183話 影の最後と自分の代償
砕け散った七色の鏡の破片が、地上にいる影めがけてどんどん降り注ぎ、そのまま抗う間もなく奴の体の中へと吸い込まれるように次々と入っていった。
「これがなんだというのだ! 術の失敗をしたのか? 残念だったな!」
影は、自身の身体に起きている異変に気づかず、勝ち誇ったようにそう叫んだ。
奴は渾身の力をその脚に込め、こちらへ向けて突進するために凄まじいダッシュを開始した。
エレナの張ってくれている黄金の防御壁も、もうこれ以上の連続攻撃には耐えられず限界だろうと見越しての、必殺の一撃を狙った突入だった。
だが、奴の凶刃がこちらに届くまさにその瞬間、影の異形の姿が、足元からパリンとガラス片のように脆く崩れ始めていった。
――ガシャァァンッ!!
凄まじい音を立てて身体が砕けていく。奴の身体は、黄金の防御壁のすぐ目の前で、勢いあまったまま前のめりに、倒れ込んでいった。
「な・何をしたぁ~~~~~~~~~~ッ!!」
自身の肉体が結晶のように崩壊していく恐怖に、影が絶叫を上げる。
「俺も、まだもう少しだけ時間は残されているみたいだな。――お前がここでやろうとした事と、お前の存在そのものを、世界の因果から粉々にしてもらったよ」
「そんな事が……っ、あり得るわけが……!」
砕けゆく顔を恐怖に歪める影に向けて、俺は静かに告げた。
「媒体は、自分自身。術者が死ぬこそはないけど、それ相応の、極めて重い物が代償として支払われる。
ただし、その力量によっては、どんな願いでも完璧に叶えられる、これこそが魔術師の奥義だ!」
「なん……だと……」
俺は、自分の顎に右手の人差し指をあて、ゆっくりと奴に向かって足を進めた。
恐怖と絶望に動揺する奴の顔を冷淡に見下ろしながら、俺は、まるで退屈な授業でも始めるかのように、至極淡々とそいつに教えてやった。
「いつも思うんだけどな、魔術っていうのを戦闘中心の道具だとばかり考えている奴らが、この世界には多すぎるようだな。魔術って言うのはな――本来、人間に出来ないことを、出来るようにする現象の事そのものを言うんだよ」
心のどこかで、まだ俺自身の時間は残っているな、と冷静に数えていた。
術をかけたらその瞬間にすべての効果が起きて俺の意識も消えると思っていたけれど、まだ辛うじて、俺という存在の輪郭はここに残っている。
「例えばな、もっと速く走りたいと人間が願ったから、加速の呪文が生まれた。空を自由に飛びたいと望んだから、飛翔の呪文が出来たんだ。火球や雷撃の呪文なんていうのは、その膨大な現象の一端、ただの応用に過ぎないんだよ」
だから、俺は日々周囲の連中にも言い続けているんだけどな。
魔術の本質は、暴力ではなく学問だと。
――それを分かっていない愚かな奴が、この世界には多すぎるんだ。
それゆえに、魔術の技術はどんどん失われて行っている。
「古代の魔術師達はな、神の奇跡の呪文に神降ろしの呪文があるのなら、魔術にもそういう万能の願いを叶える奇跡の呪文が出来ないかと必死に考えたらしいんだ」
静かに崩壊を待つ奴に向けて語りかける。
「そんな呪文が……」
崩れゆく身体のまま、影が信じられないといった様子で声を漏らした。
「あぁ。もちろん完成した時は、当時の魔術師達も歓喜したんだろうな。だが、この世のすべては等価交換だ。魔術の世界であってもそれは変わらん。その呪文を唱えた魔術師達は、発動した本当の代償が何なのかに最初は気づかなかったらしい。そして、その恐ろしさに気づいた時、彼らは二度と悪用されないように、その術式を三冊の魔導の本に分割して記載したんだ。普通に読んだだけではそれと分からないようにな」
俺は、神の特権であらかじめそれが失われし魔法の一つだと知っていたからこそ、その隠された記述のパズルに気づくことができただけだった。
もしもその特典がなければ、俺だってただの古い記録としてスルーしていただろうな。
「100万の金貨を手に入れるなどという、簡単な願いであれば、自らの戦闘技能の低下程度で済んだらしい。金額なんて所詮それだけのものだからだ。だが、効果が強くなればなるほど、術者自身に多大な犠牲が支払われることになる。……ただし、この術に自分の死は無い」
僧侶の呪文のように神をこの身に降ろした場合は、術者の魂そのものが内側から砕け散ると聞く。
それは、神というあまりに巨大な存在を、矮小な人間の身では支えきれないからだ。
だけど、この呪文は使用しても決して死ぬことは無い。
なぜなら、かつての魔術師たちは、死すら超越する呪文をこの世に存在させたのだからな。自らをアンデッド化させるとか、精神体として永遠に生きるとか、もはや人とは呼べない姿かもしれない。それでも、魔法の狂気にとらわれた彼らは、魔術のすべてを知りたくて永遠の命を得ることを望むそうだ。
「じゃあ、この呪文で使用する本当の代償は何だと思う? ――それは、自分の『存在』だ。存在とは何だろうな? 調べた結果、それは自分の『記憶』のことらしい」
この呪文は、使用した万華の鏡に、どういう代償が支払われるのかが明確に映し出される仕組みになっている。
そして今回、俺のすべてを代償として使用したのは、奴と魔紋――いや、正式名称は『鋼糸縫合』だっけか? 影と、奴がこの世界で成そうとしたあの計画の完全な破綻。それこそが、俺がこの術に望んだことだった。
鏡には、前世の俺の地球での歴史や、今までの記憶が走馬灯のように映し出されていた。
単なる一時的な記憶障害レベルだとは思っていたけれど……記憶が無ければ、いくら肉体が生きてはいても、その人間の存在は無いのと同じって事か。
俺の静かな説明が終わり始めた時には、もう影の身体は跡形もなく、粉々に砕け散り始めていた。
「まだだ……おれの魔力を使えば……! 人如きに……こんなところで……っ!」
奴は最後まで現実を受け入れられず、虚空に向けて必死に手を伸ばす。
だが次の瞬間、一陣の冷たい風が広間を吹き抜けるとともに、奴の身体はキラキラと輝くガラスの粉になり、完全にこの世から消え去っていった。
影が消え去り、静まり返った広間の中で、上空に浮かんでいるあの少年を鋭く見上げようとした。
まさにその時だった。
急激に足元から一切の力が抜けていき、支えを失った片膝がガクンと冷たい地面に付き始めた。
激しい疲弊と、記憶が剥がれ落ちていく代償の波が、一気に身体を襲ってきたんだ。
「……おい、二戦目やるかい?」
崩れそうになる身体をなんとか気力だけで繋ぎ止め、上空の少年に向かい、俺は不敵な笑みを浮かべてそう言い始めた。
「無理なのは貴方が一番御存じでしょう? 僕の存在も一緒に消そうと頭の片隅で考えていたとは思うけど、現に僕自身にはそれが起きなかった。これ以上の改変は出来なかったのでしょうね。願いの規模が大きすぎて、あなた一人では到底抱えきれなかったのでしょう。あの人をこの世から消し去るだけでもかなりの犠牲を使ったのに……断言してもいい、今の、そしてこれからのアヤさんには、もう僕と戦う術なんて残っていない」
少年はすべてを透き通るような目で見下ろし、淡々と事実を告げてくる。
それでも俺が意地を張って無理に立ち上がろうとすると、隣にいたエレナが駆け寄り、その細い両腕で俺の身体をゆっくりと優しく抱きしめてくれた。そして、俺を背中に隠すようにして、上空の少年の方を強い眼差しで真っ直ぐに向き直ったんだ。
「シビさんが無理でも、わたくしが居ますわ。お下がりなさい!」
黄金の錫杖を構えるエレナの決死の言葉に、少年はくすくすと肩を揺らした。
「エレナさんも防御にすべて使ってもう戦える身体ではないのでしょう? それに何度も言ってますが、戦いませんって。本当に信用されてないですよねぇ。次に貴方が目を覚ました時に一体どうなってしまうのか? そして、どのようにこの先を紡いでいくのかを、僕は特等席で見届けてみたいじゃないですか」
まるで面白い映画でも観終わって満足したかのような顔つきで、奴は宙から俺を見やがっている。
「本当に戦いたくなったら、いつでも僕を呼んでください。いくらでも遊んであげますよ。……まぁ、今日の僕はとにかく気持ちがいいんですよ。今までは、彼が、いたせいで自由に動けなくてね。そういう契約の約束だったので仕方がなかったんですけど、あの人が、この世から居なくなってくれたおかげで、僕はもっと自由になれた」
少年は声を立てて笑いながら、嬉しそうにそう言い放った。
「人は、長寿じゃないから、そうやって次の世代へ想いを繋いでいき記録を残す……。その性質は、僕にとっても非常に勉強になりましたよ。では、僕はこれで。また機会がありましたら、どこかで会いましょう」
まるで今さっきまで友人宅に遊びに来ていて、じゃあねと気安く帰るかのような軽いそぶりで、奴はその場から煙のように静かに消えていった。
ついに俺の両足から完全に力が入り倒れなくなり、情けない事にエレナの豊かな胸の向こうへとそのまま崩れるようにもたれかかってしまった。
「……きゃっ、シビさん!?」
突然の重さに耐えかねて、彼女は俺の身体を両腕で必死に抱きかかえたまま、床の上へとしりもちをついてしまった。
「ごめんな……」
俺は、彼女の衣服に顔を埋めたまま、掠れた声でそう呟いた。
「何についてですの?」
「色々。……でも、最後に一つだけ、お願いがあるんだ」
「なんですの……?」
覗き込んできた彼女の綺麗な瞳の奥に、大粒の涙がじわじわと溜まっていくのが、すぐ間近ではっきりと分かった。
好きな女を最後まで泣かすなんて、俺は本当にろくな人間じゃねえよな。
「俺がこのまま倒れたら、多分……ヴァルさんにかけた呪文が切れると思うんだ。だから、その後のことは、あとの全てはエレナに頼めるか?」
「それは、わたくしにお任せいただければ構いませんが……。シビさん、貴方はこれから一体どうなるのですの?」
エレナの声が、今にも張り裂けそうなほどに激しく震えている。
「さあな……わからない。この呪文、事前のテストなんて当然出来なかったからな。ぶっつけ本番の、一発勝負だったしな……」
「シビさん……っ! 嫌ですわ、目を開けてください……っ!」
泣きじゃくるエレナのぬくもりを全身に感じながら、俺は心の中でそっと微笑んだ。
「エレナの胸で……こうやって、まるで眠るように倒れるのなら、俺の人生も、決して悪い人生じゃなかったさ」
これが終わったら、さっきのキスをした本当の理由をちゃんと言う。
そんな、エレナと交わしたばかりのせっかくの約束は、もうどうあがいても守れそうにはないな。
俺の頭の奥底で、前世から紡いできた大切な何かが、音を立てて完全に崩れ去っていく感覚がした。
そして――俺は、彼女の温かい胸の中で、ひっそりと深い闇に溶けるように、静かに意識を無くした。
『それが、あなたの本当の幸せですか?』
どこか慈愛に満ちた、しかし世界の真理そのもののような不思議な響きを持つ声が、深い闇の底で確かに聴こえた気がした。
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