ消えている。
代わりに目の前へ広がっているのは、以前にも何度も見たことがあるような白い壁と、光を反射する細い机と、窓から差し込む冷たい光だった。
記憶が戻ったというより、ずっと閉ざされていた部屋の扉だけが突然開き、その中へ無理やり押し込まれたような感覚に近かった。
「ここを俺は知ってるはずなんだ……」
声に出した瞬間、向かい側へ座っていた白衣の男がゆっくり顔を上げた。
年齢は四十代くらいに見え、細い眼鏡の奥にある目は穏やかだったが、どこか慎重に言葉を選んでいるようにも見えた。
『今日は、聞こえている声について少し話しましょう』
その言葉を聞いた途端、ワッパの頭の奥で何かが弾けた。
同じ言葉を以前にも聞いたことがある。
一度ではない。
何度も、この場所で。
ワッパは椅子へ座っていた。
机を挟んだ向こうには同じ男がいた。
そして、自分は声について話していた。
頭の中で誰かが悪口を言っていること。
外へ出ると通行人が自分を見ているように感じること。
誰もいない部屋で、名前を呼ばれた気がすること。
テレビから自分への合図が送られているように感じること。
それらを一つずつ医者へ話していた記憶が、断片的に戻ってきた。
しかし、それと同時に、別の声も蘇った。
『あの医者はお前を騙そうとしているんだ』
『薬を飲ませて考えられなくするつもりなんだ』
『誰にも話すな、お前のことを理解できる人間なんていないからな』
長く、まとわりつくような言葉だった。
一度始まるとなかなか止まらず、不安を煽り、周囲の人間を疑わせ、自分だけが何か特別な真実へ気づいているように思わせる声だった。
ワッパは両手で頭を押さえた。
「これが前の世界で聞いてた声なのか……?」
目の前の白衣の男は答えなかった。
この場所そのものが記憶なのだとすれば、会話は過去に起きた通りにしか進まないのかもしれない。
『聞こえてくる声を、すべて事実だと思わないでください』
医者は机の上へ紙を一枚置いた。
『声が聞こえたときは、その内容だけで判断せず、実際に何が起きているのかを確認してください』
その言葉には覚えがあった。
第3章で断片的に思い出したものと同じだった。
『たとえば誰かに監視されていると感じたときは、本当にその人があなたを見ているのか、それともたまたま視線が重なっただけなのかを確認してみてください』
記憶の中の自分は、うつむいたまま黙っていた。
『すぐに答えを決めなくても大丈夫です』
医者は続けた。
『今感じていることと、実際に確認できることを分けるだけでも、少し楽になる場合があります』
ワッパはその言葉を聞きながら、異世界へ来てから自分が無意識に同じことをしていた理由をようやく理解した。
村人に見られていると感じたとき、実際に周囲を確認した。
森の中に白い人影を見たときも、人間だとすぐ決めなかった。
声が危険を告げたときも、できる限り現実を確認しようとした。
忘れていたとしても、以前の世界で身につけた考え方だけは身体のどこかに残っていたのだろう。
『先生、それでも声が本当だったらどうすればいいんですか?』
過去の自分が尋ねた。
その質問も覚えていた。
医者は少し考えたあと、静かに答えた。
『本当かどうかを一度で決める必要はありません』
『確認できることを増やしながら、その都度判断していけばいいんです』
『たとえ一度当たったとしても、次も必ず正しいとは限りませんし、反対に一度間違ったからといって全部を無視する必要もありません』
ワッパはその言葉を聞きながら、森でエルナと話した内容を思い出した。
声が正しいかもしれないことと、声へ従わなければならないことは別だと、エルナも同じようなことを言っていた。
前の世界でも、自分は似た考え方を教えられていた。
それなのに、なぜ自分はすべてを忘れていたのか。
その疑問を考えた瞬間、白い診察室の風景が揺れた。
壁が滲んだ。
窓の外の景色が変わった。
白い部屋は消え、代わりに夜の街が現れた。
高い建物の窓には無数の明かりが灯り、道路を何台もの車が走り、信号機が赤と青を繰り返している。
ワッパは歩道の上に立っていた。
周囲には大勢の人間がいる。
誰も自分を見ていない。
それでも過去のワッパは、誰もが自分を見ているように感じていた。
『あいつらはお前のことを知ってるぞ』
長い声が頭の中へ響く。
『さっきの男もお前を見ていたし、後ろの女もずっと笑っていたから、みんな何か知っているんだ』
過去のワッパは振り返った。
スーツを着た男はスマートフォンを見ながら歩いている。
後ろの女性は隣の友人と話しているだけだった。
それでも声は止まらない。
『騙されるな、見ていないふりをしているだけだ』
『家に帰っても安全じゃないぞ』
『誰にも相談するな、話したら全部筒抜けになるからな』
言葉が長い。
感情がある。
不安を煽る。
こちらの恐怖へ食い込んでくる。
異世界で聞いている短い声とは、明らかに違った。
ワッパは街の記憶の中で立ち尽くした。
「今聞こえてる声とは全然違う……」
この世界で響く声は短い。
伏せろ。
左。
戻れ。
止まれ。
右。
そして時には、エルナは死ぬという残酷なことまで言う。
しかし感情を煽るような言い回しはほとんどない。
誰かを疑えとも言わない。
自分だけが特別だと持ち上げることもない。
ただ短い情報だけを置いて消える。
それでも、声であることに変わりはない。
だからワッパは怖かったのだ。
以前の世界で声に苦しんだ経験が、記憶を失ったあとも身体の中に残っていた。
「俺は前の世界で、本当に統合失調症だったんだな……」
言葉にした瞬間、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった。
病名を思い出したからといって、すべてが解決したわけではない。
むしろわからないことは増えた。
それでも、自分が何を恐れていたのかだけは少し理解できた。
街の景色が再び崩れた。
次に見えたのは、小さな部屋だった。
机の上には薬の袋と水の入ったコップが置かれている。
窓の外は夜だった。
過去のワッパは椅子へ座り、薬を手に持ったまま動いていない。
『それを飲んだら終わりだぞ』
声が響く。
『薬を飲ませて、お前が気づいたことを全部忘れさせるつもりなんだ』
過去のワッパは薬を見つめていた。
手が震えている。
そのとき、別の記憶が重なった。
診察室で医者が説明していた。
『薬をどうするか不安があるなら、自己判断でやめる前に相談してください』
『不安そのものについて話しても構いません』
過去のワッパは長い時間迷ったあと、水と一緒に薬を飲んだ。
声は怒った。
『馬鹿だな、お前は完全に騙されたぞ』
それでも過去のワッパは薬を飲み続けたらしい。
その先の記憶はまだ見えなかった。
――まだ早い。
異世界で聞いていた短い声が、突然記憶の中へ響いた。
ワッパは顔を上げた。
長い声とは違う。
今まで何度も自分へ危険を知らせた声だった。
「何がまだ早いんだ?」
返事はなかった。
「思い出せって言ったのはお前だろ」
声は沈黙したままだった。
「それなら最後まで見せてくれよ」
返事はない。
代わりに部屋の景色が白い霧へ飲み込まれ始めた。
「まだ聞きたいことがあるんだ!」
ワッパは周囲へ叫んだ。
「俺はどうして死んだんだ?」
その言葉が自然に口から出た瞬間、自分自身が最も驚いた。
死んだ。
自分は以前の世界で死んだ。
だから今、この世界へいる。
そこまで記憶が戻ったわけではない。
それでも、なぜかその事実だけは確信に近い形で浮かんでいた。
――まだ早い。
声は同じ言葉を繰り返した。
白い霧が視界を完全に覆った。
次の瞬間、ワッパは地面へ倒れていた。
鼻の奥へ湿った土の匂いが入り、頬には冷たい霧が触れている。
身体を起こそうとした瞬間、誰かが腕を掴んだ。
「ワッパ、聞こえてるなら返事をして!」
エルナの声だった。
ワッパは目を開けた。
白い霧の中で、エルナがすぐ隣へ膝をついている。
「エルナは無事だったのか?」
「私は大丈夫だけど、ワッパが急に倒れたから心配したんだよ!」
ワッパはゆっくり身体を起こした。
先ほどの黒い構造物はまだ目の前にある。
表面を走っていた白い光は弱くなっていた。
地面の振動も止まっている。
「どれくらい倒れてたんだ?」
「ほんの少しだけだと思うけど、急に目を閉じて動かなくなったの」
「俺にはもっと長く感じたよ」
ワッパは額へ手を当てた。
白い診察室。
医者。
夜の街。
薬。
以前聞いていた長い声。
すべてが現実に起きた記憶だったのか、それとも黒い構造物に見せられた幻だったのかはまだ判断できない。
しかし、内容の一部は以前から断片的に思い出していた記憶と一致している。
「何か思い出したの?」
エルナが尋ねた。
ワッパは少し迷った。
それでも隠す必要はないと思った。
「俺がいた場所は、この世界じゃなかったみたいだ」
エルナは意味がわからないという顔をした。
「遠い国にいたってこと?」
「たぶん国が違うとか、それくらいの話じゃない」
ワッパは自分でもどう説明すればいいのかわからなかった。
「俺がいた場所には、さっきの森みたいなところじゃなくて、ものすごく高い建物がたくさんあって、夜でも街中が明るくて、鉄でできた乗り物が何台も道を走ってた」
エルナは黙って聞いている。
「それから医者がいて、俺は病気の治療を受けてた」
「統合失調症っていう病気?」
「たぶんそうだと思う」
「それなら前に言ってた声も、その病気で聞こえてたの?」
ワッパはすぐには頷かなかった。
「前の世界で聞いてた声は、今の声とはかなり違ってた」
「どう違うの?」
「前の声はもっと長く話してきたし、周りの人間を疑わせたり、誰にも相談するなって言ったり、自分の不安を大きくするようなことを何度も言ってきた」
ワッパは黒い構造物へ視線を向けた。
「今の声は短くて、何を考えてるのかもわからないけど、少なくとも今まで確認した範囲では現実と合ってる」
「それなら同じものだとはまだ言えないね」
「俺もそう思う」
ワッパはそう答えながら、自分の中で重要な線引きが一つできたことを感じていた。
前の世界で聞こえていた声と、この世界で聞こえている声。
どちらも自分にしか聞こえない。
それだけなら似ている。
しかし内容も性質も違う。
今の段階で同じものだと決めることはできない。
エルナが黒い構造物へ視線を戻した。
「これに触れたから、前の世界を思い出したのかな?」
「可能性はあると思うけど、まだわからないな」
「もう一度近づいてみる?」
「今度は慎重に確認しよう」
ワッパは立ち上がった。
すぐに構造物へ近づかず、周囲を観察する。
白い霧は少し薄くなっている。
黒い線は地面から構造物へ集まるように伸びている。
エルナの腕にある痕も、構造物へ近づくほど濃くなっている。
そして黒い短剣の中央には、まだ白い光が残っていた。
「この短剣と構造物は、たぶん何か関係してるよな」
「母さんもここまで来たのかな?」
「三年前には構造物が地上へ出てなかったって言ってただろ」
「大きな穴の中まで降りた可能性はあると思う」
エルナは円形の空間の端を見た。
確かに地面の一部が崩れており、黒い構造物は地下から斜めに露出しているようにも見える。
「エルナのお母さんが消えた場所と、これがある場所が同じなら、無関係とは考えにくいな」
二人は少しずつ外周を歩き始めた。
正面から見ると塔の壁にしか見えなかったが、横へ回ると地面の下へさらに巨大な部分が続いていることがわかった。
見えている部分は全体のほんの一部なのかもしれない。
「地面の下にもっと大きなものが埋まってるのか?」
「三年前に見た穴は、もっと深かったと思う」
「それなら地面が崩れて、埋まってたものが少しずつ見えるようになった可能性もあるな」
ワッパは黒い表面へ刻まれた溝を観察した。
文字のようにも見える。
しかし読めない。
規則的な線と円がいくつも組み合わさっている。
その中の一部分だけ、なぜか見覚えがあるような気がした。
ワッパが近づこうとした瞬間。
――右。
声が響いた。
ワッパは反射的に右へ飛ばず、まず右側を見た。
そこには地面から少しだけ突き出している黒い板のようなものがある。
「声は右って言ってる」
エルナもそちらを確認した。
「何か埋まってるみたいだね」
二人は慎重に近づいた。
地面を少し掘ると、黒い構造物と同じ材質の細長い板が現れた。
表面には白い線が一本走っている。
ワッパが触ろうとすると、エルナが手を止めた。
「また倒れるかもしれないよ」
「今度は直接触らずに確認しよう」
近くに落ちていた枝を使い、板の表面へ軽く触れた。
何も起きない。
次に黒い短剣を近づけた。
その瞬間、板の白い線が光った。
地面の下から低い音が響いた。
エルナが身体を強張らせた。
「三年前に聞いた音と似てる」
「鐘みたいな音って言ってたやつか?」
「もっと弱いけど、たぶん同じだと思う」
ワッパは音を聞きながら周囲を見た。
低い振動が身体の中へ直接伝わってくるようだった。
そして黒い板の表面に、今まで見えなかった模様が浮かび上がった。
円。
その周囲へいくつもの細い線。
さらに中央から外へ広がる波のような模様。
ワッパには意味がわからなかった。
それでも、ただの装飾ではないことだけは感じられた。
白い霧の奥から、枝が折れる音が聞こえた。
ワッパとエルナは同時に振り返った。
何かが近づいている。
森喰らいの低いうなり声が聞こえた。
一頭ではない。
複数の足音が霧の中を動いている。
「ここに長くいるのは危ないな」
「でも、せっかくここまで来たのに」
「構造物が逃げるわけじゃないなら、今日は戻って情報を整理した方がいい」
エルナは悔しそうな顔をしたが、反対はしなかった。
「帰り道はわかる?」
「来た道をそのまま戻れるなら問題ないと思う」
二人が歩き始めた直後、短い声が響いた。
――左。
ワッパは左側を確認した。
来た道は右側だった。
「声は左へ行けって言ってる」
「来た道と逆じゃない?」
「だからまず確認する」
二人はその場から動かず、右側の道を観察した。
白い霧しか見えない。
しばらく待つ。
やがて霧の奥から赤い目が浮かんだ。
一つではない。
二頭の森喰らいが、来た道を塞ぐように歩いている。
「今回は左へ行った方がよさそうだね」
「現実でも確認できたから、今はそうしよう」
二人は左側へ進んだ。
声に案内されるまま進むのではなく、その都度周囲を確認しながら道を選ぶ。
それでも結果として、短い声が示した方向には危険を避けられる道が続いていた。
前の世界で聞いていた長い声とは違う。
あの声は現実を確認しようとすると、確認そのものを邪魔するような言葉を重ねてきた。
今の声は説明しない。
説得もしない。
ただ短い言葉を置いて消える。
その違いを考えながら森を歩いていると、ワッパの中で一つの疑問がさらに大きくなっていった。
もし今の声が統合失調症によるものと同じではないなら。
いったい誰が、何のために自分へ話しかけているのか。
夕方近くになって、二人はようやく村へ戻った。
村長には森の奥で見つけた黒い構造物について説明したが、老人もその存在を知らなかったらしく、エルナが三年前に見た大穴の場所から巨大なものが地表へ現れていると聞いて長い間黙り込んでいた。
「昔からあの森には、近づいてはいけない場所があるとは言われていた」
「どうして近づいちゃいけないんですか?」
「理由まで知っている者は、もう村には残っていないだろう」
また記録がない。
知られていたはずのものが忘れられている。
ワッパはそのことに、自分自身の記憶と少し似たものを感じた。
自分も以前の世界を忘れていた。
村も森の奥にある何かを忘れている。
そして黒い構造物は、その両方を無理やり思い出させるように地上へ現れ始めている。
夜になり、ワッパは集会所の外へ出た。
空には見慣れない星が広がっていた。
前の世界で見ていた星空と同じなのか違うのか、そこまではまだ思い出せない。
それでも一つだけ、今までよりはっきり理解できたことがあった。
自分はこの世界の人間ではない。
以前には別の世界で暮らしていた。
そこで統合失調症と診断され、誰にも聞こえない声に苦しみながら生きていた。
そして何らかの理由で死に、この世界へ来た。
どうしてここへ来たのか。
なぜ記憶を失ったのか。
今聞こえている短い声が何なのか。
黒い構造物と自分の記憶にどんな関係があるのか。
まだ何一つわからない。
それでも、以前よりは進んでいる。
わからないことを、わからないまま一つずつ確かめていけばいい。
ワッパは夜空を見上げた。
「俺がいた世界のことも、この世界のことも、ちゃんと調べてみるよ」
誰に向かって言ったわけでもなかった。
――思い出せ。
短い声が響いた。
ワッパは目を閉じなかった。
今度は逃げるつもりもなかった。
忘れた世界に何があったとしても、自分自身の過去であることに変わりはない。
「わかったから、今度はちゃんと自分で確かめるよ」
返事はなかった。
それでもワッパは、声の沈黙へ勝手な意味をつけることなく、知らない星空の下で静かに立ち続けた。




