172話 方向無き洞窟の罠
眠りから覚め、さらに鍾乳洞の奥へと歩みを進めていくと、目の前にY字の分岐路が見えてきた。
「さて……右か、左か」
厄介なことに、この先の正しいルートは村長しか知らないと言っていた。
そう言えば、人間には無意識に左側を選んで進んでしまう習性があると聞いたことがある。
確か、心臓が左側にあるからだっけか。
だとすれば、ダンジョンを作った奴が意地悪なら、わざと左側の通路に凶悪な罠を仕掛けている可能性が高い。
つまり、安全な正解ルートは右だ。
「――よし、右だな」
俺はそう冷静に判断して、正解であるはずの右側の通路へと足を踏み入れた。
わざわざ罠の巣窟に突っ込む趣味はねえからな。
警戒しながらしばらく歩いていくと、視界が一気に開け、不気味なほど広大な空間に出た。
目の前に広がっているのは、対岸までおよそ百メートルはある巨大な広場だ。
「おいおい、右を選んでもこれかよ……。罠のチェックをしろって言われても、流石に無理があるぞ」
俺は足を止め、あり得そうな罠を頭の中でリストアップしてみる。
踏んだら矢が飛んでくるタイプか?
それとも、地面から石の槍でも突き出てくるか?
百メートル四方の広さを考えると、毒ガスなんかは充満するまでにタイムラグがあるから、足が速ければなんとかなる。
となると、一番ありそうなのは落とし穴の類か。
「……他には何がある? まあ、何にせよこういう時は、大人しく地面を歩くのが一番良くないって相場が決まってる」
俺は小さく息を吸い、力ある言葉を発した。
「飛翔」
唱えたのは、数ある飛行魔術の中でも一番初歩的な呪文だ。
さっきの戦闘みたいに高度な大魔術ばかり連発していたら、エレナに会う前にこっちの魔力がじり貧になっちまうからな。
俺の身体がふわりと宙に浮き上がり、不気味な広場を見下ろす。
地面を踏まない空中移動。これなら、どんな罠が仕掛けられていようが関係ねえ。
自転車ほどの速度でふわりと空を飛び、ちょうど広場の中央あたりまで差し掛かった。
その時だった。
「……っ、げほっ……な、んだ……これ……!?」
突如として、胸が押し潰されるような激しい息苦しさが俺を襲った。
喉をかきむしっても、肺が空気を拒絶する。
それと同時に、維持していた飛翔の魔術がぷつりと強制解除された。
重力を取り戻した身体が、上下の感覚を失って錐もみ状に大空洞へと急落下していく。
酸素が無い。
この空間の中央だけ、完全に空気が存在していないんだ。
反転する視界、凄まじい速度で迫り来る岩の床。
窒息の苦しみと、急激な気圧の変化で、視界が急速にブラックアウトしていく。
意識が、もうろうとする。
だが、ここで気絶したら確実に墜落死だ。
「く……あ……っ! 来てくれ、シルフ……っ!!」
消えかける意識の底から魔力を絞り出し、俺は喉を血で滲ませながら、風の乙女の名を叫んだ。
瞬間、俺の墜落経路をなぞるように、虚空から淡いエメラルドグリーンの光が爆発的に溢れ出た。
光の粒子が渦を巻き、一瞬にして一人の美しい乙女の姿を形作る。
透き通るような緑の髪をなびかせ、背中に淡い羽を羽ばたかせた風の精霊――シルフだ。
シルフは憐れむような瞳で俺を見ると、落下する俺の身体を背後から優しく抱きしめた。
彼女がその繊細な両手を広げた瞬間、凄まじい暴風が下から吹き荒れ、墜落する俺の身体をふわりと空中で受け止める。
だが、シルフが風で受け止めてくれても、肝心の酸素が絶望的に足りない。
「は……、あ……っ」
息ができない。
目の前が完全に真っ暗になりかける。
限界を察したシルフは、俺を抱きしめたままその美しい唇を俺の耳元へと寄せた。
彼女が小さく息を吹きかけると、彼女の周囲にだけ、どこからか集められた新鮮な『風』が奇跡のように留まり始める。
肺の中に、冷たくて清らかな空気が流れ込んできた。
それでもまだ空気が足りないのか?
窒息の苦しみから、いよいよ完全に目が開けられなくなり始めた、その時だった。
パシュン、と耳元で機械的な駆動音が響き、俺の顔を覆うように滑らかな曲線を描く透明な丸いヘルメットが現れた。
ヘルメット内に新鮮な空気が勢いよく供給され、死にかけていた俺の意識が急速にはっきりと覚醒していった。
「……助かっ、たのか……?」
驚いて自分の身体を見下ろすと、俺の防具は『クエルシオラ』の変形機能によって、記憶にある宇宙服のような形状へと完全に変化していた。
なぜこんな防具に変形したんだと考えた瞬間、俺は自分が完全に宙に浮いていることに気がついた。
地面も、天井も、壁もない。上下左右の方向すら分からなくなっている。
どうやら、俺が息を吹き返した理由にはもう一つあるようだ。ヘルメットの外で淡く羽ばたくシルフが、宇宙服の背中にある酸素瓶に向かって、周囲からかき集めた酸素を健気に注ぎ込んでくれていた。
やがて、役目を終えたシルフの姿が、光の粒子となってゆっくりと消えていった。
俺は宇宙服の左手首に仕込まれた液晶パネルへ視線を落とした。
そこにはデジタル表示の酸素メーターがあり、現在の残量は最大となっている。これなら少なくとも十時間は持つようだった。
俺の危機意識に呼応して防具が変形し、各種耐性機能を持つこの遺物にまたも助けられたみたいだった。
だが、絶対にこの世界にない不気味な宇宙服を着て前へ進もうとするけれど、身体はあまり前には進んでくれなかった。
蹴るべき地面も、掴むべき壁も、身体を押し出す空気すら無い空間だ。
犬かきのようにどれだけ手足を動かしても、身体は虚しくその場で揺れるだけで、一歩も前には進まない。
「……さて、どうしようか」
ポツリと呟いた独り言すらヘルメットの内側に虚しく響くだけだ。
完全に真っ暗な空間で、一人きり。頼りになる地面が無いという事実が、これほど人間の心を不安にさせるなんて思いもしなかった。
さっきまで歩いていた通路の先が、一体どっちの方角だったのかも既にわからない。
どうすればいい。このままここでじっと待っていても事態は好転しない。
かと言って、手足をバタつかせて動こうとしても大してスピードなんて上がらない。
魔法は変わらずに使える。
だが、この空間に酸素が無いから飛翔の呪文が切れたのだろうか?
なら、一瞬だけ発動する攻撃魔法だったらどうだ。
無重力空間なんて前世でも今世でも初体験だ。
とにかく、できることを試すしかない。
俺はダメ元で、自分の足元にあたる方向へ向けて風刃を唱えてみた。
放たれた風の刃は下へと飛んでいき、闇の向こうへ消える。
その直後だった。盗賊技能の耳澄ましのおかげだろう。
俺の耳が、うっすらとした微かな音を捉えた。
カツン、と風の刃が何かに激突した音が聞こえたのだ。
「……聞こえた? 確かに、何かに当たったぞ」
風刃の速度は、確か時速百二十キロメートルほどだったはずだ。
魔法を放ってから音が跳ね返ってくるまで、一秒か、あるいは二秒か。
そもそも、本当に完全な真空なら音を伝える空気が無いから何も聞こえないはず。
音が響いたということは、ここは完全な真空ではないってことなのか。
仕組みのすべてを理解することはできないが、これだけははっきりした。
下には、確かに壁が存在している。
なら、上はどうだ。
今度は頭上へ向けて同じように魔法を放つと、やはり同じくらいの時間で、何かに当たる音が返ってきた。
続けて左右へ放った魔法も同じだった。上下左右の壁は、俺からほぼ等距離の位置にある。
だが、前後だけはどれだけ待っても衝突音が聞こえてこなかった。
つまり、前後は果てしなく道が続いている。進むべき方角は決まった。
「進むぞ……ッ!」
俺は両手を後ろへ突き出し、勢いよく爆裂の呪文を放った。
ドンッ!!!
背後で炸裂した激しい爆発の衝撃。
その凄まじい推進力のおかげで、俺の身体は弾かれたように前方へと進み出した。
そのまま宇宙空間のように惰性で前へ進み、速度が落ちそうになると、再び後ろへ向けて同じ呪文を何度も連発する。
爆発の反動で俺は闇の中を加速していった。
どれくらい進んだだろうか。
視界の先、暗闇の向こう側に急にまばゆい明かりが見えた。
「出口か――!?」
歓喜したのも束の間。次の瞬間、身体に凄まじい重力がかかり、一気に強烈な重力を感じた。
急な事だったので、呪文を使う暇が無くて、身体は勢いよく地面へと叩きつけられた。
「いっ、ててて……ひどい目に遭った」
盛大に床へ激突した痛みに顔をしかめると、俺の身体を包んでいた宇宙服が、パシュンと軽い音を立てて急にいつもの服装へと変化した。
赤いドレスと革ジャン。見慣れた自分の格好を見下ろし、俺は小さく息を漏らす。
こうして見ると、この防具はまるで生きているんじゃないかとさえ思えてくるな。
もし無事に王国へ戻ることができたら、こいつの構造を本格的に研究してみたいくらいだ。
俺は立ち上がり、周囲の床をじっくりと調査した。
幸いなことに、残された微かな痕跡から、まだ誰もこの先へは進んでいないことが分かった。つまり、俺が先頭だ。
「よし……待ってろよ、エレナ。今そっちに向かうから、もう少し頑張ってくれ」
乱れた息を整えながら、俺はもう一度、左の指先をパチンと鳴らして明かりの呪文を灯した。
青白い魔法の光が、再び鍾乳洞の不気味な岩肌を怪しく映し出す。
来た道を戻って、もう一つの『左の方向』を確かめたい気持ちも少しはあった。
だが、あっちを調べるためにまた何度も魔法を消費しながら進むのは、どう考えても悪手だよな。
もしかしたら出口があるかもしれないけど、無いかもしれないんだよな。
そう思いながらも洞窟の奥へと、力強く歩みを進めだした。
「転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~」をお楽しみいただけましたか?
もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!




