62話 絶望
龍角が巨大な翼を広げた瞬間、闘技場の空気がびりびりと震えた。
革のような質感の黒い翼膜が、陽光を遮って巨大な影を落とし、地面に落ちた影はまるで生き物のように蠢いている。
奴はゆっくりと、しかし確実に上空へ舞い上がっていく。
その姿は、まるで古い神話から抜け出してきた悪魔そのものに見えた。
角が空を切り裂く音すら聞こえてきそうな、威圧感たっぷりの上昇で俺を見上げていた。
「エレナはここで防御とサポートを」
俺はエレナに短く指示を飛ばした。
彼女は一瞬だけ俺の顔を見て、すぐに頷く。
その瞳には、迷いなんて微塵もない。
信頼されてるって実感が、胸の奥で熱く疼いた。
「シビさんは?」
エレナの声が、少しだけ心配げに響く。
俺は龍角を指差した。
奴はもう、かなりの高さまで昇っている。
風を切り裂く翼の音が、遠くからでも耳に届く。
「俺は、あそこに行ってくる」
言葉に力を込めて、俺は深く息を吸った。
肺の底から、魔力を一気に引き上げる感覚。
全身の血管が熱くなり、肌がざわつく。
「風よ、流れとなれ。我が身を優しく、裂けぬ速さで運べ。疾風迅駆!」
「通常の飛行呪文で戦うなんて無理ですわ!」
エレナの声が隣から伝えられた。
詠唱が終わった瞬間、周囲の空気が俺を中心に渦を巻いた。
優しい、でも容赦ない風が俺の全身を包み込む。
まるで巨大な手のひらに抱き上げられたような、ふわりとした浮遊感。
次の瞬間、その手のひらが一気に握りつぶすように締め上げて加速しながら上昇した。
視界が一瞬で引き延ばされ、世界が縦に歪む。
耳元で風が唸り、髪が激しくなびく。
地面が遠ざかり、闘技場の石畳が一瞬で点のように小さくなる。
俺の身体は、もはや俺の意志だけで動いているんじゃなくて、風そのものに運ばれている感覚を覚えた。
空を飛ぶ鳥……いや、それよりもっと速いかもしれない。
隼が獲物を狙うような、鋭くて、迷いのない一撃の軌跡。
龍角の姿が、急速に近づいてくる。
奴の瞳が俺を捉えた瞬間、嘲るような笑みが広がったのが見えた。
「来るか、人間……」
その声が、風の隙間から届く。
でも俺は、もう止まらない。
間合いに入った瞬間、俺は右手を掲げる。
「暗黒の矢よ、敵を貫け。魔法の矢!」
放たれた魔力の矢は龍角へと一直線に飛ぶ。
だが、奴は防御する素振りすら見せず、ただ俺を睨みつけた。
次の瞬間、魔法の矢は命中することなく、その周囲で霧散した。
嫌な予感が走る。
龍角が手の平をこちらに向けた瞬間、巨大な炎の奔流が空間を焼き裂いた。
「業火の精霊よ、我が意に従い、敵を焼き尽くせ! 火炎流!」
詠唱が終わった瞬間、俺の手のひらから灼熱の赤黒い奔流が爆発的に噴き出した。
空気が一瞬で熱を帯び、掌の皮膚がジリジリと焼ける感覚が走る。
炎は轟音を立てて龍角に向かい、正面から奴の業火と激しく衝突した。
二つの炎がぶつかり合う音は、まるで鉄を叩きつけるような金属的な爆ぜ音。
俺の火炎流は最初、勢いよく相手を押し返し、龍角の黒い鱗がオレンジに輝いて歪むのが見えた。
熱風が顔に叩きつけられ、髪が逆立ち、目が熱で滲む。
だが――。次の瞬間、龍角の炎が不気味に色を変えた。
深紅から漆黒の紫が混じり、温度が急激に跳ね上がるのが肌でわかる。
俺の炎が、まるで溶ける氷のように一瞬で飲み込まれ始めた。
熱が逆流して掌を焼き、魔力の流れが乱れて指が痺れる。
視界が炎の海に埋め尽くされ、息を吸うたびに肺が火傷したように痛い。
黒縁の熱波が俺を包み込み、服の端がチリチリと焦げ、煙が鼻を突く。
「くそっ……!」
俺は咄嗟に疾風迅駆の残りを絞り出し、身体を下方へ叩きつけるように急加速させた。
炎の端がかすめ、背中が焼けるような激痛が走る。
風圧と熱波が同時に全身を襲い、視界が白く飛び、一瞬意識が遠のいた。
気づいた瞬間、奴はもう目の前にいた。
奴は一回転し、尻尾を叩きつける。
俺はなすすべもなく吹き飛ばされ、闘技場の壁に激突した。
背中から骨が軋む衝撃が走り、肺の空気が一気に吐き出される。
「ぐっ……!」
まずい。紋章の力が完全に想定外だ。
俺は歯を食いしばって立ち上がり、再び龍角と対峙する。
俺は先ほどのコンボを、もう一度叩き込むことにした。
魔力の刃でミスリルソードに魔力を注ぎ込み、刃の伝導率を極限まで高める。
剣身が青白く輝き始め、触れた空気が微かに震えるのがわかる。
さらに雷鳴の裁きを剣に落とし込む。
空から落ちてきた雷が剣に吸い込まれ、刃全体が紫電を纏ってビリビリと痺れる音を立てた。
雷神の剣――これで決める。
そして――戦士最大奥義。
断轟。
俺は一気に距離を詰め、地面を蹴って飛びかかる。
全身の筋肉が悲鳴を上げながらも、風を切り裂く勢いで加速した。
「雷鳴の轟だぁぁぁっ!」
剣と奴の爪が激突した瞬間、凄まじい金属音が闘技場全体に響き渡った。
衝撃波が空気を震わせ、俺の耳が一瞬キーンと鳴る。
火花が散り、雷が爆ぜる。
だが今度は、奴の爪は折れなかった。
鍔迫り合い。
剣と爪が絡み合い、互いの力が拮抗する。
間近で龍角がにっと笑う。
その瞳に、俺の姿が映り込んでいた。
嘲笑と、楽しげな光。
次の瞬間奴の右手の矛が、俺の腹を貫いた。
鋭い痛みが爆発し、息が止まる。
血の味が口に広がり、視界が赤く染まる。
そのまま持ち上げられ、身体が宙に浮く。
急回転。
世界がぐるぐる回り、闘技場の天井が床に変わる。
野球のオーバースローのように振り抜かれ、俺は投げ捨てられた。
地面に叩きつけられ、転がる。
骨が軋む音が体中に響き、肺の空気が一気に吐き出される。
痛みが全身を駆け巡り、息ができない。
「シビさん!」
エレナの悲痛な声が、遠くから聞こえた。
仲間たちの気配が動こうとするが、龍角の威圧で近づけないのがわかる。
俺は転がりながら、震える手でポケットの中の魔力回復薬を掴み、蓋を歯で引きちぎって一気に飲み干した。
苦い液体が喉を滑り落ち、体内で魔力が急速に回復し始める。
まだ……まだ終わってねぇ。
龍角は動かない。
上空でゆっくり翼を広げ、俺を見下ろしている。
まだ何かあるだろう、と言わんばかりに。
その瞳が、静かに俺を待っていた。
俺は意識を内側へと集中させる。
この技なら……多分、倒せる。
「あんまり舐めてると、足元すくわれるぞ!」
龍角の嘲笑が空気を震わせる。
「どうせ理知的に動けるのはこの戦闘だけだ。貴様を、最後の誉れとしてやる。がっかりさせるな」
俺は唇を噛みしめ、息を整えた。
もう後戻りはねぇ。
「水よ、回れ。刃よ、刻め。渦巻く螺旋が、すべてを切り裂く――螺旋刃!」
左手に、高速回転する水の刃が生まれる。
透明な水が渦を巻き、鋭い音を立てて空気を切り裂く。
あの強化ミノタウロスに使った技だ。
水の圧力が肌を震わせ、手のひらが痺れるほどに凝縮されている。
「ミノタウロスと同じだと思っているのか? 笑止!」
俺は駆け出しながら、自分の太ももに触れ、さらに詠唱を重ねる。
「加速!」
身体が軽くなり、視界がわずかにスローモーションになる。
足が地面を蹴るたび、風が耳元で唸る。
続けざまに、別の言葉を吐き出した。
「虚ろなる鏡の欠片よ、我が周囲に舞い降りよ。真実を隠し、偽りを踊らせよ――幻鏡!」
視界が揺らぎ、俺の姿が三体に分裂する。
三体の俺が同時に駆け、左右と正面から奴に迫る。
どれが本物か……防げるものなら、防いでみろ。
俺は低くしゃがみ、螺旋刃を自身の体に当てた。
高速回転する水が、龍角の強靭な鱗を削り取り、肉を抉る。
鮮血が飛び散り、奴の咆哮が闘技場を揺らした。
だが、奴は構わず殴りかかってくる。
巨大な拳が風を切り裂き、俺の幻影の一つを粉砕する。
俺は後方へ跳び、詠唱を開始する。
「天より落ちる紫の罰よ……稲妻を集め、槍を成せ……貫け、魂まで焼き尽くせ……!」
左手に紫電をまとった投げ槍が形を成す。
雷の槍先がビリビリと痙攣し、空気が焦げる臭いがした。
俺はそれを、奴の傷口へと投げ放った。
水は電気を通す。
雷撃は外皮を無視し、内側から巨躯を焼き、強制的に麻痺させた。
龍角の巨体が一瞬硬直し、鱗の隙間から紫の火花が噴き出す。
着地と同時に、俺は再び走り出す。
頭が割れそうに痛い。
魔力が枯渇寸前で、視界がチカチカする。
完全にキャパオーバーだ。
だが、ここで決め切る。
「燃えろ、炎よ……剣に宿れ。炎剣!」
ミスリルソードが赤く燃え上がり、刃が揺らめく炎に変わる。
熱気が頰を炙る。
俺は突進技の牙衝で、再生途中の傷口へ突き刺し、即座に離脱した。
その直後大爆発した。
感電の麻痺が爆発を内側から増幅し、蒸発反応が熱を倍加させる。
三段攻撃の連鎖が、龍角の巨体を内側から引き裂く。
爆音が闘技場を震わせ、黒煙と炎が巻き上がった。
これで倒せないなら、もう打つ手がない。
俺は息を荒げ、剣を構えたまま奴の姿を睨みつけた。
……終わったか?
――だが。
爆煙がゆっくりと晴れていく中、俺は見てしまった。
龍角の腹に開いた巨大な風穴が、まるで時間が巻き戻るように急速に塞がっていく。
肉が蠢き、鱗が再生し、焼け焦げた組織が新しく生まれ変わる。
トロール以上の――いや、もはや常識を超えた再生能力。
穴の縁が蠢く音が、静かな闘技場にまで響いてくるようだった。
思わず、絶望が胸をよぎる。
心臓が冷たく締め付けられ、息が一瞬止まった。
これまで積み重ねた攻撃が、すべて無駄だったかのように感じる。
三段攻撃の連鎖も、雷も炎も……奴の体を一時的に抉っただけか。
龍角が理性をほぼ失った咆哮を上げた。
低く、獣のような、しかしどこか嘲るような声。
その瞳は赤く燃え、俺を完全に獲物として捉えていた。
奴の翼が一気に広がり、地面を蹴る衝撃で石畳が砕け散る。
一直線に――こちらへ突進してきた。
風圧が顔を叩き、髪が乱暴に揺れる。
距離が一瞬で縮まり、奴の影が俺を覆った。
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