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隠れ場所

 掃除機の咆哮が止んだあとの世界は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、ひどくうつろで、冷え切っていた。

 先ほどまでクリンたちが足跡を刻んでいた埃の絨毯は無残に剥ぎ取られ、剥き出しになったフローリングの板目が、主の振るった審判の跡を冷ややかに照らし出している。

 あんなに輝いていた消しゴムのカス山は、今や見る影もなく平らにならされ、かつてそこに誰かがいた気配すら残っていない。


 クリンは、自分の体の震えが止まらないことに気づいた。

 銀色の金属が、カチカチと小さな、けれど必死な音を立てて鳴り響く。

「ルル……ぼくたち、本当に助かったんだよね?」

 掠れた声で問いかけると、少し離れた場所でぐったりとしていたルルが、ゆっくりと体を震わせた。

 彼女の桃色の体は、先ほどの嵐に引き絞られたせいで、元のみずみずしい丸みを取り戻せずに、細く、疲れ果てたように歪んでいた。

「ええ……でも、ここにはもういられない。主は一度掃除を始めたら、隅々まであの怪物の首を突っ込んでくるわ。今度は、もっと奥へ行かなければ」

 ルルは重い体を引きずるようにして、壁際の方を指差した。

 そこには、部屋の隅を這い回る巨大な「黒い蛇」の群れがあった。

 主が使うパソコンやライト、スピーカーへと続く、幾重にも絡まり合った電気コードの束だ。

「あそこなら、重くて硬い蛇たちが、私たちを嵐から守ってくれるはずよ」

 二人は、傷ついた体をお互いに支え合うようにして歩き出した。

 床は掃除機によって磨かれたばかりで、驚くほど滑りやすく、踏ん張りがきかない。

 一歩進むごとに、クリンの足元が「ツルッ」と滑り、そのたびにルルが自分の体を伸ばしてクリンの銀色の角を支える。

「ごめんね、ルル。ぼく、足がうまく動かないんだ」

「謝らないで。私たちは、もう運命共同体なんだから」

 ルルの言葉は、冷え切ったクリンの心に、小さな火を灯した。

 あの上で、ただ紙を束ねるためだけの道具だった頃には知らなかった、誰かのために自分の形を変えるという喜び。

 それは痛みを伴うものだったが、何よりも美しく感じられた。


 ようやく辿り着いたコードの群れは、近くで見ると、まるで古城を守る漆黒の外壁のようだった。

 一本一本のコードはクリンの何倍も太く、その表面はザラザラとしたゴムの質感で覆われている。

 それらが幾重にも交差し、重なり合うことで、床との間にわずかな、けれど深い「隙間」を作り出していた。

「さあ、この中へ。深く、もっと深く入るのよ」

 ルルの誘導に従い、クリンは二本の太いコードが重なる影へと潜り込んだ。

 そこは、驚くほど静かな場所だった。

 外を吹き荒れる主の気配も、ときおり差し込む鋭い光も、ここでは何層もの黒い壁に遮られ、穏やかな薄闇へと姿を変えていた。

 そして何より、そこには「熱」があった。

「……温かい。なんだか、生きているみたいだ」

 クリンが驚きに声を上げると、ルルも隣でふう、と深く息をついた。

「そう。これは主が使っている機械たちの、命の鼓動なのよ。電気が通るたびに、このコードたちはかすかに震えて、温かくなるの。ここは、この机の下で一番安全で、一番温かい聖域なのよ」

 クリンは、温もりを帯びた黒いコードに、自分の銀色の体をそっと預けた。

 伝わってくるのは、一定のリズムを持った微細な振動だ。

 それはまるでお母さんの心音を聴いている赤ん坊のような、深い安らぎをクリンにもたらした。

 掃除機に吸い込まれそうになったときの極限の恐怖が、その温もりの中に溶け出していく。

「ルル……ありがとう。ぼく、君がいなかったら、きっと今頃……」

「言ったでしょう? 一人じゃ錆びついてしまうって。でも二人なら、どんな嵐が来ても、こうして身を寄せ合って耐えられるわ」

 ルルは、クリンの隣でくるくると小さく丸まった。

 コードの隙間から外を覗くと、遠くの方で再び主の足音が響いているのが聞こえた。

 けれど、ここではその音も、まるで別世界の出来事のように遠く、ぼんやりと感じられる。

「ここで、少し休みましょう。嵐が過ぎ去るまで、ずっと……」

 クリンは、重くなったまぶたを閉じた。


 目を閉じると、あの上で忙しく立ち働いていた自分の姿が思い出された。

 けれど、今のクリンにとって、その記憶は遠い過去の、他人の物語のように思えた。

 今の自分は、この温かな闇の中で、かけがえのない友と静かな呼吸を共にする、一人の冒険者だ。

 コードを流れる電気の微かな歌を子守唄にして、クリンは深い、深い眠りへと落ちていった。


 机の下の冒険は、まだ序章に過ぎない。

 けれど、この「隠れ場所」を見つけたことで、クリンとルルの絆は、誰にも引き裂けないほどに固く、結ばれたのだった。

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