第八章 統合失調症
翌朝になっても、ワッパの頭の中には前日に見た白い診察室と夜の街の記憶が残り続けていた。
以前の世界で自分が統合失調症と診断され、誰にも聞こえない声に苦しみながら生活していたことだけは、もう偶然に浮かんだ断片として無視できるほど曖昧ではなくなっており、むしろ思い出せば思い出すほど、今まで自分の中にあった説明できない恐怖や警戒心の理由まで少しずつ形を持ち始めていた。
それでも、以前の世界で聞こえていた声と、この世界へ来てから聞こえている短い声が同じものなのかについては、まだ答えを出すべきではないとワッパは考えていた。
どちらも自分以外には聞こえないという共通点はある。
しかし、それだけで同じものだと決めてしまえば、今まで現実と一致してきた出来事まで無理に一つの説明へ押し込めることになり、反対に短い声が何度も正しかったからという理由だけで、以前に苦しんだすべての声まで本当だったと考えることも間違っているように思えた。
その二つを混ぜないことが、今のワッパには何より大切だった。
朝食を終えたあと、ワッパは集会所の外にある低い石垣へ座り、昨夜から何度も考えていたことを紙へ書き留めようとしていた。
村長から借りた紙は少し厚く、以前の世界で使っていたものとは感触が違ったが、文字を書くという行為そのものは身体が覚えているらしく、考えたことを一つずつ整理していくには十分だった。
最初に書いたのは、以前の世界で聞いていた声についてだった。
長く話すことが多かった。
不安を大きくすることがあった。
周囲の人間を疑わせることがあった。
誰にも相談するなと言うことがあった。
現実を確認しようとすると、それを邪魔するような内容になることもあった。
次に、この世界で聞いている短い声について書いた。
短い言葉が多い。
理由を説明しない。
こちらを説得しようとしない。
危険や方向について告げることが多い。
今まで確認できた範囲では、現実と矛盾していない。
そして最後の一行だけ、少し時間をかけて書いた。
同じものとは、まだ決めない。
「朝からずいぶん真面目に書いてるんだね」
いつの間にかエルナが横へ立っていた。
「考えてるだけだと混ざりそうだから、書いて分けてるんだ」
「昨日思い出したことについて?」
「それも含めて整理してる」
エルナはワッパの隣へ座った。
「昨日は途中までしか聞けなかったけど、統合失調症っていう病気について、もう少し思い出したの?」
ワッパは紙を見た。
どう説明すればいいのか少し迷った。
以前の世界の病気を、この世界の知識しか持っていないエルナへ正確に説明することは難しい。
それでも、曖昧なまま誤魔化すより、自分が思い出せている範囲だけでも話した方がいいと思った。
「全部を正確に思い出したわけじゃないけど、俺の場合は誰も話していないのに声が聞こえたり、周りの人が自分を見ているように感じたりして、それが本当に起きてることなのか、自分の中で起きてることなのか判断するのが難しくなることがあったみたいだ」
エルナは黙って聞いていた。
「その声は今みたいに危険を教えてくれたの?」
「少なくとも、俺が昨日思い出した声は全然違った」
「どんな感じだったの?」
「誰かがお前を狙ってるとか、周りの人間を信用するなとか、薬を飲んだら騙されるとか、そういう不安を強くするようなことを長く言ってくることが多かった」
ワッパは一度言葉を止めた。
「そのときの俺は、声が聞こえてる最中には本当だと感じることもあったみたいだけど、あとから現実を確認すると違っていたこともたくさんあった」
エルナは少し考えた。
「それなら、今聞こえてる声とはやっぱり違うように感じるね」
「違うようには感じるけど、それだけで別物だと断定するつもりもない」
「どうしてそこまで慎重なの?」
「一度思い込みで失敗すると、次は簡単に決めたくなくなるんだと思う」
崖から落ちかけたときのことを思い出し、ワッパは少し苦笑した。
「前の世界では、その病気を治すために何をしてたの?」
「薬を飲んだり、医者と話したりしてた」
「声を聞こえなくするため?」
「それもあったと思うけど、完全に聞こえなくすることだけが目的だったわけじゃなかった気がする」
そう答えた瞬間、白い診察室の記憶が少しだけ鮮明になった。
医者は机の向こうへ座り、ワッパが話し終えるまで急かすことなく待っていた。
『声が聞こえなくなれば、それで全部解決すると思いますか?』
過去のワッパは答えられなかった。
『聞こえない方が楽だと思います』
『そうですね、それは大切なことです』
医者は否定しなかった。
『ただ、声が聞こえるかどうかだけではなく、それによって生活がどれくらい困っているのか、自分で現実を確かめられるか、誰かへ相談できるかということも大切なんです』
過去のワッパは少し俯いた。
『でも、本当のことだったらどうするんですか?』
以前にもした質問だった。
医者はすぐに答えを押しつけなかった。
『大切なのは、今すぐどちらか一つに決めなくてもいいということです』
その言葉が、今度ははっきり戻ってきた。
『本当かもしれないと思う気持ちがあってもいいですし、違うかもしれないと考えることもできます』
『わからないことを、わからないままにしておくことも大切なんです』
ワッパはそこで記憶から戻った。
「今、何か思い出してた?」
エルナが尋ねた。
「前の世界で医者に言われたことを少し思い出した」
「どんなことだったの?」
「わからないことを、無理に今すぐ決めなくてもいいって言われてた」
エルナは笑った。
「それなら今のワッパにもぴったりだね」
「前の俺も同じことで悩んでたんだろうな」
ワッパは紙へ新しい一文を書いた。
わからないことは、わからないまま残して確認する。
「それなら私についても、同じように考えてくれる?」
エルナが静かな声で尋ねた。
「どういう意味なんだ?」
「私の黒い痕が何なのかも、まだわからないでしょ」
「原因だって決めつけるつもりはない」
「それなら安心したよ」
エルナは自分の左腕を撫でた。
「私はずっと、この痕があるから自分が霧を呼んでるのかもしれないって考えてた」
「それを証明するものはまだ何もないだろ」
「母さんが消えたあとに霧が減ったから、そう考える方が自然だと思ってたんだよ」
「自然に感じることと、本当にそうなのかは別だと思う」
その言葉を口にした瞬間、ワッパは少しだけ驚いた。
以前の世界で教えられた考え方を、今度は自分がエルナへ伝えている。
「ワッパって、昨日よりずいぶん先生みたいなことを言うようになったね」
「ほとんど前の医者から借りた言葉だけどな」
「それでも今はワッパが言ってくれた言葉だから、それでいいと思うよ」
エルナは笑った。
その日の昼過ぎ、ワッパとエルナは昨日森で見つけた黒い構造物について、もう一度村長へ話を聞きに行った。
村長は古い地図や記録をいくつか集めてくれていたが、巨大な黒い構造物そのものについて書かれたものは見つからず、森の奥に近づいてはいけない区域があったことだけが古い地図から確認できた。
「この印は何を表してるんですか?」
ワッパは地図の東側に描かれている細い円へ指を置いた。
「詳しい意味はわからないが、昔の地図では立入禁止を示すために使われていた印だと思う」
「昨日見つけた場所と重なってますか?」
「おそらく近い場所だろう」
エルナが地図を覗き込んだ。
「母さんはこの印について知ってたのかな?」
「可能性はあるが、今となっては本人に聞かなければわからない」
村長はそう答えたあと、少し迷うような表情を見せた。
「ただし、お前の母親は森へ入る前に古い記録を調べていたことがある」
「そんな話は初めて聞いたよ」
「本人から誰にも言わないでほしいと頼まれていた」
ワッパは思わず村長を見た。
「何について調べてたんですか?」
「白い霧についてだ」
エルナの顔から笑みが消えた。
「記録は残ってるの?」
「調べていた本や書類まではわからないが、この村より東にある古い保管所へ何度か行っていたらしい」
「東には何があるんですか?」
「今では使われていない建物や古い道が多いが、昔はもっと大きな集落があったと聞いている」
ワッパは地図の東側を見た。
昨日の黒い構造物も、村から見れば東寄りの森にある。
偶然なのかもしれない。
それでも記録として残しておく価値はありそうだった。
集会所へ戻ったあと、ワッパは新しくわかったことを紙へ追加していた。
そのとき、外から木材が軋むような音が聞こえた。
ワッパは顔を上げた。
何かが聞こえた気がする。
しかし周囲の村人は特に反応していない。
気のせいかもしれない。
そう考えた瞬間。
――立て。
声が響いた。
ワッパはすぐに立ち上がった。
ただし声へ無条件に従ったわけではなく、立ち上がりながら周囲を確認した。
エルナもワッパの動きに気づいた。
「声が何か言ったの?」
「立てって言われたんだけど、理由はわからない」
二人で周囲を見た。
集会所の中に危険なものは見当たらない。
それでもワッパはその場へ座り直さず、少し位置を変えた。
直後、頭上から大きな音が響いた。
天井を支えていた古い木材の一部が外れ、つい先ほどまでワッパが座っていた場所へ落下した。
周囲の村人が驚いて振り返った。
エルナも落ちた木材を見たあと、ワッパへ視線を向けた。
「今のも声が知ってたのかな?」
「結果だけ見れば、そう考えたくなる」
「でもまだ決めないんだね」
「これ一回だけで何か新しいことを決める必要はないからな」
ワッパは落ちた木材を確認した。
固定していた部分が腐っている。
崩れる前に軋む音も聞こえていた。
声がなくても、注意深く見ていれば危険に気づけた可能性はある。
それでも声は、実際に木材が落ちる前に立てと告げた。
また一つ、現実と一致する出来事が増えた。
夜になってから、ワッパは今までの声を紙へ書き出した。
伏せろ。
左。
窓。
灯り。
エルナを守れ。
エルナは死ぬ。
三日。
見るな。
言うな。
遅い。
戻れ。
止まれ。
右。
逃げろ。
思い出せ。
まだ早い。
そして今日の、立て。
書き出してみても規則はまだ見えない。
危険を避ける指示もあれば、記憶に関する言葉もあり、エルナの未来について告げるものまで含まれている。
ただ一つ共通しているのは、ほとんどの言葉が短いことだった。
以前の世界で聞いた声とは明らかに性質が違う。
ワッパは紙の端へ、以前の声と今の声を混同しないと書き加えた。
その直後、隣に座っていたエルナが覗き込んだ。
「声の記録までつけるようになったんだね」
「あとから都合よく思い出し直したくないからな」
「都合よくってどういうこと?」
「当たった声だけ覚えて、外れた声を忘れたら、本当はどれくらい正しいのかわからなくなるだろ」
エルナは少し感心したように紙を見た。
「それなら声が外れたときもちゃんと書くの?」
「もちろん書くつもりだよ」
「エルナが死ぬっていう声も?」
ワッパの手が止まった。
紙の中には、すでにその言葉が書いてある。
「書いたからって受け入れたわけじゃない」
「それならどういう意味なの?」
「言われたことを消さずに残しただけだよ」
ワッパは紙を見た。
「都合が悪いからなかったことにしたら、確認することもできなくなる」
エルナは小さく頷いた。
「それなら私も、その結果を見るところまでちゃんと生きてないといけないね」
ワッパはエルナを見た。
「当然だろ」
「声は死ぬって言ってるけど?」
「だからこそ確かめるんだよ」
エルナは少しだけ笑った。
その夜、ワッパは奇妙な夢を見た。
森の中に立っている。
しかし木々の姿はなく、白い霧だけがどこまでも広がっている。
足元には黒い線が走っていた。
昨日見た構造物の表面と同じような線が、地面の向こうまで続いている。
ワッパはその線を追った。
どれだけ歩いても景色は変わらない。
やがて遠くに黒い影が見えた。
塔のように高い。
しかし昨日の構造物よりも遥かに大きく、その大部分は白い霧の中へ隠れていた。
ワッパが近づこうとした瞬間。
――東へ。
短い声が響いた。
ワッパは立ち止まった。
「東へ行けば何があるんだ?」
返事はなかった。
「昨日見つけた建物のことなのか?」
沈黙が続いた。
ワッパは黒い塔のような影を見上げた。
その表面へ無数の白い線が浮かんだ。
低い音が響いた。
三年前にエルナが聞いたという、鐘のような音だった。
そして短い声が、今まで聞いたことのない言葉を告げた。
――響界。
ワッパは目を開けた。
集会所の天井が見えた。
夜はまだ明けていない。
身体を起こし、近くへ置いていた紙を手に取った。
夢だった可能性は高い。
だからといって忘れてしまえば、あとから確認することもできない。
ワッパは暗い中で文字を書いた。
東へ。
響界。
書き終えたあと、その二文字を長く見つめた。
意味は思い出せない。
以前の世界で知っていた言葉でもないような気がする。
それでも、その言葉を聞いた瞬間だけ、森で見た黒い構造物と、自分にしか聞こえない短い声が、どこか一つの場所でつながったように感じられた。
「響界って、いったい何なんだ……」
当然ながら答えはなかった。
ワッパは紙を閉じた。
わからないものを、わからないまま残しておく。
以前の世界で教えられ、今ようやく思い出したその方法を信じるなら、今すぐ答えを作る必要はない。
ただ記録して、確認して、必要なら誰かへ相談する。
それだけでいい。
そして朝になったら、まずエルナへこの言葉を話そう。
一人だけで抱え込まないことも、忘れていた世界で自分が学んだ大切なことの一つだった。




