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初めての危機

 えんぴつの影が去ったあとの静寂は、どこか神聖な余韻を含んでいるように思えた。

 クリンは、フローリングの木目に残るかすかな振動の残響を楽しみながら、一歩一歩、自分の足跡あしあとを埃の上に刻んでいた。

 しかし、その安らぎは、物理的な法則を無視したような異質な予兆によって、あまりにも唐突に打ち砕かれることとなった。

「……ねえ、ルル。なんだか、空気が震えていない?」

 クリンがそう口にした瞬間、世界のすべてが「音」に支配された。


 ゴォォォォォォォォ……


 それは、主が椅子を引く音とも、えんぴつが紙を走る音とも根本的に異なる、破壊的なまでの重低音だった。

 地鳴りのようなその響きは、はるか遠く、部屋の入り口の方から波のように押し寄せ、机の下という閉ざされた聖域の結界を、暴力的な振動で揺らし始めた。

「あ、あれは何……? 雷なの? それとも、家が壊れる音?」

 クリンの銀色の体は、床から伝わる共鳴によって、もはや自分の意志とは無関係に「チチチチッ」と激しく跳ね踊っていた。

 ルルは、先ほどまでの余裕を完全に失っていた。彼女の桃色の肌は、恐怖で硬直し、まるで凍りついたかのように細く縮こまっている。

「クリン! 床に、床にしがみついて! あれは……あれだけは、出会ってはいけない『嵐』よ!」

「嵐?」

「掃除機よ!!」

 ルルが叫び終わるか終わらないかのうちに、机の下の風景が一変した。


 それまで死んだように静まり返っていた埃たちが、巨大な意思を持った生き物のように一斉に舞い上がったのだ。視界はまたたく間に灰色に染まり、数センチ先も見えないほどの猛烈な埃の霧が巻き起こる。

 そして、その霧の向こうから、光を反射する「黒いノズル」という名の怪物の首が、ぬうっと現れた。

 ノズルの先端からは、世界中の空気をすべて飲み込もうとするかのような凄まじい吸引力が放出されている。床に積もっていた「消しゴムのカス山」の一部が、悲鳴を上げる間もなく宙に浮き、渦を巻いて闇の深淵へと吸い込まれていくのを、クリンは驚愕の目で見送った。

「うわああああ!」

 クリンの軽い体も、その暴力的な風に足元をさらわれた。

 一瞬、体が宙に浮く。重力から解放されたのではない。死の穴へと続く、抗いようのない力に引き寄せられているのだ。

クリンは必死に(かど)を伸ばし、フローリングの板と板の間にできた、わずかな溝に自分を叩きつけた。

「離しちゃダメ、クリン! 諦めたら、おしまいよ!」

 ルルもまた、自分の体を輪っかのように丸め、床に突き出た小さな釘の頭に自分を引っ掛けて耐えていた。彼女の体は吸引力によって限界まで引き伸ばされ、今にも千切れてしまいそうなほど細い糸のようになっていた。


 ゴォォォ……という咆哮は、さらに音量を増していく。

 ノズルは、まるで獲物を探す蛇のように、クリンたちのすぐ数センチ横を横切った。その瞬間、クリンのすぐそばにいた小さな糸くずたちが、あるいは以前からそこにあったらしい古いレシートの切れ端が、一瞬で「消失」した。

 それは、この机の下で長く生きてきた仲間たちの、あまりにもあっけない最期だった。

 クリンは、全身の金属をきしませながら、溝を強く掴み続けた。

「……く、苦しい……手が、外れそうだよ……!」

 吸引力が作り出す風の刃が、クリンの銀色の体を削り取るように吹き抜ける。

 埃が目に入り、感覚が麻痺し、意識が遠のきそうになる。


 だが、その時。

「離さないで!!」

 ルルの叫びが、轟音を突き抜けてクリンの胸に届いた。

 彼女は自分自身が千切れる恐怖に晒されながらも、必死にクリンの方へ手を伸ばそうとしていた。

 その姿を見たとき、クリンの心に、自分一人では決して生み出せなかった「生への執着」が再燃した。

「ぼくは……まだ、消えたくない!」

 クリンは自分の体の形を歪ませるほどの力で、フローリングの溝を噛んだ。

 ノズルは、一度、二度と、クリンの頭上を威嚇するように往復したが、運命の悪戯か、それともクリンの執念が勝ったのか、決定的な一撃を浴びせる前に、その咆哮はゆっくりと遠ざかり始めた。

 世界を支配していた狂気の風が、徐々に凪いでいく。


 やがて「パチン」という主の手によるスイッチの音が響き、あとに残されたのは、これまでにないほど冷酷なまでの静寂だった。

 埃の霧がゆっくりと床に降りてくる。

 クリンは、指の力が抜けていくのを感じながら、溝から這い出した。体中が煤け、磨き上げられていた銀色の表面には細かな傷が無数についていた。

「……ルル? ルル、無事なの?」

 震える声で呼びかけると、釘の頭に引っかかっていたルルが、くたびれた様子で体を解いた。

 彼女の体は先ほどまでの無理な膨張で、あちこちに新しい白い亀裂が入っていた。

「……なんとか、ね……でも、クリン。見て」

 ルルが示した先、そこには、あんなに美しくそびえ立っていた「消しゴムのカス山」が、半分以上も削り取られ、無残な姿を晒していた。


 机の下の世界は、自由で美しい。

 けれど同時に、主という名の神様が気まぐれに振るう「大掃除」という審判からは、決して逃れられないのだ。

 クリンは、自分の体がまだそこに存在していることを確かめるように、冷たい床を強く踏みしめた。

 初めての危機は去った。

 けれど、それはこの冒険が、決して遊びではないことを教えていた。

「……次が来る前に、もっと安全な場所を探さないと」

 クリンの言葉に、ルルは力強く頷いた。

 二人は、傷ついた体を引きずりながら、再び歩き出した。


 暗がりの奥、さらに複雑な影が落ちる「コードの迷宮」を目指して。

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