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車両と車両の連結部から更に先へ進み、乗客が疎らな座席の間に立ち止まって、ドアの方を振り返ってみた。
大丈夫。あの奇妙なストーカーおばちゃんは、こちらの車両へ追って来ていない。ひとまず胸を撫で下ろし、僕は空いている席に座って目を閉じる。
今度こそ、妻の楽しい夢を見よう。
家に帰れば、どんなに遅くても待っていてくれるあの温もりを、一足早く夢の中で味わうんだ。
そう思うだけで、いつもは自ずと心が安らぐ。
でも、この時はすぐ眠れなかった。又、頬へジトッとした視線を感じ、うんざりしながら、目を開くと……
あぁ、今度は真正面かよ!?
通路を隔てた短い間合いに先程とは別の女がいた。
八十過ぎ位の小柄な老婆だ。皺だらけの不機嫌そうな顔で、僕と目が合うや鬱陶しそうに舌打ちし、ゆっくりソッポを向きやがる。
でも、最後にこちらをチラ見する仕草は、真ん丸お目目のストーカーおばちゃんとクリソツ。
真っ黒に瞳を淀ませ、僕を見ている。見つめてる。
体が勝手に動き、気が付くと僕は席を立っていた。
列車の進行方向に沿い、急ぎ足で通路を歩き出す。殺人事件の見出しが躍る吊り広告の下を潜り、通路へ伸ばした酔っ払いの脚を飛び越して……
重い連結部のドアから隣の車両へ移動した途端、窓の外が少し明るくなった。次の停車駅へ到着し、ホームの灯りが車内へ射し込んだ様だ。
比較的大きな駅だから、降りる客は少なくない。あの婆さんもオバちゃんも、いなくなってくれたら良いな。
そう思いながらドアに凭れ、ブレーキが掛かるのを待つ。
でも、列車は全くスピードを緩めようとしなかった。そのまま、まっすぐホームを通過し……
えっ、各駅停車だよな、コレ?
又、小さな異変が生じている。その気付きが唐突な不安へ結びつく。
僕が降りる予定の駅も、快速なんて停まらない小さな駅だ。行き過ぎた場合、停車駅からのリカバリーが難しい。でも考えてみたら……
この時間帯、この路線のこの辺りは快速でも各停扱い。全ての駅へ停車する筈。スルーなんてあり得ない。
なのに、周囲の乗客に一切変化は無かった。停まらない列車に戸惑い、あたふたしている奴なんて、見渡す限り僕一人だけ。
おまけに、惰眠を貪る誰かの、鬱陶しいいびきが止まらない。
どいつもこいつも何なんだよ!?
僕は焦り、まともな乗客を見つけたい一心で、進行方向に沿い、歩き続けた。
吊り広告の下を潜り、通路へ投げ出した酔っ払いの足を一跨ぎ、重い連結部のドアを抜け……
そして四両目の車両中程まで来た時、又、列車が駅を通過した。今回も全く減速しようとしない。
「……停めてくれ」
二駅続けての異変だ。僕の爪が虚しく、真っ暗なドアの窓を引っ掻く。
「停めてくれ」
なす術無く立ち尽くす内、更に列車が次の駅を通過していく。
僕は今、本当に我が家へ近づいているんだろうか?
むしろ遠ざかっている気さえして、
「停めてくれ……停めてくれ……停めてくれぇ!」
繰り返す呟きが、最後には声を振り絞る絶叫と化した。狭苦しい列車の中で反響が木魂する。
なのに、相変わらず乗客は誰も反応しない。まるで座席へ座らされた人形か、死人のように。
でも、たった一つ、僕の膝元から囁く声があり、
「うふふっ……変なの」
恐る恐る見下ろす視線の先に蹲っていたのは、肩まで伸びる栗色の髪をした十才くらいの少女だ。
まん丸い瞳で僕を見上げている。
最初のオバちゃんとも、次の婆さんとも大違いのあどけない面持ち。でも、何処かしら似ている気もする。
「変なの……変なの……」
繰り返し呟く言葉に、僕は反論したくなった。
変なのはお前だろ?
今はもう午後11時を過ぎてる。終電も近い真夜中、私鉄の車両に子供一人で乗っている訳が無い。
でも、それを言う勇気は出なかった。少女の瞳、虚ろで真っ黒な二つの穴の奥に、今やお馴染みの淀んだ瘴気が漂い……
ヒィイイッ!
頭を抱え、僕は逃げ出した。
列車の進行方向に沿い、どこまでも、どこまでも走る。
異常な状況とは言え、列車は列車。前方へ進み続ければ、いずれ必ず最前列の車両へ辿り着く。
そこに運転手だっている筈だ。そうしたら、ドアを蹴飛ばし、何で停まらないのか、理由を聞いてやる。
いや、もう今更、理由なんてどうでも良いや。
停めるんだ、力づくで。運転手を半殺しにしてでも、操縦席の急ブレーキを使わせてやる。
吊り広告の下を潜り、通路へ放り出すように伸ばす酔っ払いの脚を一跨ぎ。
妙に重い連結部のドアを抜けて隣の車両へ移動し、乗客が疎らな車両を駆け抜けて、更に奥へと……
元々、運動は得意な方じゃない。学生の頃は部屋へ引き籠り、通学以外、殆ど外へ出ないインキャだったから、バテるのも早い。
身体はフラフラ、足もヨ~レヨレ。それでも愛しい妻の面影を原動力に、ひたすら走り続ける。
栗色の長い髪。澄み渡った大きな瞳。トランジスタグラマーって感じの、柔らかい抱き心地。そして、いつも僕だけに捧げられる一途な愛。
もう一度、彼女をこの手で抱き締めるまで僕は死んでも死にきれない。
読んで頂き、ありがとうございます。




