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第五章 エルナの秘密

朝になっても、ワッパの胸の奥には昨夜の声が重く残っていた。


眠っている間だけでも忘れられればよかったのだが、目を覚ました瞬間には、森の暗がりで聞いた言葉がはっきりと蘇ってしまい、窓から差し込む柔らかな朝の光を眺めても、胸の奥に沈んだ不安が軽くなることはなかった。


エルナは死ぬ。


自分には救えない。


三日という期限まで告げられている。


けれど、ワッパはその言葉をそのまま未来の確定事項として受け止めることだけは避けようとしていた。


昨日、森の中で声へ逆らった結果として危険に遭遇し、そのあと声の指示どおりに動いたことで助かったことは事実だったが、それだけで今後に関するすべての言葉まで確定した未来として扱う理由にはならない。


未来について語られたことと、すでに起きて確認できたことは違う。


その違いだけは、自分の中で絶対に混ぜたくなかった。


もし声が正しいからという理由だけで、エルナは必ず死ぬと決めつけてしまえば、何かを調べる意味さえなくなってしまう。


それだけは嫌だった。


エルナが助かる方法が存在するのかどうかは、まだわからない。


わからないなら、まだ決めなくていい。


ワッパはそう考えながら、ゆっくりと寝台から立ち上がった。



外へ出ると、村には昨日までと変わらない朝の時間が流れていた。


井戸の周囲では何人かの村人が水を汲み、畑へ向かう男たちは農具を肩へ担ぎ、家々の煙突からは朝食を作るための細い煙が伸びている。


少し離れた場所では子供たちが走り回っており、その中には最初の日に白い花を渡してくれた少女の姿もあった。


誰も、三日後に何が起きるのか知らない。


そもそも本当に何かが起きるのかどうかさえ、まだ誰にもわからない。


それなのに、自分の耳へ聞こえる声だけが未来を知っているように振る舞っている。


そのことを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。



「朝からずっと難しい顔をしてるね」


背後から聞こえた声に振り返ると、エルナが籠を片手に立っていた。


淡い色の服を着て、髪を軽くまとめ、昨日までと何も変わらないような表情でこちらを見ている。


少なくとも、外から見える範囲では変わっていない。


「そんなに変な顔をしてましたか?」


「ずっと考え事をしてる顔だったから、話しかけない方がいいのか少し迷ったよ」


「考え事をしていたのは本当です」


「やっぱり声のことを考えてたの?」


ワッパは一瞬だけ答えに迷ったが、そこで誤魔化しても意味はないと思い直した。


「声のことも考えていました」


「昨日の森で聞いた声のこと?」


「昨日のことも含めて考えてました」


エルナはそれ以上深く聞こうとはせず、その代わりに持っていた籠を少し持ち上げた。


「今日は森の手前まで薬草を採りに行くけど、ワッパも一緒に来る?」


森という言葉を聞いた瞬間、昨日の光景が頭へ浮かんだ。


崩れた地面。


突然聞こえた声。


間一髪で掴んだ木の根。


それでもエルナにとって、森の手前で薬草を採ることは日常なのだろう。


ワッパは周囲を見た。


空は晴れている。


白い霧は出ていない。


村人たちも普段どおりに動いている。


「森の奥までは入らないんですよね?」


「今日は村から近い場所だけだから、昨日みたいな奥までは行かないよ」


「それなら俺も一緒に行きます」


エルナが少し笑った。


「昨日よりずいぶん慎重になったね」


「昨日は慎重さが足りなさすぎました」


「それなら少し安心できるかな」


二人は並んで村の外へ向かった。



森の手前には朝の光がよく届いており、昨日のような不気味さはほとんど感じられなかった。


木々の根元には小さな黄色い花が咲き、葉の裏側が銀色に光る草が風に揺れ、その周囲を小さな虫が飛び回っている。


エルナは植物を見つけるたびに足を止め、必要な部分だけを丁寧に摘み取って籠へ入れていった。


「この葉っぱは熱が出たときに使うんだよ」


「そのまま食べる薬草なんですか?」


「そのままだと苦すぎるから、乾かしてから煮出して飲むんだよ」


「ちゃんと効く薬草なんですか?」


「効いていると思うけど、何にでも絶対に効くとは言えないかな」


ワッパは少しだけ笑った。


「ずいぶん慎重な言い方をするんですね」


「薬草なんて、効いたと思っても本当に薬草のおかげなのか、自然に治っただけなのかわからないこともあるからね」


「それなら慎重なくらいでちょうど良さそうです」


何でもない会話だった。


昨日までのことがなければ、そのまま穏やかな時間として過ぎていたのかもしれない。


ワッパは一瞬だけ、こんな朝がずっと続けばいいと思った。


三日という言葉も。


エルナが死ぬという予告も。


全部、自分の聞き間違いだったならいい。


そのときだった。



――隠している。



ワッパの手が止まった。



エルナは少し離れた場所で、低い草をかき分けながら薬草を探している。


こちらを見てはいない。


ワッパはすぐには話しかけなかった。


声が誰を指しているのかはわからない。


何を隠しているのかもわからない。


エルナのことだと決めるには、まだ何も足りていなかった。


「急に動かなくなったけど、どうかしたの?」


エルナが顔を上げた。


「今、また声が聞こえました」


エルナの表情が、ほんのわずかに変わった。


本当に一瞬だった。


けれど、ワッパには見えた。


「今度は何て言ったの?」


「誰かが何かを隠しているって言いました」


エルナは黙った。


その沈黙だけで、何かを決めつけることはできない。


驚いただけかもしれない。


声について考えているだけかもしれない。


ワッパはそう考えながら、エルナの反応だけを覚えておくことにした。


「誰が隠しているのかまでは言ってません」


「だったら今は気にしなくてもいいんじゃないかな」


エルナはそう言って、再び地面へ視線を落とした。


けれど、さっきまで自然に動いていた指が少しだけ硬くなっているように見えた。


ワッパはその変化にも意味を足さなかった。



二人はそのあとも薬草を集め続けた。


会話も途切れなかった。


それでも、先ほどまでの穏やかな空気は戻らなかった。


ワッパが何も尋ねなくても、エルナの方がときどきこちらを気にするようになり、そのたびに視線が合っては、どちらからともなく目を逸らした。


しばらくして、ワッパは足を止めた。


「一つだけ聞いても大丈夫ですか?」


エルナも歩みを止めた。


「答えられることなら答えるよ」


「前から少し気になってたんですけど、左腕を気にしていることがありますよね?」


エルナの右手が止まった。


左腕。


袖の下。


そこへ触れかけて、途中で手を離した。


ワッパはその動きを見逃さなかった。


「そんなに気にしてないよ」



――嘘。



あまりにも早かった。



エルナの言葉が終わった直後に、短い声が重なるように響いた。


ワッパは息を止めた。


昨日まで何度も間違ってほしいと願った声が、今度は目の前にいるエルナの言葉をはっきり否定した。


「今の言葉に声が反応しました」


エルナの顔から笑みが消えた。


「声は何て言ってたの?」


ワッパは少しだけ迷った。


言えば何かが変わる。


今までエルナが隠していたものへ、自分が踏み込むことになる。


それでも、ここで隠す理由はなかった。


「今の言葉は嘘だと言いました」


森の中を風が通り抜けた。


葉が揺れた。


遠くで鳥が鳴いた。



エルナは何も言わなかった。



ワッパも急かさなかった。



長い沈黙のあと、エルナが小さく息を吐いた。


「本当に何でもわかるみたいだね、その声」


「何でもわかるわけじゃないと思います」


「でも、私が嘘をついたことはわかったんでしょ?」


「声がそう言っただけなので、できれば確認したいです」


エルナは少し苦しそうに笑った。


「昨日よりずいぶん慎重になったね」


「昨日、実際に失敗しましたから」


「それだけじゃないような気もするけどね」


エルナは左腕へ視線を落とした。



しばらく迷ったあと。


「村へ戻ろう」


そう言った。



ワッパは理由を尋ねなかった。


「わかりました、戻りましょう」


二人は来た道を戻った。



帰り道では、ほとんど会話がなかった。


エルナはいつもより少し速く歩いている。


ワッパは少し後ろからついていった。


左腕に何かを隠している。


そのことだけは、かなり確かなように思える。


それでも、何を隠しているのかはまだわからない。


怪我なのかもしれない。


病気なのかもしれない。


何かの印なのかもしれない。


声がエルナは死ぬと告げたことと、関係している可能性もある。


そこまで考えた瞬間、ワッパの胸が強く締めつけられた。


もし関係しているなら。


もしエルナ自身が、自分の死について何か知っているなら。


それでもワッパは、走って問い詰めるようなことはしなかった。


ただ村まで歩いた。



エルナは自分の家へ戻った。


ワッパもそのあとへ続いた。


扉を閉めると、外から聞こえていた村の生活音が少し遠くなり、窓から入る午後の光だけが静かな室内を照らしていた。


明るい部屋だった。


それなのに、森の中より空気が重く感じられた。


エルナは薬草の入った籠を机へ置いたあと、背中を向けたまましばらく動かなかった。


「誰にも言わないって約束してくれる?」


ようやくエルナが尋ねた。


「内容を聞く前に約束するのは難しいです」


エルナが振り返った。


「そこまで慎重になったんだね」


「誰かが危険になるような秘密なら、黙っているとは約束できません」


エルナは少し驚いたあと、困ったように笑った。


「それなら、誰にも言わないでとは頼まないよ」


「話してくれるんですか?」


「説明するより見せた方が早いと思う」


エルナは左腕へ手を伸ばした。



袖をつかんだ。



けれど、すぐには上げなかった。



「見せるのが怖いんですか?」


ワッパが尋ねると、エルナはしばらく黙ってから小さく頷いた。


「これを見せたら、ワッパまで私を見る目が変わるかもしれないから」


「見てからじゃないと、それはまだわかりません」


「普通は大丈夫だって言ってくれるところじゃない?」


「大丈夫だと約束して、あとで守れなかったら嘘になりますから」


エルナは少しだけ目を丸くした。


それから、ほんのわずかに笑った。


「今のワッパらしい答えだね」


ゆっくりと。


エルナが袖を上げた。



最初に見えたのは、何も変わらない白い肌だった。


けれど、その内側。


手首から肘へ向かって。


黒い線が伸びていた。



ワッパは息を止めた。



それは血管の色には見えなかった。


古い傷の痕にも見えなかった。


細い黒い枝のような線が皮膚の下を這い、いくつにも分かれながら腕の上へ向かって伸びており、その一部は生き物のようにゆっくり脈打っているようにさえ見えた。


「これはいったい何なんですか?」


ワッパがようやく尋ねた。


「本当のところは私にもわからないよ」


エルナは自分の腕を見ながら答えた。


「原因も名前もわからないんですか?」


「どちらもまだ何もわかってないよ」


声は何も言わなかった。


少なくとも、今の言葉を嘘だとは否定しない。


「いつから痕が出始めたんですか?」


「三年くらい前から少しずつ出てきたの」


「最初からこんなに広がっていたんですか?」


「最初は手首に小さな点があるくらいだったけど、そこから少しずつ伸びてきたんだよ」


「最近も広がり続けてるんですか?」


エルナは答えなかった。


ワッパは待った。


少し長い沈黙のあと、エルナが小さく頷いた。


「白い霧が濃くなると、痕も少し広がることがある」


ワッパの背中に冷たいものが走った。


「それをどうして今まで誰にも言わなかったんですか?」


「言ったところで治せる人はいないから」


「理由はそれだけなんですか?」


エルナの目が揺れた。


「本当にそれだけだよ」



――嘘。



今度は、ワッパも声そのものには驚かなかった。


ただ、胸の奥がゆっくり沈んだ。


「また今の言葉に声が反応しました」


エルナは目を閉じた。


「やっぱり、その声は本当に嘘をつかないんだね」


その言葉には、驚きより諦めに近い響きが混じっていた。


ワッパはエルナの表情を見た。


「まだ他にも理由があるんですね?」


エルナはすぐには答えなかった。


外から子供たちが遊ぶ声が聞こえる。


誰かが遠くで笑っている。


いつもと変わらない村の午後。


その日常のすぐ隣で、エルナは黒い痕のある腕を抱えて立っていた。



「母さんにも同じ痕があったの」


エルナが言った。



ワッパは言葉を挟まなかった。



「私と同じように、最初は手首だけだったけど、少しずつ腕へ広がって、そのあと肩まで伸びていった」


ワッパはエルナの腕を見た。


今の痕は肘を少し越えたところまで伸びている。


「お母さんはそのあとどうなったんですか?」


エルナは唇を噛んだ。


答えたくないのだとわかった。


それでもワッパは質問を取り消さなかった。


長い沈黙のあと。


エルナが口を開いた。


「白い霧の中へ入って、そのまま戻ってこなかった」


ワッパの頭の中で、いくつもの出来事がつながりかけた。


白い霧。


黒い痕。


消えた母親。


そして、声が告げたエルナの死。


けれど、つながりそうだからといって、そのまま一つの答えへしてはいけない。


「お母さんが消えたのはいつ頃なんですか?」


「今から二年くらい前だったと思う」


「痕が出てから一年くらいだったんですね」


「だいたいそれくらいだったと思うよ」


エルナは三年前から痕が出ている。


母親より長く痕と一緒に生きている。


ならば同じ経過をたどるとは限らない。


少なくとも、その事実だけで三日後の死と直接結びつけることはできない。


ワッパは少しだけ息を吐いた。


そのとき。


エルナが袖を下ろそうとした。



――まだある。



ワッパはすぐにエルナを見た。


「少しだけ待ってください」


エルナの手が止まった。


「今度は何て言ってるの?」


「まだ何かがあるって言いました」


エルナの表情が固まった。


左腕ではない。


視線がほんの一瞬だけ別の場所へ動いた。


部屋の奥。


棚。


その下に置かれた小さな木箱。


ワッパはその視線を追った。


「もしかして、その木箱ですか?」


「その箱は関係ないよ」



――嘘。



今度の沈黙は、さらに長かった。



エルナは木箱を見た。


次にワッパを見る。


そして、もう一度木箱へ視線を戻した。


「そこまでわかるなら、隠し続けても意味がないね」


エルナは棚へ歩いた。


木箱を取り出す。


机の上へ置く。


蓋に鍵はかかっていなかった。


それでもエルナは、すぐには開けなかった。


指が蓋の上で止まっている。


「これは母さんが残したものなの」


「黒い痕と関係しているんですか?」


「たぶん関係してると思う」


「まだ確かめられてはいないんですね?」


「確かめる方法がわからなかったからね」


エルナは深く息を吸った。



そして蓋を開けた。



中には黒い短剣が入っていた。



刃まで黒い。


光をほとんど反射しない。


金属でできているのかどうかさえ、一目ではわからなかった。


柄には細い溝がいくつも刻まれている。


その模様を見た瞬間、ワッパはエルナの左腕へ視線を戻した。


似ている。


黒い痕の枝分かれと。


短剣に刻まれた溝が。


「これをお母さんが持っていたんですか?」


「森へ入る前まではずっと持ってたよ」


「それなら、どうして今はエルナが持っているんですか?」


「母さんが森へ入る前に、この箱ごと置いていったから」


「何か言葉は残していかなかったんですか?」


エルナは短剣を見つめた。


「これを持って森へ来るなって言われた」


ワッパは眉を寄せた。


「それなら、どうして今まで捨てなかったんですか?」


「どうしても捨てることができなかったから」


今度は声が反応しなかった。


その答えは本当なのだろう。


エルナは黒い短剣へ手を伸ばした。


指先が柄へ触れた。



その瞬間。



黒い痕が脈打った。



エルナが息を呑んだ。



ワッパも見た。



見間違いではない。


袖からわずかに覗いていた黒い線が、短剣へ反応するように一瞬だけ濃くなり、皮膚の下を何かが走ったように見えた。


「今の反応はいつも起きるんですか?」


「最近は触ると反応することがある」


「最近って、どのくらい前からですか?」


「白い霧が増え始めた頃からだと思う」


ワッパは短剣へ触れなかった。


まず、自分が見たものだけを整理する。


エルナの腕には黒い痕がある。


母親にも同じ痕があった。


母親は白い霧の中へ入り、戻らなかった。


母親が残した黒い短剣には、痕と似た模様がある。


短剣へ触れると、痕が反応する。


白い霧が濃くなると、痕が広がることがある。


そこまでは確かめられた。


それより先は、まだわからない。



――森。



短い声が響いた。



ワッパは顔を上げた。


「今度は森って言いました」


エルナの顔色が変わった。


「やっぱり森と関係してるんだ」


「まだそこまでは決められません」


「でも母さんも森へ入ったんだよ」


「だからこそ、同じことが起きると決めない方がいいです」


ワッパは自分でも驚くほど強く言っていた。


エルナが母親と同じ道を歩く。


その考えだけは、受け入れたくなかった。


「お母さんと同じ痕があるからって、同じことが起きるとは限りません」


「でも声は、私が死ぬって言ったんでしょ?」


ワッパの言葉が止まった。



部屋の空気まで止まったように感じた。



エルナはまっすぐワッパを見ていた。



「そのことを知ってたんですか?」


「ワッパがずっと隠そうとしてたから、何となくわかってた」


「三日ってところまで気づいてたんですか?」


「そこまでは何も知らなかったよ」


ワッパは拳を握った。


言うべきか迷った。


けれど、ここまでエルナの秘密を聞いたあとで、自分だけ隠し続けることはできなかった。


「声は三日って言いました」


エルナは目を閉じた。


「昨日から数えて三日くらいなの?」


「たぶんそういう意味だと思います」


「だったら、あまり時間が残ってないね」


「そうやって決めつけないでください」


ワッパの声が思っていたより強く響いた。


エルナが目を開ける。


「まだ何が起きるのか、何もわかってません」


「声は嘘をつかないんでしょ?」


「今まで確かめられた範囲ではそうです」


「それなら私は死ぬんじゃないの?」


「死ぬことと、何もできないことは同じじゃありません」


ワッパは昨夜の声を思い出した。



――お前には、救えない。



胸の奥が痛んだ。


それでも言葉を止めなかった。


「声が正しかったとしても、その先まで全部決まってるとは限りません」


「ワッパには救えないって言われたんじゃないの?」


その言葉に、ワッパは息を止めた。


「そこまで気づいていたんですか?」


「昨日のワッパを見てれば、もっと嫌なことを言われたんだろうなってわかるよ」


エルナは少しだけ笑った。


その笑顔が、ワッパにはひどく怖かった。


どこか諦めている人間の笑顔に見えたからだった。


「だから森なんて危険じゃないよ」


エルナが静かに言った。


「少なくとも私にとっては、もう怖がるような場所じゃないから」



――嘘。



ワッパは目を見開いた。



「今の言葉も嘘だそうです」


エルナの笑顔が消えた。



それまで静かだった部屋の空気が、一気に重くなったように感じられた。



「エルナは森が怖いんですね?」


「本当はずっと怖かったよ」


今度はすぐに答えた。


「母さんが消えた場所だから、近づくたびに何か起きるんじゃないかって思ってた」


「それなのに行こうとしてるんですか?」


エルナは黒い短剣を見た。


「怖いからって、何もしないで待っていたら、母さんと同じになるかもしれないから」


「森へ行けば助かる保証もありません」


「それでも調べてみたい」


ワッパはエルナを見た。


さっきまで感じていた諦めとは違うものが、その目に少しずつ戻り始めていた。


怖がっている。


死ぬかもしれないと言われている。


それでも、何もしないまま待つことだけは選びたくない。


「私はずっと、母さんと同じことが自分にも起きるんだと思ってた」


エルナは黒い痕のある左腕を押さえた。


「痕が広がるたびに怖かったし、白い霧を見るたびに次は自分なんじゃないかって思ってた」


ワッパは黙って聞いた。


「でもワッパが来て、声が聞こえるって言って、その声が私の嘘まで見抜いて、三日後に私が死ぬって言った」


エルナは一度だけ大きく息を吸った。



「だったら、何もしないで待ってるだけなんて嫌だよ」



その言葉には、もう諦めた響きはなかった。



「母さんに何が起きたのか調べたい」


エルナは黒い短剣へ視線を落とした。


「この短剣が何なのかも知りたい」


次に左腕を見る。


「この痕が何なのかも知りたい」


そして。


エルナはワッパを見た。



「私が死ぬっていうなら、その前に自分で確かめたい」



ワッパの胸の奥で、何かが変わった。



エルナを守らなければならないと思っていた。


声がそう言ったから。


エルナが死ぬと言われたから。


自分が救わなければならないと思っていた。


けれど、目の前にいるエルナは、ただ守られるのを待っている人間ではなかった。


怖がっている。


秘密を隠していた。


嘘もついた。


それでも、自分で選ぼうとしている。



「一人では絶対に行かせません」


ワッパが言った。


エルナが少し驚いた。


「ワッパも一緒に来るの?」


「俺も一緒に確かめたいです」


「声が行けって言ったから?」


「それが理由ではありません」


ワッパは首を振った。


「俺が一緒に行くって決めました」


エルナはしばらくワッパを見ていた。


そして、ゆっくり笑った。


今度の笑顔には、先ほどの諦めたような影はなかった。


「それなら一緒に調べに行こう」


「ただし、危険だとわかったら戻ります」


「そこはそのとき相談して決めようよ」


「今のうちに決めておいた方が安全です」


「本当に昨日より慎重になったね」


「昨日は地面ごと落ちかけましたからね」


エルナが少し笑った。


その笑い声を聞いて、ワッパもようやく息を吐くことができた。



しかし。


短い声は終わっていなかった。



――東。



ワッパは顔を上げた。


「今度は東って言いました」


「森の東側へ行けって意味なのかな?」


「そこまではまだわかりません」


エルナは少し考えたあと、黒い短剣を木箱へ戻した。


「だったら、まず村長に聞いてみよう」


「声だけを理由に東へ行かないんですか?」


「ワッパが言ったんでしょ」


エルナは木箱の蓋を閉じた。


「確かめられることは確かめた方がいいって」


ワッパは少しだけ笑った。


「確かに俺が言いましたね」


「だったら明日、森の東側について村長に聞いてみよう」


「黒い痕のことも話すつもりですか?」


エルナは少し迷った。


以前なら、ここで隠すと言ったかもしれない。


けれど今回は違った。


「全部話すのはまだ怖いけど、必要なことは話してみるよ」


ワッパは静かに頷いた。



窓の外では、夕方の光が村を染め始めていた。


朝から変わらないはずの村なのに、ワッパにはまったく別の場所に見えた。


エルナには秘密があった。


黒い痕。


消えた母親。


黒い短剣。


白い霧。


そして森。


そのどれも、まだ答えにはなっていない。


けれど、知らなかったものが一つずつ見えるようになってきた。



ワッパはふと思った。


秘密というものは、隠されているから怖いのではないのかもしれない。


知ったあとに何を選ばなければならないのかわからないから、怖いのかもしれない。


エルナの秘密を知った今でも、声が告げた未来は消えていない。


三日後。


エルナは死ぬ。


自分には救えない。


その言葉は変わらず胸の奥に残っている。


それでも、朝とは一つだけ違っていた。


エルナは何も知らないまま死を待っている人間ではない。


ワッパだけが未来を知っているわけでもない。


二人とも怖がっている。


二人とも答えを知らない。


それでも、明日になれば一緒に確かめることができる。



エルナが木箱を棚へ戻したあと、少しだけ迷うように振り返った。


「ワッパに一つ聞いてもいい?」


「答えられることなら聞いてください」


「私の痕を見ても、見る目は変わらなかった?」


ワッパは少し考えた。


簡単に変わらなかったと言うこともできた。


けれど、それでは正確ではない。


「見る目は少し変わりました」


エルナの表情がわずかに固くなった。


ワッパは続けた。


「思っていたより、ずっと怖いものを一人で抱えてたんだってわかりました」


エルナは何も言わなかった。


「だから、前よりちゃんとエルナのことを見ないといけないと思ってます」


「それって良い意味で言ってるの?」


「少なくとも俺は、悪い意味で言ったつもりはありません」


エルナはしばらくワッパを見つめたあと、少しだけ笑った。


「それなら今は、その意味で受け取っておくよ」


外から夕食を知らせる鐘の音が聞こえてきた。


二人は家を出る準備を始めた。



扉へ向かう途中、ワッパは一度だけ棚の木箱を振り返った。


黒い短剣はもう見えない。


エルナの黒い痕も袖の下へ隠れている。


けれど、もう知らなかった頃には戻れない。


そのことが怖くないわけではなかった。


むしろ知ったからこそ、以前より怖くなったものもある。


それでもワッパは、秘密を知らなかった朝へ戻りたいとは思わなかった。



扉が開いた。



夕方の光が室内へ差し込んだ。



エルナが先に外へ出た。



ワッパもそのあとへ続いた。



明日になれば、二人は森について調べ始める。


白い霧について。


黒い短剣について。


そして、エルナの身体を這う黒い痕について。


まだ二人は、そのすべてが森の奥で眠っている同じ異変へつながっていることを知らない。


ただ一つ確かなのは、エルナがもう秘密を一人で抱えているわけではないということだった。



ワッパは隣を歩くエルナを見た。


声が何を言ったとしても。


未来がどうなるとしても。


明日になれば、二人で確かめることができる。


その事実だけを胸に残しながら、ワッパは夕暮れの村へ向かって歩き続けた。

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