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消しゴムのカス山

 ルルと出会ったことで、クリンの視界からは「絶望」という名の霧が少しずつ晴れ始めていた。

 百科事典の深い影を抜け、ルルの弾むようなピンク色の背中を追って進むうち、クリンの銀色の体には、かつて書類を束ねていた時のような凛とした輝きが戻りつつあった。

 二人は、フローリングの板目が巨大な滑走路のように続く平原を歩いていた。

「ねえ、ルル。さっき言っていた『山』って、本当にあるの?」

 クリンが尋ねると、先をゆくルルは器用に体をしならせて振り返り、いたずらっぽく微笑んだ。

「ええ、もうすぐよ。あの上で主が一生懸命に間違いを直せば直すほど、その山は高く、美しくそびえ立つの」

 やがて、停滞していた空気がわずかに動き始めた。

 前方から、ほのかに甘く、どこか懐かしい石鹸のような香りが漂ってくる。

 それと同時に、視界の奥に真っ白な「巨大な壁」が姿を現した。

「わあ……っ」

 クリンは思わず足を止め、その光景を仰ぎ見た。

 そこには、天井――机の裏側――に届きそうなほど高く積み上げられた、真っ白な連峰がそびえ立っていた。

 それは、主が文字を書き直し、考えを巡らせるたびに机の上から払い落とされてきた「消しゴムのカス」の集積体だった。

 一つひとつは、歪な形をした指先ほどの小さな欠片に過ぎない。

 しかし、それが数ヶ月、あるいは数年の歳月を経てこの場所に吹き溜まり、今や幻想的な「雪山」を形作っているのだ。

「これが……消しゴムのカス山」

 クリンは震える声で呟いた。

 一つひとつの白い粒には、主が「もっといい言葉を探そう」とした葛藤や、「間違えたけれどやり直そう」とした決意が刻まれているように見えた。

 それは主にとっては捨てるべきゴミだったかもしれないが、この暗い机の下の世界では、何よりも純白で、神聖な祈りの結晶のように輝いていた。

「さあ、クリン。ここを登りましょう。この頂上からは、この部屋の隅々まで見渡せるのよ」

 ルルは言うなり、山の斜面に勢いよく飛び込んだ。

「ふかっ」という柔らかな音が響く。彼女の桃色の体が白い雪の中に半分ほど埋まり、そこからバネのように跳ね上がるたび、真っ白な粉雪が舞い上がった。

 クリンも意を決して、その白い山に足を踏み入れた。

「……っ!」

 これまでの硬く無機質なフローリングの感触とは全く違っていた。

 足元が驚くほど柔らかく沈み込み、クリンの冷たい金属の体を優しく包み込む。

 まるで、誰かに「お疲れ様」と抱きしめられているような、そんな不思議な安心感があった。

「すごい……柔らかい……あの上では、いつも硬い紙やクリップケースの底にいたから、こんな感触、知らなかったよ」

 クリンは嬉しくなり、斜面をぴょんと跳ねてみた。

 その拍子に、真っ白な粒がさらさらと崩れ、クリンの銀色の体に薄く化粧を施していく。

 その冷たくも温かい抱擁に、クリンの心は洗われるようだった。

「楽しいでしょう? 上の世界では、これは『ゴミ』と呼ばれて掃き出される運命にあるものかもしれない。でも、この下では、私たちに自由な居場所と、柔らかな休息をくれる、大切な大地なの」

 ルルは山の中腹で体を丸め、タイヤのように回転しながら斜面を滑り降りてきた。

 彼女が通ったあとには、綺麗な一筋のシュプールが刻まれている。

「あの上ではね、クリン。私たちは、決められた場所で、決められた形をしていなければならなかった。でも、ここでは誰も私たちを縛らない。私たちが何者であるかは、私たちが決めていいのよ」

 クリンは、ルルの言葉を噛みしめながら、山の斜面を無我夢中で登った。

 途中で足が滑り、真っ白な粒の中に埋もれそうになることもあった。

 けれど、その度にルルが長い体を伸ばしてクリンを引っ張り上げてくれた。二人の笑い声(それは金属の触れ合う小さな音と、ゴムが弾ける音だったが)が、静かな机の下に木霊する。


 ようやく辿り着いた山の頂上。

 そこから見える景色に、クリンは息を呑んだ。

 見渡す限りのフローリングの地平線。

 遠くには、巨大なトーテムポールのように立つ机の脚。そして、隙間から差し込むわずかな光が、埃の粒を金色の蝶のように躍らせている。

「綺麗だ……」

「そうね。ここは、世界で一番静かで、一番自由な場所よ」

 クリンは、自分の体に付着した白い粉を誇らしげに揺らした。

 かつて書類を束ね、一箇所に留まることだけを職務としていたクリップのクリン。

 しかし、この白い山の上で、彼は確信していた。

 自分はもう、ただの文房具ではない。

 この広大な机の下の王国を征く、冒険者なのだと。


 主が上の方で再び消しゴムを使い始めたのか、パラパラと新しい「雪」が空から降ってきた。

 クリンとルルは、その新しい祝福を受けながら、寄り添って遠くの地平線を見つめていた。

 冒険は、まだ始まったばかりだった。

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