輪ゴムのルル
クリンが一人で歩き出してから、どれほどの時間が経っただろうか。
机の上という場所には、時間の目安がいくらでもあった。窓から差し込む陽光がオレンジ色に染まれば夕方だし、主がカチリとデスクライトを点ければ夜の始まりだ。
何より、主が腕に巻いた時計が刻む規則正しい秒針の音は、世界の歩調そのものだった。
しかし、この「机の下」という階層に、太陽の光は届かない。厚い木の天板が空を遮り、四本の太い脚が結界のように世界を切り離している。ここにあるのは、永遠に続くかのような停滞した薄闇と、主が椅子を引いたときに地鳴りのように響く「ズズッ」という振動だけだった。
「……重いな」
クリンは、独り言をこぼした。自分の体であるはずの銀色の金属が、心細さのせいでいつもより重く、硬く感じられる。
床にはうっすらと埃の膜が張っており、一歩進むたびにクリンの体はそれらを巻き込んで、チリチリとした不快な摩擦音を立てる。主の指先にあった頃の自分は、こんなにも無力ではなかったはずだ。書類を束ね、誰かの大切な言葉を守る。そんな誇りがあった。だが今の自分は、ただの「落ちてしまった異物」に過ぎない。
クリンは、目の前に現れた巨大な漆黒の断崖に立ち尽くした。
それは主が数ヶ月前に落としたまま、その存在すら忘れ去られてしまった分厚い百科事典だった。事典の背表紙は、もはや床の色と同化し、そこから広がる影は深淵のように深い。
この影を通り抜けなければ、先へは進めない。クリンは勇気を振り絞り、事典の影へと足を踏み入れた。
途端に、空気が変わった。
ひんやりとした冷気がクリンの体を包み込み、視界が急激に奪われる。埃の匂いはさらに濃くなり、古い紙が放つ独特の、少し酸っぱいような香りが鼻を突く。
その時だった。
「ぷるんっ」
暗闇の奥で、湿り気を帯びた、それでいて軽やかな音が響いた。
クリンは反射的に身を固めた。クリップとしての体は、一度曲がってしまえば元には戻りにくい。自分を攻撃しようとする者がいたら、ひとたまりもないだろう。
「だ、誰だ……!」
震える声で問いかける。返事はない。代わりに、闇の中から一つの「円」が転がり出してきた。
それは、ぼんやりとしたピンク色をしていた。
埃を被って白っぽく変色してはいるが、その曲線は滑らかで、生き物のように伸縮している。円はクリンの数センチ手前でぴたりと止まると、よいしょ、と体を不自然な形にねじ曲げ、まるでこちらを覗き込むような仕草を見せた。
「……あら。新入りさんね。ずいぶんと角張った、立派な背中をしていること」
声がした。それは、古い弦楽器を爪弾いたときのような、掠れているけれど温かい不思議な響きだった。
クリンは目を丸くした。
「君は……?」
「私はルル。見ての通り、輪ゴムよ。君みたいな銀色の迷子を見るのは、去年のホチキスの針くん以来かしら」
ルルは自分の体を「ぷるん」と震わせた。その動きに合わせて、彼女の体に付着していた埃が光の粒のように舞い落ちる。
「ぼくはクリン……さっき、落ちてきたばかりなんだ。主が、大事な書類をまとめようとしたときに、手が滑って……」
クリンがそう言うと、ルルは少しだけ悲しそうに、けれど慈しむような目を細めたように見えた。
「そう。主の指先のぬくもりを覚えているうちに、ここに辿り着いたのね。それは幸運よ。多くの者は、自分が落ちたことさえ気づかずに、心まで錆びついて動けなくなってしまうものだから」
ルルは、クリンの周囲をぐるりと一周した。彼女の体には無数の細かな亀裂が入っており、ところどころが今にも千切れそうなほど細くなっている。それは、彼女がこの過酷な場所で、どれほどの年月を耐えてきたかを物語っていた。
「ルル、君はどれくらいここにいるの?」
「さあ……束ねていた色鉛筆が短くなって、私の役目が終わった日のことは覚えているわ。主が私を外して、机の端に置いたの。そのとき、窓から強い風が吹いて……私は、あの大空(天井)から、この大地へと舞い降りたのよ」
ルルは空を仰いだ。そこには、ざらりとした木の肌を見せる「机の裏側」が広がっている。
「ここはね、クリン。絶望する場所じゃないわ。ここは、私たちの『第二の人生』が始まる場所なの」
クリンは驚いた。自分はただ、暗いところに落ちて、誰かに拾われるのを待つだけだと思っていた。けれどルルの言葉は、この暗闇に一本の光を差し込むような力強さがあった。
「冒険、しましょう?」
ルルが誘う。彼女のピンク色の体の一部が、クリンの銀色の先端にそっと触れた。
「……ぼくと一緒に?」
「ええ。一人では越えられない埃の谷も、二人なら飛び越えられる。それに、この先には『消しゴムのカス山』や、ときどき虹が見える『ビー玉の泉』だってあるのよ」
クリンは、自分の冷たい金属の体が、ほんの少し熱を帯びるのを感じた。
書類を束ねることだけが自分の全てだと思っていた。けれど、誰かと一緒に歩くこと、知らない景色を見に行くこと。それは、あの上では決して許されなかった、贅沢で素晴らしい「冒険」に思えた。
「行こう、ルル。ぼくも、この世界のことをもっと知りたい」
クリンがそう答えると、ルルは嬉しそうに体を大きく引き伸ばし、矢のような速さで前方の闇へと飛び出した。
「遅れないでね、クリン! 床の溝には気をつけるのよ!」
弾むようなルルの声が、事典の影に反響する。
クリンは、重い体を引きずるようにして、彼女の後を追った。
フローリングの一歩一歩が、今は確かな手応えを持ってクリンに伝わってくる。
かつては「机からの落下」という悲劇だった出来事が、今、新しい物語の「幕開け」へと変わろうとしていた。
二人の影が、百科事典の向こう側へと消えていく。
主が上の方でペンを走らせる音が、遠い雷鳴のように聞こえていた。
けれど、クリンはもう上を向いて嘆くことはなかった。
彼の前には、ルルという新しい光が、そして無限に続く「机の下」という大冒険が広がっていたのだから。




