58話 絶体絶命の後のご褒美?
死の熱風が、すぐそこまで迫っていた。
視界のすべてが、ドス黒い赤に染まり上がる。
突進してくるミノタウロスの巨躯は、もはや生物のそれではない。
全身を包む燃え盛る闘気が、周囲の空気を猛烈な勢いで焼き焦がし、陽炎となって空間を歪ませている。
一歩踏み込むごとに、大地が爆ぜ、溶解した土が火花となって飛び散る。
熱い……、空気が焼けて……ッ!
肺に吸い込む空気は、喉を焼くほどに熱を帯び、酸欠に喘ぐ胸の奥がジリジリと悲鳴を上げる。
網膜に焼き付くのは、赤熱し、溶岩のように脈打つダイアモンドの皮膚。
そして、頭上から振り下ろされる絶望の質量。
「ア、アァァァァァァァッ!!」
理性を焼き切った魔物の咆哮が、物理的な衝撃波となって俺の鼓膜を叩き割る。
振り上げられた巨斧は、噴き出す炎の尾を引きながら、天を裂く巨大な火柱と化していた。
刃が空気を切り裂くギギギという金属的な軋みが、死の秒読みとして脳髄に直接響き渡る。
動け。動け、動け、動け。
俺の意思を裏切り、限界を超えた筋肉は石のように硬直したまま、地面に根を張ったように動かない。
指先から感覚が消え、ただ、目前まで迫った炎の刃が放つ強烈な輻射熱だけが、肌をジリジリと焼き焦がしていく。
死の匂いがする。それは鉄が溶ける不快な臭気と、自らの髪が焦げる異臭が混ざり合った、逃れようのない終わりの予感。
振り下ろされる炎の巨斧。その圧倒的な熱量に、周囲の霧も、爆煙も、一瞬で蒸発して消失した。
無慈悲なまでに輝く赤。その一閃が、俺の頭上を完全に覆い尽くした――。
断轟
その瞬間、二つの声が同時に響き、圧倒的な破壊力が放たれる。
黒き風の刃がミノタウロスに向かって切り裂き、周囲の空気が圧縮され、衝撃波となってミノタウロスを一瞬で吹き飛ばしていた。
俺の体は、まるで空気に包まれているように浮き上がり、軽く引き寄せられる感覚があった。
視界がブレて、目を開けるのが一瞬遅れた。
気づいた時、俺は戦闘の激しさから少し離れた場所に移動していた。
周囲は依然として炎と煙で包まれ、耳をつんざくような音が響いているけれど、後方では戦闘音が聞こえていた。
冷たい風が頬を撫で、熱気とは異なる感覚で肌を包んだ。
その瞬間、呼吸が楽になったことに気づく。喉に刺さるような焼けつく空気から解放された。
「相変わらず無理をしていますわ」
エレナの優しい声が、俺を包み込むように響く。
心配してくれているその言葉に、少しだけ安心が広がった。
でも、どうして彼女がここにいるのか、わからなかった。
俺が疑問を抱えていると、黒衣の衣装に身を包んだ魔術師ジグだった。
「念動力の呪文が間に合ってよかった」
ジグの声が耳に届いた。テレキネシス、なるほど。ジグの魔法で俺はここに運ばれたらしいということが分かった。
そうじゃない。
あの化け物と戦っているのは、総司令官のヒルダと、戦闘隊長のイヴァン、斥候隊長ロジャーズだった。
いわゆる本部で負傷者を管理しているアーガイル以外こちらに来ていた。
「おいおい、幹部全員来てたら」
僧侶のアーガイルはもともと本部の後方指揮官だから出て来れないのは当たり前だが、それ以外来てたらまずいだろうが。
「お前のドライアイスの効果が意外なほど強くてな、ある程度は制圧できた。門が開いたということで、本隊はこちらに来たわけだ」
「それには心配ありませんわ。思った以上の被害が少ないのと、もしかしたらあなたが無理をなさっているかもしれないから、アーガイルさんが、手伝ってきてほしいと言われてこちらに来ましたわ」
俺も手伝わないと――そう思って、腹に力を入れた。
その瞬間、足の裏がふっと抜ける。
床が遠のいたみたいに感じて、膝が勝手に落ちた。
視界がぐらりと振れて、炎の赤と煙の灰が一本に混ざる。
耳の奥で戦闘音だけが残って、体の芯だけが置き去りだ。
倒れるのを止めようとして手を出した。
でも、腕が言うことを聞かない。
指先が空を掻いて、何も掴めなかった。
次の瞬間、肩を押さえられた。
倒されるというより、止められた、って感じだった。
力でねじ伏せるんじゃなくて、立ち上がる余地をきっちり潰してくる動き。
後頭部に柔らかい感触が当たって、熱がじわっと移る。
布越しの体温と、薬草の匂いが近い。
息を吸った瞬間、鼻の奥までそれが入ってきた。
距離が近すぎて、どこに頭が落ちたのか一瞬で分かった。
心臓の鼓動みたいなものが、耳のすぐ横でとん、とん、とん、と続く。
妙に落ち着く。
落ち着いてしまうのが、余計に腹立たしい。
「……いま、そんな状態じゃないだろうが」
口から出た声が、自分でも薄いって分かった。
強がりのつもりなのに、喉の奥が熱くて、息が続かない。
分かってる。
足が立たない。腕も重い。
なのに、分かってるからこそ腹が立つ。
情けなさが先に来て、次に苛立ちが来る。
それを、後頭部の柔らかさと体温が、無理やり落ち着かせてくる。
落ち着いてしまうのが、また腹立たしい。
「まともに動けないシビさんが行っても、邪魔になるだけですわ」
エレナの声は穏やかだった。
刺すみたいな厳しさじゃない。
それでも、引かせる力がある。
肩に触れている指先が、軽く食い込む。
強く押してるわけじゃないのに、逃げようとすると、その分だけ動けなくなる。
行かせない。
そう言われてるのが、言葉より先に、感触で分かった。
俺は目を伏せた。
言い返せない。言い返したくても、喉が詰まって、声が出ない。
エレナは俺の体を支えたまま、ゆっくりカバンに手を入れた。
布が擦れる小さな音。
次に、青い小瓶が指先に引っかかる気配。
栓が抜けた瞬間、匂いが来た。
薬草の青臭さに、金属みたいな硬い匂いが混じって、鼻の奥がつんとする。
見なくても分かる。
俺がいつも使ってる、魔力回復系のポーションだ。
瓶が唇に近づいて、冷たさが触れる。
「飲んでくださいまし」
声は小さいのに、逃げる余地がない。
抵抗する気力もなくて、俺は口を開けた。
冷たい液体が喉を滑り落ちる。
一瞬で胃に落ちて、そこから熱が逆流するみたいに広がった。
空っぽだった身体の内側に、もう一度、芯が戻る。
血の流れに乗って、急に、ぐっと巡り始める。
いつもの奴より強力な奴だとわかった。
指先がピリピリ痺れて、感覚が戻ってくる。
ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻す。
エレナは瓶をカバンに戻しながら、俺の顔を覗き込んだ。
青い瞳が、少し潤んでる。
「……もう少し、休んでくださいまし」
その声は、優しくて、でもどこか切なくて。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「わかった……少しだけな」
エレナの体が、ふっと緩んだ。
俺の胸に顔を寄せて、
小さな声で呟く。
「シビさんは、生き急ぎすぎですわ。いろいろな人のために考えて動きますが、ご自分は計算に入れてないように思えます。シビさんが死んだら悲しむ人もいるんですよ」
その言葉に、俺の胸が痛んだ。
そうだよな。エレナは今俺の旅のパートナーなんだ。
俺がエレナを心配するのと同じでエレナも俺を心配する当たり前だ。
俺が生きていた時代でも残された人の悲しみはよく知ってるじゃないか
それをエレナに味合わせようとしていたのかもしれないな。
こんな職業をしているんだ。いつ命が無くなっても仕方ないけど、それは生きる努力をしてやむない場合のみだ。
またこいつには教えられたな。
俺はゆっくり手を上げて、エレナの背中に触れた。
細い。指先に、骨の輪郭がはっきり分かる。
それに、わずかな震えが伝わってきた。
「わかった……少しだけ、休む」
その言葉に、エレナの体がほんの少し近づく。
支えるように引き寄せられて、
俺の顔が、そのまま彼女の胸元に触れた。
エレナは頷くだけで、何も言わない。
胸で受け止めるみたいに、静かに抱き留めてくる。
「……ありがとうございます。シビさん」
その声は、泣きそうで、でもどこか安堵が混じっていた。
俺はもう一度、エレナの背中に腕を回す。
引き寄せると、薬草の匂いが近くなって、息と一緒に胸に落ちてくる。
「……お前がいなきゃ、俺は何回も死んでたな。ありがとう」
エレナは小さく頷いた。
顔は上げない。
俺の胸元に、そのまま額を預けてくる。
「だから……今は、そばにいてくださいまし」
俺は答えずに、ただ腕に力を込めた。
離さない、という意思だけを伝えるみたいに。
外ではまだ、叫び声と武器の音が続いている。
後方で、鼓膜を震わせる轟音が響いた。
地面から伝わる振動が、泥のように沈んでいた俺の意識を無理やり引きずり戻す。
「……う、ん……?」
覚醒した瞬間、後頭部に感じたのは、驚くほど柔らかく、温かい感触だった。
吸い込まれるような弾力と、布越しに伝わる生々しい体温。
鼻の奥をくすぐる薬草の香りが、俺の混乱をいっぺんに加速させる。
目を開けた瞬間、思考が焼き切れた。
目の前――いや、鼻先のすぐ数センチ先。
膝枕で仰向けになった俺の視界を占拠していたのは、乱れた聖衣の裾の奥だった。
そこから漂う熱気に、心臓が爆発しそうなほどの警鐘を鳴らす。
「っ……!!」
まずい。これは死んでも見ちゃいけない聖域だった。
反射的に、獲物から逃げる小動物のように視線を上へと跳ね上げた。
だが、そこはさらなる絶壁だった。
「ひっ……!?」
跳ね上げた視線の先に、今度は二つの塊があった。
重力に従って、俺の顔のすぐ上に垂れ下がるように近づき、
視界の左右に、逃げ場のない輪郭を描いている。
白い法衣がきゅっと張り、
彼女が息をするたび、
その起伏が小さく、確かに上下していた。
近い。
距離が、致命的に近すぎる。
「……シビさん、お目覚めですか?」
その声で、ようやく現実に引き戻される。
エレナの声はいつも通り優しい。
けれど、どこか少しだけ拗ねたようにも聞こえた。
俺は慌てて咳払いをして、必死に平静を装う。
「ああ……ちょっと、楽になったみたいだな」
実際、かなり楽になってた。
あのメンタルポーションと、エレナの手当てのおかげだろう。
体の内側で、魔力が戻ってくるのが分かる。待つ回復じゃない。血の流れに乗って、急速に巡っていく。
「戦闘中にいちゃつくなんて、いいご身分だな」
後ろから、イヴァンの声が飛んできた。
俺は反射で頭を起こし、エレナの膝から離れる。
座り直して、顔を背けた。完全に体調が戻っていることを実感した。
「炎の民の幹部が四人いれば安心だなぁって思って、休ませてもらった。あとピンチの時、助けてもらって助かった」
「見たところ、ミノタウロスだったが……あれは変種か何かか?」
ヒルダが、剣を下げたまま俺を見る。
戦いが終わった直後の目だ。
まだ熱が残ってるのに、判断だけはもう次に向いている。
俺は一度、息を整えてから頷いた。
「ああ。あれが、俺たちが追ってる紋章の件だ」
言葉にすると、喉の奥が少し重くなる。
「あいつの体にも、確かについてた。正直、ここまでとは思ってなかった。人語を話す上に、あの能力だ……普通の変種って枠じゃ収まらない」
周囲に視線を巡らせる。
炎の民の幹部全員が戦闘の余韻をまとったまま、こっちの話を聞いている。
俺は細かい経緯は削って、要点だけを拾って説明をした。
紋章のこと。
これまでに遭遇した相手。
そして、あのミノタウロスが示した異常性。
誰も口を挟まない。
それだけで、伝わっているのが分かった。
短い沈黙のあと、俺は城の方を見た。
黒い石壁は、さっきより近く感じる。
「……さて」
自然と声が前に出る。
「それじゃ、あの城に入るとしようか」
ヒルダが軽く顎を引き、イヴァンと視線を交わしていた。
「綾とエレナ、アーガイル、イヴァンで突入してくれ。私とジグはここで指示と後始末よ」
ヒルダは不敵に笑い、ジグは無言で杖を持ち替える。
背後にはまだ戦場の匂いが残ってる。
でも、もう振り返らなかった。
俺達は一歩、城の中へ向かって踏み出した。
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