第三章 俺にしか聞こえない
朝になって集会所の小さな窓から白い光が差し込んでも、ワッパはほとんど眠ることができないまま、隣で眠っているエルナの横顔を何度も確認していた。
昨夜、頭の中へ響いた言葉が、眠ろうとするたびに何度も思い出されたからだった。
エルナは死ぬ。
そして残された時間は三日。
声が本当に未来を知っているのか、それとも自分の頭が勝手に作り出した言葉なのかはわからないが、昨日だけでも伏せろという言葉に従ったことで森喰らいの爪を避け、左へ進んだことで怪物との正面衝突を避け、窓を見るよう言われたことで戻ってきた狩人たちの灯りにも気づくことができた。
偶然だと考えることはできる。
一度だけなら簡単だった。
二度続いても、まだ偶然だと言い聞かせることはできるかもしれない。
しかし何度も現実と一致した出来事をすべて偶然という言葉だけで片づけることにも、少しずつ無理が生まれ始めていた。
それでもワッパは、エルナが死ぬという言葉まで正しいと認めることだけはできなかった。
一度でも認めてしまえば、今こうして目の前で眠っている少女が、あと三日もしないうちに死ぬ未来まで受け入れなければならないように思えた。
ワッパはエルナの胸元を見た。
ゆっくり上下している。
呼吸している。
少なくとも、今この瞬間のエルナは間違いなく生きていた。
「ちゃんと息をしてるなら、今のところは大丈夫そうだな……」
思わず呟いた直後、エルナの目がゆっくり開いた。
「朝から人の呼吸を確認してるなんて、ずいぶん変わった趣味を持ってるんだね」
「起きてたなら先に言ってくれよ」
「さっき目が覚めたばかりだけど、ワッパがすごく真剣な顔で見てるから声をかけにくかったの」
エルナは身体を起こしながら大きく伸びをした。
昨夜、一度死ぬと言われた人間には到底見えなかった。
顔色も悪くない。
怪我をしている様子もない。
「昨日の戦いでどこか怪我してないか?」
「小さい擦り傷くらいならあるけど、心配するような怪我はしてないよ」
「身体の調子がおかしいところもないのか?」
「朝から質問が多すぎるけど、本当にどうしたの?」
「昨日はいろいろあったから、念のため確認したかっただけだよ」
ワッパはそれ以上追及しなかった。
エルナが死ぬという声を聞いたことは、まだ本人へ伝えられなかった。
どう説明すればいいのかわからなかったし、そもそも自分自身がその声を信じているのかさえ決められていなかった。
朝食を終えて集会所の外へ出ると、村では昨夜の襲撃によって壊れた柵や家屋の修理が始まっていた。
何人もの男たちが折れた木材を運び、女性たちは怪我人の手当てや食事の準備を続け、子どもたちも邪魔にならない範囲で小さな木片を集めている。
昨日まで何も知らなかったワッパには、それがこの村で普通に行われている作業なのか、それとも異常な襲撃のあとだから行われている特別な作業なのか判断できなかった。
壊れた柵を直していた年配の男へ尋ねると、男は作業の手を止めながら森の方角を見た。
「森喰らいが一頭だけ近づくことなら以前にもあったが、あれだけの数が白い霧と一緒に出てくることは滅多にないんだ」
「それなら昨日の襲撃は、やっぱり普通じゃなかったんですね」
「最近は白い霧そのものが増えているし、森の動物まで妙な動きをするようになったから、何かが変わってきているのかもしれんな」
男はそれ以上わからないようだった。
ワッパは修理を手伝いながら、何度も森の方角を見た。
昨夜ほどではないものの、木々の奥にはまだ薄い白い霧が残っている。
その霧を見ているうちに、短い声が頭の中へ響いた。
――見るな。
ワッパは反射的に視線を逸らしかけた。
しかし途中で動きを止めた。
昨日は声へ言われるまま行動した。
結果として助かった。
それでも、この声が何なのか確認するためには、言われたことを何でもそのまま実行するだけでは何もわからない。
ワッパはもう一度森へ視線を戻した。
白い霧の間を注意深く見ていく。
最初は何も見えなかった。
木。
草。
霧。
揺れる枝。
その程度しか見えない。
やはり何もないのだと思い始めたとき、木々のさらに奥へ白いものが立っていることに気づいた。
霧より少し濃い。
人間のように見える。
細長い身体らしきものがあり、その上には頭のような丸い形まであった。
誰かが森の中から村を見ている。
そう思った瞬間、ワッパの背中へ冷たい感覚が走った。
「森の中に誰かいるのか……?」
目を凝らした。
白い人影は動かない。
顔も見えない。
距離が遠すぎる。
ワッパが一度だけ瞬きをした。
白い影は消えていた。
「今のは本当に人だったのか?」
誰かが走り去った様子はない。
霧の形が偶然人間のように見えただけなのかもしれない。
木の幹へ白い光が当たっていた可能性もある。
それなのに、声は見るなと言った。
ワッパは森へ近づこうとはせず、その場から周囲を確認した。
「さっきから森を見てるけど、何か見つけたの?」
後ろからエルナに声をかけられた。
「人みたいなものが立ってた気がしたんだ」
エルナも森へ目を向けた。
「今は誰も見えないみたいだけど、村の人だったのかな?」
「俺にもよくわからないんだよ」
ワッパは正直に答えた。
見たものが人間だったのか。
ただの霧だったのか。
今の段階では判断できない。
昨日までなら、見たと思った瞬間に人間だったと決めつけていたかもしれない。
なぜそう感じたのかはわからなかったが、決めつけることへの恐怖だけは身体のどこかへ残っていた。
昼になると、エルナが簡単な食事を持ってきたため、二人は集会所の裏にある木箱へ並んで座った。
ワッパは黒いパンを食べながら、昨夜から何度も浮かんでいる言葉について考えていた。
統合失調症。
言葉の意味はまだ完全には戻っていない。
それでも、自分に関係する病名だったことだけは少しずつ確信へ変わり始めていた。
白い診察室。
白衣を着た男。
そして質問。
『最近も、声は聞こえていますか?』
以前の自分にも声が聞こえていた。
そこまでは思い出せる。
しかし、どんな声だったのかがわからない。
今聞こえている声と同じだったのかも思い出せない。
「また難しい顔をしてるけど、何か思い出したの?」
エルナがパンを食べながら尋ねた。
「少しだけ記憶が戻ってきた気がするんだ」
「それなら良かったじゃない」
「良かったのかどうか、まだ自分でもわからないけどな」
「嫌な記憶だったの?」
「病気だったのかもしれない」
エルナの手が止まった。
「身体の病気だったの?」
「そこまでは思い出せないけど、統合失調症っていう言葉だけは思い出したんだ」
エルナは聞いたことがないらしく、首を傾げた。
「その病気がどんなものなのかは覚えてないの?」
「意味はまだはっきりしないけど、たぶん俺自身に関係してる言葉だと思う」
ワッパはそこで話を止めた。
声のことまで言うべきか迷った。
昨日から自分を助けている声。
誰にも聞こえていないらしい声。
以前の自分も聞いていたかもしれない声。
すべてを話してしまえば、エルナにどう思われるのかわからない。
「ワッパは昨日から、誰もいないところへ何度か話しかけてるよね」
エルナの言葉に、ワッパは身体を強張らせた。
「そんなに何度もやってたのか?」
「何回か見ただけだけど、昨日も独り言だって言ってたでしょ」
ワッパはすぐに答えられなかった。
エルナは責めるような顔をしていない。
ただ疑問に思っているだけに見える。
「本当は何か聞こえてるんじゃないの?」
その質問を聞いた瞬間、胸の奥から強い不安が湧き上がった。
言うな。
知られるな。
隠した方がいい。
そんな考えが次々に浮かんだ。
同時に、頭の中へ短い声が響いた。
――言うな。
ワッパは息を止めた。
声まで隠すよう告げている。
「今も何か聞こえたの?」
エルナはワッパの表情だけで気づいたらしい。
ワッパは答えようとして口を開いたが、言葉が出なかった。
声は言うなと告げた。
これまで声に従ったことで何度も助かった。
それなら今回も従うべきなのかもしれない。
しかし、誰にも言うなという言葉は危険から身体を守る指示とは違う。
なぜ隠す必要があるのか説明されていない。
ワッパは昨日思い出した白衣の男の言葉を探した。
記憶の奥から、かすかな声が戻ってきた。
『聞こえてくる声を、すべて事実だと思わないでください』
それなら。
今聞こえた言うなという声も、従う前に考えた方がいい。
ワッパはゆっくり息を吐いた。
「実は昨日から、俺にしか聞こえてないみたいな声があるんだ」
口にした瞬間、胸が激しく鳴った。
エルナは何も言わなかった。
ワッパは続けた。
「森喰らいが飛んできたときに伏せろって言われて、分かれ道では左へ行けって言われたんだ」
「昨日、急に伏せたり左へ行こうとしたのは、その声が理由だったの?」
「たぶんそうだと思う」
「たぶんっていうのはどういう意味なの?」
「声が聞こえたこと自体は覚えてるけど、それが本当に危険を知ってたのか、それとも偶然だったのかはまだわからないんだ」
エルナは少し考え込んだ。
「窓を見てたときも同じ声だったの?」
「窓を見ろって言われて、そのあと灯りって言われたから、狩人たちが戻ってくるのに気づいた」
話せば話すほど、自分の言っていることが奇妙に聞こえた。
誰もいないのに声が聞こえる。
その声が危険を教える。
そんな話を初対面に近い相手から聞かされたら、普通は距離を取るのではないか。
ワッパはエルナの表情を確認した。
驚いてはいる。
しかし恐れているようには見えなかった。
「気持ち悪いとか思わないのか?」
「どうして気持ち悪いと思うの?」
「誰も話してないのに、自分にだけ声が聞こえてるんだぞ」
「それは私には聞こえないから不思議だけど、昨日までのワッパと今日のワッパが急に別人になったわけじゃないでしょ」
エルナは少し笑った。
「声が聞こえたからって、それでワッパじゃなくなるわけじゃないでしょ」
ワッパは何も答えられなかった。
胸の奥へ張りついていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
自分でも理由はわからない。
ただ、その言葉を以前にも誰かから言ってほしかったような気がした。
白い診察室の記憶が戻ってきた。
白衣の男が椅子へ座っている。
向かい側には以前の自分がいた。
『聞こえてくる声を、すべて事実だと思わないでください』
医者は静かな声で説明していた。
『声が聞こえたときは、その内容だけで判断せず、実際に何が起きているのかを確認してください』
過去のワッパは不安そうに尋ねた。
『もし声が本当のことを言っていたら、どうすればいいんですか?』
医者の返事を思い出そうとした。
しかし、その部分だけがまた霧の中へ隠れてしまった。
ワッパは目を開けた。
「やっぱり前の俺も、声を聞いてたみたいだ」
「今の声と同じだったの?」
「そこまでは思い出せないんだ」
「それなら、同じだって決めない方がいいんじゃない?」
あまりにも簡単に言われたため、ワッパはエルナを見た。
「そんな考え方でいいのか?」
「わからないなら、まだわからないってことでいいんじゃないの?」
その言葉は、妙に胸へ残った。
今すぐ答えを決める必要はない。
声が病気なのか。
この世界に本当に存在する何かなのか。
以前の声と同じなのか。
違うのか。
今は何もわからない。
それなら、わからないまま確認していけばいい。
夕方になると、村の修理はかなり進んでいた。
壊れていた柵の多くが新しい木材へ交換され、昨夜森喰らいに破壊された家の壁にも板が打ちつけられている。
ワッパも作業を手伝いながら、何度か頭の中へ意識を向けた。
声は聞こえなかった。
こちらから呼びかけても答えない。
必要なときだけ突然現れる。
その基準もわからない。
日が沈み始めたころ、森の外れに再び薄い白い霧が現れた。
村人たちはすぐに警戒したが、昨夜のような森喰らいの姿は見えない。
ワッパも柵の近くから霧を観察した。
そのとき短い声が響いた。
――遅い。
ワッパは周囲を見た。
何が遅いのかわからない。
白い霧が出る時間なのか。
自分たちの行動なのか。
誰かが何かに遅れたのか。
説明はない。
「今の声は何て言ったの?」
隣にいたエルナが尋ねた。
ワッパは少し驚いた。
昨日までなら隠していた。
今は聞かれても、以前ほど怖くない。
「遅いって言っただけなんだ」
「何が遅いのかは教えてくれないの?」
「相変わらず説明する気はないみたいだな」
「それなら今は、そのまま覚えておけばいいんじゃない?」
ワッパは頷いた。
声が正しいのか。
声が何者なのか。
なぜ自分にしか聞こえないのか。
何一つ答えは出ていない。
ただ、少なくとも一つだけ確認できたことがあった。
エルナには聞こえていない。
村人たちも反応していない。
昨日から何度も響いているその声は、今のところワッパにしか聞こえていなかった。
そして以前の世界でも、自分は同じように誰にも聞こえない声を聞いていた可能性がある。
それなら問題は自分の中にあるのかもしれない。
しかし、もし本当に自分の病気だけが原因なら、どうして声は森喰らいが飛びかかってくる瞬間を知っていたのか。
どうして右側の道へ怪物が現れることを知っていたのか。
どうして窓の外へ狩人たちの灯りが見えることを知っていたのか。
自分の病気だけでは説明できないものが、この世界には存在しているのかもしれない。
ワッパは白い霧の向こうへ広がる森を見つめた。
自分だけがおかしいと決めるには、起きている出来事が現実と一致しすぎている。
だからといって、この世界がおかしいと決めるにも、まだ何も知らなすぎる。
ワッパにできることは、聞こえた声と実際に起きたことを一つずつ確かめることだけだった。
その夜、ワッパは初めて声が聞こえるという事実を誰かへ話した。
そして同時に、自分がこの世界で最初に解かなければならない問題が、失われた記憶だけではないことにも気づき始めていた。
俺にしか聞こえない声は、いったい何なのか。
その答えを探すことが、ワッパ自身の忘れた過去へ近づくことにもつながっているような気がしていた。




