井の中
――夜。
月は薄い雲に隠れている。
夜になると急に冷え込む。
バエトは腹を押さえながら、知らない村の外れに立っていた。
粗末な小屋が10件ほど軒を連ねていた。
軒先には干した野菜や山鳥の羽などが吊るされていた。
丁度夕餉の時間なのだろう、家々から灯りが漏れている。
忌み子の村を出て丸1日、ずっと進み続けた。
出てくるときに持ってきた小麦菓子は
最初の頃に底をついていた。
村は人の気配があり、かすかな話し声や
食器の音などの生活音が時折聞こえる。
そして食べ物の匂い。
香辛料と肉を焼くにおい。
生唾がいくらでも湧いてくる。
無意識なのか…
いつの間にかバエトはある1軒の家の窓を
覗き込んでいた。
木の格子の向こうのそこは食卓なのか、
年老いたダークエルフの女性がゆっくりとした足取りで、
キッチンから皿を運んでいた。
目の前にある食料を奪えば空腹が満たされる。
そんな考えが鎌首をもたげていた。
(……やめろ)
もう一人の自分が制止する。
喉が鳴り生唾を飲み込んだ。
(……いやだめだ)
首を横に振り一歩、下がる。
だが――
空腹で腹が、キリキリと痛む。
(……俺はジュリに…)
その名が浮かんだ瞬間。
バエトは、前に出ていた。
音を殺して、玄関のドアをそっと開ける。
(施錠されてない…)
中は静かだった。
窯の火が、まだ赤く残っている。
食卓には、数切れのパンと、器に盛られたスープ。
バエトの喉がごくりと音を立てた。
もう一歩進み、パンに手を伸ばす。
――その時。
「誰じゃ?」
振り向くと、ダークエルフが立っていた。
杖をつき、たくさん髭をたくわえている。
バエトは固まった。
(……終わった)
そう思ったが、少し様子が変だった。
「おい、クローディア、こっちに来てくれ
物音がしたみたいなんじゃ」
(もしかして、見えてない……?)
そう思った瞬間、バエトは目の前のパンを鷲掴み
ドアを乱暴に開け、走った。
そのはずみで器のスープがガシャリと音を立てて床に
転がった。
「お前は誰じゃ! クローディア!」
バエトは丁度食卓に入って来た女性の
老ダークエルフの前を通り過ぎた。
「まあ! 泥棒よ! スタイナー!! スタイナー!!」
その時、隣の家屋の玄関ドアが勢いよく開かれた。
「どうした!? 母さん!!」
「あ…あれ…!」
女性が指さす方向に小さくなっていく少年の姿があった。
「おい!待て!!」
声は老人ではなく、ずっと若い声だった。
「この森で俺から逃げられると思うなよ コソ泥が!」
(殺される……)
声はすぐ後ろで聞こえた。
その時、肩に鋭い衝撃が走った。
(何かが刺さった…)
よろけながらも走り続けた。
(離すな)
パンを持ったまま、走った。
だが長くは続かなかった。
突き出た木の根っこに躓き、前方に勢いよく
転んでしまった。
地面に胸をしこたま打ち付け息ができない。
「盗人が……!」
そう声が聞こえるや横っ腹に蹴りが入る。
顔に、背中に、何度も。
視界が揺れる。
「こいつ…混種か。またかよ
今月に入って何回目だ?」
「は…離せ!」
男はバエトの腕を掴み片手で持ち上げた。
そしてバエトが握るパンを引き離そうとする。
(……いやだ)
歯を食いしばる。
(これは……)
(これは……)
「離せって言ってんだろ!!」
そう言うと男は
腰の狩猟ナイフをバエトの腹に突き立てた。
「ゴフッ!!」
口と鼻から血が噴き出した。
握りしめたパンは解放され、地面にバラバラと落ちた。
男はバエトを乱暴に放り投げ、舌打ちをした。
「これじゃあ このパン食えねえじゃねえか…チッ」
そう言って男は血の付いたナイフをバエトの服に擦り付けると
もと来た方向に去っていった。
バエトは、その場に伏した。
血だまりが広がった。
薄れゆく意識の中で、ジュリが微笑んでいた。
(ごめんな…ジュリ…兄ちゃん…)
涙は土に吸い込まれていった。
夢なのか何なのか
おぼろげな視界に誰かが立っていた。
◆
バエトはふと肌寒さで目を覚ました。
ここはどこだろうか。
小鳥たちの鳴き声…それに川のせせらぎ。
(俺は刺されて死んだ…それとも夢?)
ゆっくり起き上がる。
刺された腹に恐る恐る手を当てる。
(?…傷が…無い…生きてる?)
周りを見渡すと、小さな川の川岸の平たい岩の上に居た。
体の痛みも無かった。
だがギュルルと腹が鳴った。
「はあ…どうなってんだ…腹減った…」
バエトは大の字に寝転がった。
空を見ると、2羽の大きな猛禽が輪を描いて飛んでいる。
「俺は死なないぞ! お前らなんかにこの体はくれてやるもんか!」
バエトは拳を振り上げて叫んだ。
またギュルルと腹が鳴った。
(とにかく食い物…)
周りを見渡しても何もない。
が、川を見ると、小さな魚が群れを成して泳いでいた。
冷たい水に、顔を突っ込む。
ごぼり、と泡が立つ。
水は刺すように冷たい。
バエトは、手を伸ばす。
1匹も手に掠る事無く魚影は飛散した。
何度も試みるも、結果は全く同じだった。
バエトは一度水からあがり
岩の上で考えた。
じっと水面を見つめていた時
魚の行動に法則性がある事に気が付いた。
魚は流れに逆らう向きで泳いでいて
必ず先頭の魚は同じなのだ。
恐らく奴がリーダーなのだ。
そして群れは決まって同じルートを
周回していたのだ。
(ここで待ち伏せすれば…)
バエトは待ち伏せする場所を決め
魚たちが通るのを待った。
そしてそこを通過する瞬間、バエトは素早い動きで
魚を捕らえようとした。
その瞬間
なぜか世界が遅くなった気がした。
そしてバエトは無意識的に魚を捕まえたのだ。
「な…なんだ? 魚がゆっくりになった…」
その調子でもう一度同じことが起った。
だが、その後、魚群はどこかに行ってしまった。
結局、10センチほどの魚が2匹獲れたのだった。
「このまま…食うしかない…」
切る物も無い、火も起こせぬ…
バエトは魚にかぶりついた。
生臭さと、苦みが同時に来る。
吐きそうな気持を抑え、咀嚼せず飲み込んだ。
もう一匹も飲み込む。
暫くすると、腹がよじれる様な痛みと
気持ちの悪さが襲って来た。
脂汗が出たがバエトは必死で吐かない様にこらえた。
岩の上にうずくまり、いつしか意識が落ちていた。
◆
何かの気配で目が覚めた。
囲まれている。
低く唸る声。
異様に赤く光る目。
「ブラッドウルフだ…!」
血の様に赤い毛並みを持つことから
その名前が付けられたそうだ。
10頭ほどの狼が唸り声を上げながらにじり寄って来る。
「……くそ」
体は重く、頭は割れるように痛む。
腕が上がらない。
それでも、なんとか立った。
その時セツナとの稽古が頭をよぎった。
(先生……)
足の位置。目線。呼吸。
自分の間合い。
先生は今の場所からジャンプして着地した
場所までが自分の間合いだと教えてくれた。
武器は、持ってきた稽古で使った木剣しかない…
「……やってやる……」
バエトは岩を背にし、木剣を正眼に構えた。
「相手が間合いに入るまで我慢…」
すると業を煮やした一頭が飛び掛かって来た。
(まだだ…)
その時
また世界がスローになった。
(まただ…)
「今だ!!」
木剣が狼の顎にヒットした。
狼はキャンと鳴いて飛びのいた。
だが。
数で勝る狼はひるまなかった。
横から鋭い衝撃。
腕に牙が食い込む。
「がっ……!」
振り払う。
しかし間もなく、次は足首。
膝が崩れる。
至る箇所を代わる代わる噛まれていく。
バエトの体力は削られていった。
(……ここで……終わるのか……クソッ)
バエトの脳裏に、狼たちに体中の骨がかみ砕かれる
イメージが浮かんだ。
視界が、暗くなる。
その時。
ギャン! という狼の悲鳴が聞こえた。
すると音もなく。
一頭。
そして、また一頭。
そして狼たちが、一斉に後ずさる。
唸り声が消える。
やがて。
群れは、去った。
ただ、そこには1頭のひと際巨大な狼が横たわっていた。
この群れのボスなのか。
「死んでる…」
どこにも外傷が無い。
しかし、その狼は息絶えていた。
「……は……? た…助かった…」
バエトは、倒れたまま、空を見る。
誰もいない。
何もない。
やがて川の音と小鳥の鳴き声が戻り
生暖かい風だけが、通り過ぎた。
◆
暫くして、バエトは立ち上がった。
川を渡ったところから、辛うじて道とわかる
草の生えていない場所が見えた。
体中がズキズキと痛み、頭はガンガンし、気分は最低だった。
このまま地面に倒れれば、やがてすぐに睡魔が襲って
くるだろう。
だがそうなれば、魔物に食い殺されるのは目に見えていた。
バエトは歯を食いしばり小道に歩を進めた。
彼は気が付いていないが、ここはすでに中立地帯に
入っていた。
太陽が丁度真上にあった。
この季節は日中と夜での寒暖差が激しい。
気温は上昇し、暑さもまたバエトの体力を少しずつ奪っていった。
意識が朦朧とし始めたのか
視界が霞んだ。
その時、横の茂みがガサガサと揺れた。
バエトは咄嗟に身構える。
そして茂みから何かが出てきた。
「!?」
飛び出てきたのは幼い女の子だった。
泣きながらバエトの方に走って来たのだ。
「ちょ‥なんだ?」
戸惑うバエトをしり目に女の子はバエトに抱きついた。
「どうした? なんでこんな所に?」
バエトはしゃがんで少女と目線を合わせて問うた。
少女はワンワンと鳴くばかりで埒があかない。
白い肌、金色の髪、尖がった耳、緑色の瞳。
(ハイエルフだ)
体中泥だらけ、裸足であちこちに傷がある。
服は破け、背中には酷いやけどの跡があった。
バエトはしばらく考えた。
(置いて行けば……くそ……)
「……兄ちゃんの背中に乗りな。一緒に行こう」
そう言ってバエトはハイエルフの少女を背中に背負い
歩き出した。




