第六章 白い霧
「私の中にいるものを、終わらせるの」
エルナが倉庫で口にしたその言葉は、夜になって集会所へ戻ってからもワッパの頭から離れず、眠ろうとして目を閉じるたびに、左腕を覆っていた黒い痕と、木箱の上に置かれていた黒い短剣が何度も浮かんできた。
三年前にエルナと母親は白い霧へ入り、そのあと二人の身体には同じような黒い痕が現れ、やがて母親は森の奥へ入ったまま帰ってこなかった。
そして今度はエルナ自身が、同じ森の奥へ向かおうとしている。
偶然として片づけるには、似ている部分があまりにも多かった。
ワッパは寝台から身体を起こし、暗い集会所の窓から森の方向を眺めたが、夜の闇に覆われた木々の姿しか見えず、昨夜まで村の外れへ漂っていた白い霧も今は見当たらなかった。
「終わらせるって言ってたけど、何をするつもりなんだよ……」
問いかけても答える人間はいない。
頭の中の声も沈黙していた。
声はエルナが死ぬと言った。
自分には救えないとも言った。
それでも、何も知らないままエルナを一人で森へ行かせれば、本当にその言葉通りになるような気がしてならなかった。
だからワッパは、エルナが何と言おうと翌朝には一緒に森へ向かうことを決め、そのためにも今まで聞いた話を一度整理しておこうと考えた。
白い霧が現れると森喰らいが活発になる。
エルナと母親は三年前に白い霧へ入り、そのあと身体へ黒い痕が現れた。
母親は森の奥へ入ったまま帰らなかった。
村長は黒い短剣をエルナへ渡し、いつか必要になるかもしれないとだけ説明した。
そしてエルナは、自分の中にいる何かを終わらせるため、母親が消えた森へ向かおうとしている。
何かがつながっている。
しかし、そのつながりがまだ見えない。
ワッパは答えを出せないまま横になり、今度こそ眠ろうと目を閉じた。
翌朝、ワッパが集会所を出ると、エルナはすでに村の入口に立っていた。
背中には小さな荷物を背負い、腰には昨日見た黒い短剣が鞘へ収められた状態で下げられている。
「やっぱり一緒に来るつもりなんだね」
「昨日の話を聞いたあとで、俺だけ村に残れると思うのか?」
「思ってなかったから、最初から少し多めに食べ物を持ってきたよ」
「それなら昨日あれだけ来るなって言ってた意味がないだろ」
「止めても来る人を何も持たせず歩かせる方が危ないから仕方ないでしょ」
エルナは呆れたように笑い、小さな袋をワッパへ渡した。
中には黒いパンと干した肉、それから水の入った小さな容器が入っていた。
「森の奥まで行ったら、今日中に帰れるかわからないよ」
「それくらいは覚悟してる」
「本当に危ないと思ったら、私を置いて逃げてね」
「朝から縁起でもないことを言うなよ」
「冗談で言ってるわけじゃないよ」
エルナの表情から笑みが消えた。
「三年前に母さんが消えた場所より、さらに奥まで行くつもりだから」
ワッパはすぐには答えず、森へ続いている道を見た。
「それならなおさら、一人では行かせられないな」
エルナは何か言い返そうとしたが、結局小さく息を吐いただけだった。
二人が出発しようとしたところで、後ろから村長に呼び止められた。
昨日まで穏やかな印象しかなかった老人の顔には、明らかな緊張が浮かんでいる。
「エルナ、本当に行くつもりなのか?」
「もう決めたことだから、今さら止めても行くよ」
「お前の母親も同じようなことを言っていた」
その言葉を聞いたエルナの表情が固まった。
ワッパは二人を交互に見た。
「村長は、エルナのお母さんが森へ行った理由を知ってるんですか?」
老人はしばらく答えなかった。
その沈黙だけでも、何かを知っていることは十分に伝わってきた。
「全部知っているわけではないが、あの痕についてなら少しだけ知っている」
「それなら昨日まで、どうして何も教えてくれなかったんですか?」
「確かなことではなかったからだ」
村長はエルナの左腕へ視線を向けた。
服の下に隠れている黒い痕を見ているのだろう。
「三年前、白い霧が村を覆った夜に、お前の母親にも同じ痕が現れていた」
エルナが驚いた顔をした。
「母さんから聞いた話だと、痕が出たのはもっと前だったはずだよ」
「本人がそう話していたのなら、私が知ったのが三年前だったということだろう」
村長は訂正した。
ワッパはそのやり取りを聞きながら、村長が知っていることと推測していることを分けようとした。
「エルナのお母さんが森へ入ったあと、白い霧はどうなったんですか?」
「しばらくの間だけ、明らかに少なくなった」
ワッパは眉を寄せた。
「それで村では、エルナのお母さんが霧を止めたと考えたんですか?」
「そう考えた者は多かった」
「村長自身はどう思ってるんですか?」
老人はすぐには答えなかった。
「わからないというのが本当のところだ」
その答えを聞き、ワッパは少しだけ安心した。
少なくとも、母親が犠牲になったから霧が消えたと決めつけているわけではないらしい。
「母さんの身体は見つかったの?」
エルナが尋ねた。
「見つかっていない」
「それなら死んだかどうかもわからないんだね」
「生きている証拠も残っていない」
村長の答えは厳しかったが、事実だけを伝えようとしているように聞こえた。
エルナは腰の黒い短剣へ手を触れた。
「この短剣は母さんが持ってたものなの?」
村長は頷いた。
「森へ入る前、お前の母親から私が預かったものだ」
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
「同じ道を選ばせたくなかったからだ」
エルナは何も答えなかった。
ワッパは黒い短剣を見た。
母親が持っていた。
黒い痕へ近づけると反応する。
そして村長は、必要になるかもしれないという理由で娘へ渡した。
「この短剣が何のために作られたものかは知ってるんですか?」
「詳しいことまでは知らないが、森の奥で見つかったものだと聞いている」
「誰が見つけたんですか?」
「それも昔の話だから、今では記録が残っていない」
答えはそこで途切れた。
ワッパは聞きたいことがまだあったが、村長自身もそれ以上の情報を持っていないようだった。
村を離れて森へ入ると、昨日まで歩いていた道をしばらく進んだあと、エルナは途中から細い獣道へ方向を変えた。
人が頻繁に通っている場所ではないらしく、地面には枯れ葉が厚く積もり、低い枝を何度も払いながら進まなければならなかった。
「三年前にも、この道を通ったのか?」
「途中までは覚えてるけど、霧が濃くなってからのことはほとんど覚えてないの」
「気づいたら霧の中にいたって昨日は言ってたよな」
「母さんと薬草を探してただけだったのに、急に周りが真っ白になって、どっちから来たのかもわからなくなったんだよ」
「そのとき何か変わったものを見なかったのか?」
エルナは歩きながら考え込んだ。
「大きな音を聞いた気がする」
「どんな音だったんだ?」
「鐘みたいだったけど、村の鐘とは全然違っていて、もっと低くて遠くから身体の中へ響いてくるような音だったと思う」
ワッパはその言葉を覚えておくことにした。
「ほかには何か覚えてないか?」
「黒いものを見たような気がするけど、それが何だったのかは思い出せないよ」
それ以上の記憶は曖昧らしかった。
森の奥へ進むにつれて、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは木の幹だった。
何本かの木に、黒い線が走っている。
自然にできた模様のようにも見えたが、近づいて確認すると、その線は樹皮の表面だけではなく内部から浮き出しているように見えた。
「エルナの腕にある痕と似てないか?」
エルナも木へ近づいた。
「本当に似てるけど、前に来たときはこんなのなかったと思う」
黒い線は一本だけではない。
周囲を探すと別の木にもあり、さらに地面の岩や露出した根にも同じような模様が広がっている。
人間の身体。
木。
石。
本来ならまったく違うものの上へ、同じ形の黒い線が現れている。
「エルナの中に何かがいるって考えるより、外から同じものが影響してる可能性もあるんじゃないか?」
「外から影響してるってどういうこと?」
「まだわからないけど、この森にある何かがエルナの身体にも同じ痕を作った可能性はあると思う」
エルナは自分の左腕を見た。
「それなら私が霧を呼んでるわけじゃないのかな」
「誰かにそう言われたのか?」
「はっきり言われたわけじゃないけど、母さんがいなくなったあとに霧が減ったから、ずっと少しだけ考えてたの」
「それは原因と結果が逆かもしれないだろ」
ワッパは周囲の黒い線を見た。
「霧がエルナたちに何かをしたから痕が出た可能性だってあるし、お母さんが消えたあとに霧が減った理由もまだわからない」
エルナはしばらく黙っていた。
「ワッパは、私が原因じゃないと思うの?」
「今ある情報だけなら、原因だと決める理由がないと思ってる」
エルナは小さく息を吐いた。
その表情が少しだけ柔らかくなった。
さらに進んだところで、短い声が響いた。
――止まれ。
ワッパはすぐに足を止めた。
「声が止まれって言ってるから、周囲を確認しよう」
今度は声を聞いたからといって何も考えず従うのではなく、エルナと一緒に周囲を確認した。
正面の道には何も見えない。
地面にも昨日の崩落のような亀裂はない。
ワッパは左右へ視線を動かした。
「何もないように見えるけど、少し待った方がいいと思う」
エルナも頷いた。
二人はその場で動かなかった。
十秒ほど経った。
何も起きない。
さらに待った。
そのとき、少し先にある茂みが揺れた。
黒い獣が一頭、道を横切った。
森喰らいだった。
二人には気づいていないらしく、そのまま木々の向こうへ消えていった。
ワッパは森喰らいが完全に見えなくなるまで待った。
「今のは確かに止まってて良かったね」
「今回も確認できた範囲では間違ってないな」
「前みたいに、間違っててほしいとは思わないの?」
「今でもエルナが死ぬって言葉だけは間違っててほしいと思ってるよ」
ワッパは正直に答えた。
「でも、そのために別の声まで無理やり間違いにするのはやめたんだ」
エルナは少し笑った。
「それなら前より安心して一緒に歩けるね」
二人は森喰らいが消えた方向とは反対側へ進んだ。
昼を過ぎたころ、森の中へ薄い白い霧が現れ始めた。
最初は地面を這う程度だったが、奥へ進むにつれて少しずつ濃くなり、やがて足元の草が白い膜を通して見えるようになった。
エルナの表情が変わった。
「三年前もこんな感じだったのか?」
「たぶん同じだけど、あのときより少し冷たい気がする」
ワッパも霧の中へ手を入れてみた。
空気そのものが冷たい。
ただの水蒸気とは違い、皮膚へ触れた場所から体温を少しずつ奪われるような感覚があった。
「無理だと思ったらすぐ戻ろう」
「ここまで来て戻るの?」
「死ぬために来たわけじゃないだろ」
エルナは一瞬黙った。
「私は終わらせるために来たんだよ」
「それと死ぬことは同じじゃない」
ワッパははっきり言った。
「少なくとも俺は、同じものとして扱うつもりはないからな」
エルナは返事をしなかった。
それでも歩みを止めることはなかった。
白い霧はさらに濃くなった。
数歩先の木が霞み始める。
方向を見失わないよう、ワッパとエルナは互いに声を掛けながら進んだ。
しばらくすると、短い声が響いた。
――右。
ワッパはすぐに右へ進まず、まず足元と周囲を確認した。
左側の地面には何も見えない。
右側にも危険は見当たらない。
「声は右って言ってるけど、何があるのかはわからない」
「それなら少しだけ右側を確認してみよう」
二人は慎重に方向を変えた。
十数歩ほど進んだところで、背後から低いうなり声が聞こえた。
振り返ると、先ほどまで進もうとしていた正面の霧の中に二つの赤い光が浮かんでいる。
森喰らいだった。
ワッパとエルナは声を出さず、ゆっくり距離を取った。
怪物は二人へ気づかなかったのか、そのまま別の方向へ歩いていった。
「声がなかったら、そのまま近づいてたかもしれないね」
「そうだとしても、次も同じとは限らないから確認は続けよう」
「ワッパは本当に慎重になったね」
「昨日崖から落ちかけたばかりだから、少しくらいは学習するよ」
さらに奥へ進むと、黒い線は木や地面のほとんどへ広がり始めた。
その線は同じ方向へ伸びている。
森のさらに深い場所へ向かっていた。
エルナの左腕にも変化が起きた。
袖の下から黒い線が薄く浮かび上がり、布越しでも形が見えるほど濃くなっている。
「痛みはあるのか?」
「痛いというより、熱くなってる感じがする」
エルナは黒い短剣を取り出した。
短剣の表面にも変化が起きていた。
今まで光をほとんど反射しなかった黒い刃の中央へ、細い白い線が浮かんでいる。
ワッパはそれを見て立ち止まった。
「短剣まで反応してるみたいだな」
「たぶん近づいてるんだと思う」
「何に近づいてるんだ?」
「それがわからないから、ここまで来たの」
エルナは前を向いた。
やがて白い霧の向こうで、森が突然途切れた。
二人は慎重に近づいた。
そこには大きな円形の空間が広がっていた。
木々が生えていない。
地面には植物もほとんどなく、黒い石のようなものがむき出しになっている。
そして円形の空間の中央には、森の景色とは明らかに異質なものが存在していた。
巨大な黒い構造物だった。
塔の一部のようにも見える。
建物が地面へ斜めに突き刺さっているようにも見える。
表面は黒い金属に似ていたが、長い年月を経た石のような質感もあり、そのところどころには細い溝が規則的に刻まれている。
自然にできたものではない。
少なくともワッパにはそう見えた。
「これが三年前に見た黒いものなのか?」
エルナは答えなかった。
顔から血の気が引いている。
「どうしたんだ?」
「こんなの、なかったよ」
「三年前には何もなかったのか?」
「何もなかったわけじゃないけど、ここには大きな穴があっただけなの」
エルナは震える声で続けた。
「こんな塔みたいなものは、絶対に地面から出てなかった」
ワッパは黒い構造物を見上げた。
露出している部分だけでもかなり大きい。
もしエルナの記憶が正しいなら、三年前には地中へ埋まっていたものが、何らかの理由で今は地表へ現れていることになる。
「近づかない方がいいかもしれないな」
そう言った直後、エルナの左腕が大きく震えた。
「エルナ、大丈夫なのか!」
「急に腕が熱くなってきたの!」
エルナが袖をまくり上げた。
黒い痕が今まで見たこともないほど濃くなっている。
同時に黒い短剣の白い線も強く光り始めた。
ワッパは構造物へ目を向けた。
その表面に刻まれていた細い溝へ、白い光が走った。
一本。
二本。
それから無数の線が次々に光り始める。
眠っていた巨大な何かが、エルナの存在へ反応して目を覚ましたように見えた。
――逃げろ。
声が響いた。
ワッパはすぐに周囲を確認した。
白い霧が動いている。
今まで地面を漂っていた霧が、黒い構造物へ吸い込まれるように流れ始めていた。
「エルナ、ここから離れよう!」
ワッパはエルナの腕を掴んだ。
しかしエルナは動かなかった。
「これが原因なのかもしれない」
「そうだとしても、今調べる必要はないだろ!」
「母さんが消えた理由も、私の痕のことも、ここに何か残ってるかもしれないの!」
「だからって死んだら確かめられないだろ!」
エルナは黒い構造物を見たまま動こうとしない。
――逃げろ。
声がもう一度響いた。
ワッパは歯を食いしばった。
逃げれば自分だけなら助かるかもしれない。
声はこれまで確認できる範囲で間違っていなかった。
それなら今すぐ走ることが最も安全なのだろう。
しかし、ワッパはエルナの腕を離さなかった。
「一人で逃げるつもりはないから、戻るなら二人で戻るぞ!」
「声は逃げろって言ってるんでしょ!」
「聞こえた情報をどう使うかは俺が決めるって、昨日決めたばかりなんだよ!」
黒い構造物の光が一気に強くなった。
地面まで震え始めた。
白い霧が渦を巻き、ワッパとエルナの周囲へ集まってくる。
視界が白く染まった。
エルナの手を掴んでいる感覚だけが残った。
「絶対に手を離さないでくれ!」
「ワッパも絶対に離さないで!」
次の瞬間、黒い構造物から放たれた白い光が二人を包み込んだ。
音が消えた。
森の匂いも消えた。
手の中にあったエルナの感触まで消えていた。
ワッパが目を開けると、そこには森ではなく、見覚えのある白い天井があった。
身体を起こす。
白い壁。
白い机。
窓から差し込む淡い光。
そして向かい側には、白衣を着た男が座っていた。
ワッパはその場所を知っていた。
名前までは思い出せない。
それでも、ここへ何度も来たことがある。
男がゆっくり口を開いた。
『今日は、聞こえている声について少し話しましょう』
ワッパの胸が大きく鳴った。
ここは今いる世界ではない。
森でもない。
エルナの村でもない。
自分が忘れている、以前の世界だった。
その瞬間。
――思い出せ。
短い声が響いた。
ワッパは動けなかった。
以前は思い出すなと言った声が、今度は正反対の言葉を告げている。
目の前にいる白衣の男は、机の上に何かを置いた。
そこにはワッパ自身の名前と、見覚えのある文字が書かれていた。
統合失調症。
忘れていた世界の記憶が、白い霧の向こうから少しずつ形を取り戻し始めていた。




