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えんぴつの影

 消しゴムのカス山でのひとときの休息を終えたクリンとルルは、再びフローリングの平原へと降り立った。

 白い山を後にしたクリンの体には、まだ細かな消しゴムの粉が薄っすらと残っており、それが暗がりのなかで星屑のように淡く光っている。

 二人は、壁際に沿って這う黒い電気コードの群れを横目に、さらに机の奥深くへと進んでいた。

「ねえ、ルル。さっきから思っていたんだけど……」

 クリンが声を落として尋ねる。

「なんだか、急に空気が冷たくなったような気がしない? それに、さっきまで聞こえていた主の物音も、なんだか変だ。重たくて、じっとりしているっていうか」

 ルルはぴたりと足を止め、長い体をピンと垂直に伸ばした。彼女の桃色の表面が、緊張でわずかに震えている。

「……くるわ、クリン。しっかり床にしがみついて」

「えっ? 何がくるの?」

 クリンが問い返そうとした瞬間、はるか高い「天井」――机の裏側から漏れ出していた僅かな光の筋が、一気に掻き消された。

 重苦しい沈黙が世界を支配した直後、それは現れた。

 漆黒の、あまりにも巨大な影。

 それは、天井から床までを一気に貫くような、鋭利な槍の形をしていた。その影は、生き物のようにフローリングの木目を這い、凄まじい速度でクリンたちの目の前を横切っていった。

 カリカリ、カリカリ、カリカリ……

 影が動くたびに、床の底から突き上げてくるような微振動が伝わってくる。

 クリンの小さな金属の体は、その振動に翻弄され、フローリングの上で「チチチッ」と細かく跳ねた。

「うわああ! 何、あれ……怪獣の尻尾なの!?」

 クリンは必死に、フローリングの板の継ぎ目に自分の体をねじ込み、吹き飛ばされないよう耐えた。

 影は止まらない。

 ある時は、一箇所に留まって激しく円を描くように身悶えし、またある時は、長い一文字となって地平線の彼方まで突き抜ける。

 その動きに合わせて、上からは「ガリガリ」という、何かを削り取るような剥き出しの音が響いてきた。

「怖くないわ、クリン。あれは『えんぴつの影』よ」

 ルルは激しく揺れる床の上で、巧みに体をしならせて衝撃を逃がしながら叫んだ。

「いま、上の世界で主が、一生懸命に言葉を紡いでいるの。あれは、主の思考の跡……悩みや、迷いや、閃きの影なのよ!」

 クリンは、恐怖で閉じかけていた目を見開いた。

 改めてその巨大な影を見つめると、それは確かに、持ち主が握っている一本のえんぴつの動きと連動していた。

 影が激しく円を描いているときは、きっと主が言葉に詰まって悩んでいるのだ。

 影が迷いなく真っ直ぐに進むときは、主のペンが止まらないほど心が躍っている証拠だ。

 影は、単なる暗闇ではなかった。

 それは、上の世界とこの下の世界を繋ぐ、無言のメッセージだった。

「……主は、まだあそこにいるんだね」

 クリンは、影の動きを食い入るように見つめた。

 かつて自分が主の指先に挟まれていたとき、自分もまた、あのように巨大な影をこの床に落としていたのだろうか。

 書類を留める自分の姿も、下の住人たちにとっては、畏怖を覚えるような壮大な物語の一部だったのかもしれない。

 影がふと、動きを止めた。

 世界が再び、静まり返る。

 上からは、かすかな吐息と、椅子がギィ、と軋む音が聞こえてきた。

「主が、考え事をしているわ」

 ルルが囁く。

「あの上で主が一人で戦っているとき、この下でも影が一緒に戦っている。私たちは捨てられたけれど、こうして主の心の動きを、一番近くで感じることができる。影がある限り、私たちは忘れられた存在じゃないのよ」

 クリンは、その漆黒の影の端に、そっと自分の銀色の先端を触れさせてみた。

 影には実体がない。けれど、そこからは主の指先の微かな震えや、紙に向き合う熱量が、冷たいフローリングを通じて伝わってくるような気がした。


 かつては「固定すること」だけが自分の役割だと思っていた。

 けれど今は、こうして「感じること」もまた、自分に与えられた新しい役割のように思えた。

 やがて、主が大きく息を吐いたような音が響き、えんぴつの影はふっと薄れて消えていった。机の上に置かれたのだろう。

 平原には再び、いつもの薄暗い静寂が戻ってきた。

「さあ、行きましょう。影が消えたあとの道は、主の想いが充満していて、なんだか温かいのよ」

 ルルが弾むように歩き出す。

 クリンは、先ほどまで自分の体を揺らしていた振動の余韻を噛み締めながら、一歩を踏み出した。


 上の世界と下の世界。

 二つの場所は、目に見えない「影」という絆で結ばれている。

 そのことを知ったクリンの心には、もう、最初のような鋭い孤独は残っていなかった。

「待ってよ、ルル! ぼくもすぐ行く!」

 銀色のクリップは、主の思考の余熱が残る床を、力強く蹴って進んだ。


 しかし、そんな二人の背後に、これまでの冒険を嘲笑うかのような、異様な轟音が近づいていることに、彼らはまだ気づいていなかった。

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