64話 さらば、誇り高き竜人
俺は振り向くと同時に、片膝をついた。
傷は癒えている。
体力も戻っているはずだった。
それでも頭の奥が割れるように痛い。
精神に溜まった疲労が限界を超えていて、自分でもわかる。
無理にポーションを何本も流し込んだ反動が、今になって体を蝕む。
視界が揺れ、色がにじむ。
耳鳴りが遠くで響き、息が浅くなる。
伏せていた周囲が、爆発の余韻が収まるのを待って、ゆっくり顔を上げた。
一拍遅れて、あちこちから歓声が湧き上がる。
勝利の喜びが、遅れて場を満たしていった。
叫び声が重なり、涙混じりの笑いが混じる。
でも俺の耳には、まだ遠く聞こえる。
俺も立ち上がろうとした。
だが、足元がふらつき、体が前に流れる。
膝が折れ、視界が傾く。
その瞬間、柔らかな感触が頭を受け止めた。
温かく、優しい布の感触。
甘い香りが鼻をくすぐり、胸の谷間に顔が埋まるような柔らかさ。
「シビさん。無茶しすぎですわ」
エレナの声だった。
俺が崩れたのを見て、咄嗟に駆け寄って支えてくれたのだろう。
視界いっぱいに、彼女の金髪と白い衣が広がっている。
どうして胸に着地したのか、自分でもよくわからなかった。
柔らかな膨らみが頰を優しく包み、鼓動が伝わってくる。
エレナの息が少し乱れ、彼女の体温が俺の疲れた体に染み込んでくる。
恥ずかしいのに、力が抜けて、離れられない。
ヒルダたち、前線に出ていた炎の民の幹部たちも駆け寄ってきて、口々に賞賛の言葉を投げかける。
「よくやった!」
「これで終わりだ!」
喜びの声が重なり、熱い息が俺の頰を撫でる。
でも、そのときだった。
破裂したはずの龍角の細胞が、砂の中から蠢き始める。
黒ずんだ肉片が、引き寄せられるように集まり、再び形を成そうとしていた。
砂がざわめき、湿った音が響く。
肉が蠢く不気味な脈動が、地面を震わせる。
勝利の空気は、一瞬で凍りついた。
歓声がぴたりと止まり、息を呑む音だけが残る。
周囲の顔から血の気が引き、恐怖が広がる。
瞳が大きく見開かれ、手が震え、足が後ずさる。
俺自身も理解していた。
もう、手札はすべて切っている。
今の俺には、あれに対抗する術は残っていない。
体は再生したはずなのに、精神の疲労が限界を超え、頭の奥がずきずきと痛む。
視界が狭くなり、息が浅くなる。
誰も動けなかった。
蛇に睨まれた蛙のように、その場に止められている。
空気が重く、冷たく、肌があわ立つ。
心臓の音が、耳元で鳴り響く。
俺はミスリルソードを杖代わりにして立ち上がり、エレナを後ろへ押しやった。
剣の柄が掌に食い込み、指が震える。
「シビさん、逃げましょう。無理ですわ」
エレナの声だった。
慈愛に満ちた彼女も、生き物としての本能が訴えてるのだろう。
瞳が潤み、唇が震え、錫杖を握る手が白くなる。
手を出すなと、逃げろと。
逃げることは恥だと言う者もいる。
だが、逃げるのは恥じゃない。
生きていれば、次がある。
「に……逃げてどうする。奴は、俺が死ぬまで追ってくる」
息を整えながら、エレナを見る。
彼女の金髪が、微かに揺れている。
「……でも、エレナは逃げろ」
今できる限りの笑顔を作って、そう言った。
頬が引きつり、胸が痛む。
エレナだけでも逃げる時間を作りたい。それだけを考えていた。
「恥ずかしいですけれど……神の教えに反するかもしれませんが、シビさんは出来ることをしましたわ。逃げましょう。これ以上戦っても、犬死ですわ」
エレナの声が震えていた。
錫杖を握る手が白くなり、肩が小さく上下する。
彼女の金髪が微かに揺れ、息が浅く、熱い吐息が俺の頰に触れる。
「お……俺は……俺のせいで、誰かが死ぬのは、もう嫌なんだ」
ふらつく足で、一歩、また一歩と、再生しつつある龍角へ近づく。
地面が冷たく、膝がガクガク震える。
視界が狭くなり、頭の奥がずきずきと痛む。
でも、止まれない。
止まったら、すべてが終わる。
「立てる者は、全員この場から逃げろ」
俺は奴の前に立ち、ミスリルソードを振りかざした。
あれほど軽かった剣が、今は異様に重い。
柄が手の平に食い込み、指が震える。
振れば斬れたはずの刃が、もう何も倒せないことが、嫌というほど伝わってくる。
金属の冷たさが、疲れた体に染み込む。
再生した龍角の手が伸び、ミスリルソードを掴んだ。
鱗のざらつきが剣身に伝わり、指が締め上げる力が強い。
もう片方の手が、終わりを告げるように、俺へ向けて開かれる。
爪が光り、影が俺を覆う。
「終わりだ、娘よ」
低く、静かな声だった。
威圧ではなく、どこか疲れた響き。
瞳が濁りながらも、俺をまっすぐ見つめている。
「俺も、もう戦う力はない。ただ……俺を倒した者の名を、知りたくてな」
「俺の……私の名前は……アヤ。シビだ」
いつもの口調を捨て、強敵への敬意を込めて答える。
声が震え、喉が乾く。
でも、ちゃんと伝えたかった。
自分の名を、相手に刻むように。
「俺の名は、ザハク。ザハク・アズライールだ」
「覚えておくよ。誇り高き龍人、ザハク」
「俺の命も、もう数分か。それも悪くない」
ザハクは静かに言った。
声に、諦めと、どこか安堵が混ざる。
鱗の隙間から、微かな熱気が漏れる。
「アヤ。伝えることがある。俺を倒した褒美だと思えばいい」
攻撃手段を失った俺に、拒む理由はなかった。
黙って、言葉を待つ。
息が浅く、心臓の音が耳に響く。
でも、耳を澄ませた。
この瞬間が、すべてを終わらせる鍵になるかもしれない。
「お前は、この紋章を知りたいと言っていたな」
ザハクの声が、低く響いた。
鱗の隙間から漏れる微かな熱気が、俺の頰をそっと撫でる。
瞳が濁りながらも、俺をまっすぐ捉えていて、息が詰まるような静けさが広がった。
「ああ。少しばかり、因縁があってな」
俺は喉の奥から声を絞り出す。
剣を杖代わりにした手が、まだ震えていた。
胸の傷跡が疼き、息が浅くなる。
「二千年前の話だ。人が知らぬのも無理はない。長命なエルフでさえ、千年が限界だろう」
ザハクの言葉に、わずかな疲れが混ざる。
巨体が微かに傾き、砂に埋もれた鱗がざらりと音を立てた。
周囲の空気が、さらに重くなる。
誰も息をせず、ただ聞き入っている。
「……何の話だ」
「この紋章を作ったのは、人間たちだ」
その一言で、場が凍りついた。
歓声の余韻が完全に消え、息を呑む音だけが残る。
俺の胸に、妙な納得が広がった。
地下施設で見た、倫理の欠片もない研究。
人間が魔物を兵器として扱うことを考えても、おかしくない。
反対に、それを称賛する連中がいても不思議じゃない。
人に害なすしかないものを、益として見るんだから。
ザハクの瞳が、静かに俺を映す。
鱗の間から、微かな蒸気が立ち上る。
「……なら、なぜあのミノタウロスが紋章を持っていた」
俺の声がかすれる。
頭の奥がまだ痛み、視界が揺れるけど、耳だけは澄ませていた。
「俺は頭もいいからな。貴様ら人間が自滅した時に知識として覚えたそれだけだ。人も俺達も何も変わらん。欲望で動く。そして遅かれ早かれ滅ぶ。お前たち人は滅んだのち、またこのように生き延びてるのだから、俺達より図々しいのかもな」
ザハクの言葉は、静かで、どこか自嘲を含んでいた。
鱗の隙間から、微かな熱気が漏れ、砂がじりじりと焦げる音がする。
周囲の空気が重く、誰も動けず、息を殺して聞いている。
「そうかもな。だがここに来た甲斐はあったよ」
俺は小さく息を吐いた。
胸の傷跡が疼くけど、妙な納得が広がる。
ザハクは指にはめていたリングを外し、俺に投げ渡した。
金属が弧を描き、砂に落ちる前に俺の手のひらに収まる。
冷たくて重く感じた。
見たことがない材質だった。
銀でも金でもない、黒みがかった青みがかった光沢。
表面に細かな渦巻きのような模様が刻まれていて、光が当たるたびにゆっくりと回転しているように見える。
触れると、指先に微かな振動が伝わり、まるで生き物のように脈打っている。
金属なのに、温かみがある。
いや、冷たいのに、心の奥まで染み込んでくるような、奇妙な温かさ。
指輪の内側に、古代の文字のようなものが浮かび上がり、俺の体温に反応して淡く光る。
装着者の意志を読み取るように、ゆっくりと形を変えていく。
これはただの指輪じゃない。
ザハクの長い歴史と、失われた知識が凝縮された、何か……「鍵」のようなものだと直感が訴えていた。
「これは?」
「この街から出るための切符だ。それを着けた者と、あと一人ほどは自由に出られる」
「だが、俺の指には大きすぎる」
「装着者に合わせて大きさが変わる」
「……ありがとう。行くのか?」
「ああ。そろそろ時間だ」
ザハクは、わずかに笑った。
鱗の端が微かに光り、疲れた瞳に、最後の輝きが宿る。
「貴様ら人間如きにやられはしたが、最後は自分の足で終わる」
俺は数歩、後ろへ下がる。
ザハクの巨体がゆっくり息を吸い込み、空気が震える。
「我が名は、ザハク・アズライール。さらばだ。不思議な少女、アヤよ」
次の瞬間、ザハクは自らの手のひらから、凄まじい炎の奔流を放った。
炎は弧を描き、Uターンするようにして、彼自身を優しく包み込む。
黄金と深紅の炎が渦を巻き、鱗を溶かし、肉を焼き、骨を照らし出す。
轟音が闘技場を揺らし、吹きつけた熱風が髪を跳ね上げ、頬をなでるように熱が走った。
ザハクの姿が、光と熱の中でゆっくりと崩れていく。
翼が燃え尽き、角が赤く輝き、最後に瞳が俺を捉えて、静かに閉じる。
炎の渦は、まるで彼の魂が昇華するように美しく舞い上がり、
空に黄金の尾を引いて、ゆっくりと溶けていった。
静寂が訪れる。
ザハク・アズライールの存在が、この世界から完全に消えた瞬間だった。
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