第四章 嘘つき
白い霧が村の外れへ漂い始めたあの夜から、ワッパは何度目を閉じても眠りへ落ちることができず、集会所の硬い寝台に横たわったまま天井を見上げながら、頭の中に残っている言葉を何度も振り払おうとしていた。
声が何度も現実と一致していることは、もう認めざるを得なかった。
伏せろと言われた直後には森喰らいが頭上を飛び越え、左へ進めと言われた直後には右側の道へ怪物が現れ、窓を見ろと言われたことで狩人たちの灯りを見つけることもできた。
それでもワッパは、声が正しいと認めることそのものを恐れていた。
一度でも正しいと認めてしまえば、これまで自分を助けた言葉だけではなく、エルナが死ぬという最も信じたくない言葉まで同じ重さで受け止めなければならないように思えたからだった。
「頼むから、あれだけは嘘であってくれよ……」
ワッパは誰もいない天井へ向かって呟いた。
返事はなかった。
声は必要なときだけ現れ、こちらが答えを求めても都合よく説明してくれる存在ではないらしい。
その沈黙に安心することもできず、ワッパは結局ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
翌朝の村は、昨夜までの不安が嘘だったように穏やかだった。
修理のために木材を運ぶ村人たちの声が聞こえ、子どもたちは壊れていない場所を選んで遊び、集会所の近くでは昨日と同じように朝食の匂いが漂っていた。
エルナも普段と変わらない様子で現れた。
「ずいぶん眠そうな顔をしてるけど、昨日はちゃんと眠れたの?」
「眠れたように見えるなら、相当うまく誤魔化せてるな」
「それなら全然誤魔化せてないから安心していいよ」
エルナは笑った。
その笑顔を見るだけで、ワッパはまた胸の奥へ嫌な感覚が広がるのを感じた。
三日という期限が残っている。
しかし、その三日がいつから数えられているのか正確にはわからない。
昨夜からなのか。
声を聞いた瞬間からなのか。
それとも別の基準があるのか。
わからないことばかりだった。
だからこそ、一度くらい声が間違っているところを確認したかった。
もし一つでも明確に外れれば、エルナが死ぬという言葉も絶対ではないと考えることができる。
そんな気持ちが、少しずつワッパの中で強くなっていた。
朝食のあと、エルナは薬草を集めるため森へ行くことになった。
「昨日あれだけのことがあったのに、本当に森へ入るつもりなのか?」
「村の近くだけだし、怪我人に使う薬草が足りなくなってるから仕方ないよ」
「それなら俺も一緒に行く」
「ワッパは森の植物をほとんど知らないんじゃなかった?」
「荷物くらいなら持てるし、知らないなら覚えればいいだろ」
「それなら助手として働いてもらおうかな」
二人は村の外へ出て、昨日より明るい森の中へ入った。
白い霧は見えない。
鳥の鳴き声も聞こえる。
木々の間から差し込む光は暖かく、昨夜の森喰らいの襲撃が同じ場所で起きたとは思えないほど静かだった。
エルナは歩きながら何種類もの植物を説明してくれた。
傷口に使う葉。
熱を下げる根。
煮ると腹痛を和らげる草。
ワッパはほとんど覚えられなかったが、それでもエルナが一つずつ楽しそうに説明する声を聞いている時間は嫌いではなかった。
「その紫色の実は食べられるのか?」
「食べたらしばらくお腹が痛くなると思うよ」
「それなら最初から毒だって言ってくれよ」
「毒って呼ぶほど危なくないから、ちょっと困るくらいかな」
「ちょっと困るために食べる必要はないだろ」
エルナが笑った。
「ワッパは今みたいな顔をしてる方がいいね」
「今はどんな顔をしてたんだ?」
「少なくとも朝みたいに、世界の終わりを考えてるような顔じゃなかったよ」
図星だった。
ワッパは少しだけ苦笑した。
しばらく歩いたところで、森の道が二つへ分かれていた。
右側は比較的明るく、左側は木々が密集している。
エルナは迷わず左側へ進もうとした。
その瞬間、短い声が響いた。
――行け。
ワッパは足を止めた。
声は方向を言わなかった。
ただ行けと告げただけだった。
「どうかしたの?」
「今、声が聞こえたんだ」
「何て言ったの?」
「行けって言っただけだから、どこへ行けって意味なのかはわからない」
エルナは少し考えた。
「私はもともと左へ行くつもりだったけど、それなら声が左を選んだって決めない方がよさそうだね」
ワッパは頷いた。
その考え方は自分がしようとしていたものより慎重だった。
二人は予定通り左側へ進んだ。
森の奥へ入るにつれて、鳥の声が少しずつ減っていった。
最初は気のせいだと思った。
しかし歩き続けるうちに、本当に周囲が静かになっていることへ気づいた。
風は吹いている。
葉も揺れている。
それなのに、小動物の気配だけが不自然なほど少ない。
ワッパが周囲を確認していると、短い声が響いた。
――戻れ。
ワッパはその場で立ち止まった。
「今度は戻れって言われた」
エルナも周囲を見回した。
「何か危ないものが見える?」
「今のところは何も見えないな」
白い霧もない。
森喰らいの足跡も見当たらない。
変わった匂いもしない。
ただ静かなだけだった。
「少し戻ってみる?」
エルナが尋ねた。
本来なら、それが最も安全な判断だったかもしれない。
それでもワッパの中では、昨夜からずっと膨らみ続けていた気持ちが勝った。
声が間違っているところを見たい。
ここで戻らず進み、それでも何も起こらなければ、初めて声が外れたと確認できる。
そうすればエルナが死ぬという言葉も、絶対ではないと考えることができる。
「もう少しだけ進んでみよう」
「でも声は戻れって言ったんでしょ?」
「何も見えないまま戻ったら、本当に危険だったのか確認できないだろ」
エルナは少し不安そうな顔をした。
「確認するために危ない方へ行くのは、少し変じゃない?」
「危険があるって決まったわけじゃない」
ワッパはそう答え、自分でもその言葉が少し強引だと感じた。
それでも進むことを選んだ。
――戻れ。
二度目の声が響いた。
ワッパは無視した。
今度こそ間違っていてほしかった。
さらに森を進むと、木々の向こうが少し明るくなり、小さな崖のような場所へ出た。
崖の縁には青い花がまとまって咲いており、エルナは目を輝かせた。
「この花なら傷薬に使えるから、少しだけ取っていこう」
周囲を見ても森喰らいはいない。
白い霧もない。
危険なものは何も見えない。
ワッパの胸へ、ほんの少しだけ安堵が広がった。
「やっぱり今回は何も起きないんじゃないか?」
自分へ言い聞かせるように呟いた。
――止まれ。
声が響いた。
ワッパは足元を見た。
普通の土に見える。
草も生えている。
崖まではまだ少し距離がある。
「今度は何て言ったの?」
「止まれって言われた」
エルナも地面を見た。
「それなら一度ここで止まって、何かないか確認した方がいいと思うよ」
「でも見える範囲には何もないだろ」
「見えないから確認するんじゃないの?」
その言葉へすぐ返事ができなかった。
ワッパは崖の近くまで視線を動かした。
本当に危険は見えない。
だからこそ、今回は声が間違っていると証明できる気がした。
「少し前まで行って、地面を確認してみる」
「そこまでしなくてもいいと思うんだけどな」
エルナが止めるより先に、ワッパは一歩踏み出した。
その瞬間、足元から乾いた音が聞こえた。
土の表面へ細い亀裂が走った。
次の瞬間には地面全体が崩れた。
「ワッパ、すぐにこっちへ戻って!」
エルナが腕を掴んだ。
しかし崩れた土と一緒にワッパの身体が斜面へ滑り、引っ張られたエルナまで足を取られた。
二人の身体が崖の方向へ滑っていく。
ワッパは地面へ指を立てたが、柔らかい土しか掴めない。
目の前には崩れかけた土と岩ばかりで、助かるために使えそうなものはすぐには見つからなかった。
――右。
声が響いた。
ワッパはすぐ右側へ顔を向けた。
崩れた土の中から、太い木の根が一本だけ露出していた。
「エルナ、右側にある木の根を掴め!」
エルナが身体を捻り、必死に右手を伸ばした。
指先が根へ届いた。
しかしワッパの身体まで支えるには力が足りない。
ワッパはエルナの背中を押した。
「先に上まで身体を引き上げろ!」
「ワッパまで落ちたら意味がないよ!」
「いいから先に行ってくれ!」
エルナは木の根を両手で掴み、足場を探しながら少しずつ身体を上へ動かした。
ワッパの身体はさらに下へ滑った。
――右。
二度目の声が響いた。
ワッパは同じ木の根から少し下へ伸びている細い根を見つけ、身体を捻って片手で掴んだ。
根は大きくしなったが切れなかった。
エルナが上へ登りきり、今度は腹ばいになってワッパへ手を伸ばした。
「絶対に手を離さないから、こっちを掴んで!」
ワッパは木の根から片手を離し、エルナの腕を掴んだ。
二人で必死に身体を引き上げ、最後には地面を転がるようにして崖から離れた。
しばらく誰も話せなかった。
息が整わない。
手足が震えている。
ほんの少し前まで、何も危険がないと思っていた。
しかし実際には、草と薄い土の下が大きく空洞になっていた。
もし最初の戻れという声を聞いたところで引き返していれば、ここまで来ることはなかった。
止まれという言葉へ従っていれば、崩れた地面へ足を踏み出すこともなかった。
声は間違っていなかった。
少なくとも今回も。
ワッパは地面へ座ったまま、両手で顔を覆った。
「本当にごめん……」
エルナはまだ息を整えながら、ワッパの隣へ座った。
「どうしてそこまで声が間違ってるって証明したかったの?」
ワッパは顔を上げた。
隠しても仕方がないと思った。
「声が間違ってるって証明できたら、エルナが死ぬって話も間違ってることになると思ったんだ」
エルナの表情が変わった。
「私が死ぬって言われたの?」
ワッパはそこで初めて、まだエルナ本人へその内容を話していなかったことに気づいた。
しかしもう戻れなかった。
「昨日の夜に聞こえたんだ」
エルナはすぐには返事をしなかった。
ワッパは続けた。
「だから声が一度でも間違えば、全部が絶対じゃないって思える気がしたんだ」
言葉にしながら、ようやく自分が何をしていたのか理解できた。
声を確かめようとしていたのではない。
最初から嘘だという答えを決め、その答えに合う結果だけを探そうとしていた。
「俺は確かめてるつもりだったけど、本当は違ったんだな」
エルナはしばらく崩れた地面を見ていた。
「声が正しかったからって、これから先のことを全部そのまま受け入れなくてもいいと思うよ」
「でも今まで一度も間違ってない」
「それなら今まで助けてもらったことまで、無理に間違いだったことにしなくてもいいんじゃない?」
ワッパは黙って聞いた。
「声が本当のことを言うかもしれないのと、ワッパがその通りにしないといけないのは別の話だと思う」
その言葉は、ワッパがずっと混同していたものを分けるように感じられた。
信じるか。
信じないか。
それだけではない。
聞いたあとで確認することができる。
そして最後にどうするかは、自分で決められる。
「次からは、声が何か言ったら一度止まって確かめるよ」
「それなら私も一緒に確認するよ」
「今度は本当に気をつける」
「今度も同じことしたら、私が先に止めるから安心してね」
「それは安心していい話なのか?」
エルナが笑った。
ワッパも少しだけ笑った。
村へ戻る途中、ワッパは何度も今日の出来事を頭の中で整理した。
戻れ。
止まれ。
右。
どれも現実と矛盾しなかった。
それでも、今後も必ず正しいと決めることはしない。
聞こえたら立ち止まる。
周囲を見る。
確認できるものを探す。
それから行動する。
以前の世界で誰かに教えられたような気がする方法と、少し似ているようにも思えた。
夜になり、エルナが集会所を離れたあと、ワッパは一人で声へ話しかけた。
「頼むから一度だけ、俺に嘘をついてくれないか」
返事はなかった。
「エルナが死ぬって言ったのは、間違いだったって言ってくれ」
長い沈黙のあと。
短い声が響いた。
――嘘ではない。
ワッパは拳を握った。
「それなら、どうすればエルナを助けられるんだ?」
返事はすぐには来なかった。
――エルナは死ぬ。
「そんなことはもう聞いてるんだよ!」
ワッパは思わず声を荒げた。
「俺が聞いてるのは、どうすれば助けられるかってことなんだ!」
――無理だ。
ワッパは息を止めた。
胸の奥が冷たくなった。
――お前には、救えない。
その言葉を聞いても、ワッパはすぐに座り込むことはしなかった。
むしろゆっくり立ち上がった。
声が今まで一度も確認できる範囲で嘘をついていないことは認める。
エルナが死ぬという未来も、本当に起きるのかもしれない。
それでも、自分には救えないと言われたからといって、何も試さず諦める理由にはならなかった。
「だったら、その未来を俺が変えてやるよ」
声は何も答えなかった。
ワッパは沈黙に勝手な意味をつけなかった。
肯定されたとも思わない。
否定されたとも思わない。
ただ返事がなかったという事実だけを受け止めた。
これから声を無条件に信じるつもりはない。
だからといって、嘘だと決めつけて危険へ突っ込むこともしない。
聞こえた情報を確認し、現実を見て、そのうえで自分がどうするかを決める。
ワッパは集会所の窓から、エルナが帰っていった家の方向を見つめた。
声が何を知っていても。
未来がどれほど確かなものでも。
まだ確認していない可能性まで、自分から捨てるつもりはなかった。




