166話E 書庫に眠る『異邦者』という名の本
洋館の廊下は、重厚な深紅の絨毯が床を覆い、壁には金箔の装飾と暗い赤の壁紙が続き、天井からは巨大なシャンデリアがぼんやりと赤い光を落としていた。
華美でありながら息苦しい、どこか不気味な空気が満ちている。
ルナさんも時間がたてば探しに来ると思いますので、近くの扉を開けるのは危険すぎますわね。
近くの扉を開けるのは危険すぎる。
わたくしは素早く判断して、無数に並ぶ扉の中から、敢えて中途半端な位置にある目立たない木製の扉を選んだ。
指先がわずかに震えながら取っ手を引いた。
薄暗い室内に滑り込むと同時に、わたくしは胸の前で両手を重ね、静かに祈りを捧げた。
「忘却の聖域……」
淡い青白い光がわたくしの周囲を包み、空間そのものを書き換えていく。
本来はどんな場所でも静かな祈りの間を生み出す呪文だけれど、今はそれを隠れ見として使用をした。
アヤさんがいつも仰っていた通り……同じ呪文でも、使い方次第でいろいろなことができますわね。
わたくしは小さく息を吐き、室内を見回した。
「……少しは、時間を稼げるはずですわ」
わたくしは小さく息を吐きながら、室内をじっくりと見回した。
天井の高い空間に、漆黒の木製本棚が何列も連なり、壁全体が本で埋め尽くされているかのように古い革装の本が隙間なく詰め込まれている。
ステンドグラスの窓から差し込む赤みがかった薄明かりが、埃の粒子をゆっくりと舞わせ、古い紙とインクの懐かしい匂いを優しく照らしていた。
足を沈めるほど柔らかい深紅の絨毯が床一面に敷き詰められ、どんな足音も完全に吸い込んでくれる。
児童書から専門書、禁断めいた魔導書らしきものまで、多種多様な背表紙がずらりと並び、この洋館の奥深くに隠された知の宝庫といった雰囲気を漂わせていた。
「……ここは図書室ですの?」
軽く見ただけでも、その膨大な蔵書量に思わず息を飲んでしまった。
わたくしはまず自分自身に回復呪文をかけ、疲れ切った体にほんの少しだけ温かな力を注ぎ込んだ。ここで短い休憩を取ることにした。
動きづらいですわね……
わたくしは、隠密行動など到底できないので、動いたらすぐに見つかることでしょう。
次にルナさんと戦うことになれば、戦闘技術では明らかにわたくしが劣っているから、勝ち目はかなり薄い。
ましてやルナさんの主人を倒すにしても、その所在すらわからないのですから。
図書室なら、何か手がかりがあるかしら?
例えばこの館の詳細な地図とか……
それとも、この館の主の逃亡経路として王道の抜け道が記された古い書物とか?
主人の日記のようなものがあれば、本当に理想ですわね
最初は死霊術師だと思っていたけれど、それでは至高神アルディアの信者であるルナさんが部下になるとは考えにくいですわ。
洗脳や脅迫を受けたような気配も感じられませんでした。自ら率先して動いているように見えました。
それをアルディア様が許可している……ということですの?
そうでなければ、あそこまで金煌の葬鎌の効果が出るはずがありませんわ
先ほど鳴鈴激流を防がれた際、ルナさんは確かに金煌の葬鎌を使用していました。
わたくしのあの呪文は黄金律の鈴音の効果で威力が倍増していたというのに……。
あの人はこうも言いました。
『信仰心ではあなたの方が上かもしれませんが、あまたの反逆者たちを中心に動いていた私です。戦闘では私の方が上ですよ』
信仰心ではわたくしが上だというのなら、彼女があれを防いだのは、圧倒的な戦闘経験と、アルディア様の加護を受けた鎌の力しかないはずですわね。
……至高神アルディア様の武器なのに、なぜ亡者の味方をする彼女に加護がまだ残っているのでしょうか?
世界の法を定め、秩序を司る最高神であるというのに……どうしてこんなにも矛盾したことが起きてしまうのでしょう?
たしかアルディア様の武器はもう一本ありましたわね。
名前は存じませんが、確か剣だったはずですわ。
それもルナさんが所持しているのでしょうか?
わたくしは胸元の小さな鈴を指先でそっと撫でながら、考えを巡らせた。
黄金律の鈴音でも、すでに過大な加護をいただいていると思っていたのですけれど……。
アウリス様が認めていただけるのなら、防具も探した方が良いのかもしれませんわね。
この過酷な旅が無事に終わった後の話ですけれど。
わたくしは本棚の間をゆっくりと歩きながら、一冊一冊に視線を這わせていた。
埃の浮かぶ薄明かりの中で、ふと背表紙の金文字が鈍く光る一冊が目にとまる。
古びた革表紙は指で触れるとひんやりと冷たく、頁の端は擦り切れて年季を感じさせた。
どこか不気味でありながら、抗えない力で引き込まれるような佇まい。
題名には『異邦者』と書かれていた。
「……なんでしょうか、これ」
小さく呟きながら、胸の奥から込み上げる強い引力に導かれるように、その本をそっと引き抜いた。
薄い見た目に反して、ずっしりとした妙な重みがあった。
わたくしは本を胸に抱えたまま図書室の奥へと足を進め、そこにあった背もたれの高い木製の椅子に腰を下ろした。
深紅のクッションに体を預けると、天井のシャンデリアから零れる赤みがかった光が、開いたページの上に静かに揺らめいた。
ページをめくり始めた瞬間、わたくしの視線は釘付けになった。
――神によって移動してきた魂。
その者は、英雄や勇者にもなれる。
その者は、悪魔にも破壊者にもなれる。
その者は、時代を組み替える革命者や発明家にもなれる。
その者は、時代を死滅させる者でもある。
その者は人々に好かれる者であり、同時に、人々に忌み嫌われる者でもある。
すべての次元に与する神々の、大いなるゲーム。
箱庭のようなこの世界に『異分子』を入れたらどうなるか、それを見て楽しむための神々の遊戯。
この本を読んだ君は、それを信じるだろうか?
それとも信じないのだろうか。すべては君次第だ。
異邦者が現れる時、世界は良くも悪くも動き出す。
なぜかって?
停滞したままであれば、異邦者を投げ込んだところで何も変わらないからだ。
読んでいる君の世界は、今までと変わらない日常か?
それとも非日常か?
神がカードをめくるこの世界。
誰かが何かを見つけ、誰かが何かを失う世界。
君がそこで泣くのか、あるいは笑うのかはわからない。
それでも、もし君が異邦者と深く関係を持ったのなら、君の世界観は変貌するだろう。
それは楽しくて、幸せなことかもしれない。
あるいは苦しくて、悲劇的なことかもしれない。
……どう思う?
だけど忘れないでほしい。それを選んだのは君たちだ。
力を与えた神は、ただ見ているだけなのだから。
異邦人になりたいだって?
やめた方が良いと思うよ。
彼らは孤独だ。
この世界の歴史やルールを、ある程度は知っているのだろう。
だけど、根底はどこまでも孤独だ。
彼らが、この世界に産み落とされた瞬間に、関わった者は死ぬことになる。
知り合いも、家族も、そして恋人もだろうね。
そんな世界で、君は幸せだと思えるかい?
普通ならそんな世界、恨むだろうよ。どれほどの力を与えられていたとしてもね。
逆境は生物を強くする。
だから『最初は過酷にするんだ』と、誰かが言っていた。
僕はごめんだよ。自分のせいで周囲の人間が死ぬなんてさ。
なぜその人が産まれた瞬間に、周囲が死ななければならない?
どれだけ金を積まれたとしても、最初に出会う人は全員死ぬんだ。
孤独なんだよ。
だからこそ、彼らは異邦者。誰とも交われない人。
どれだけ容姿が端麗だろうと、美しかろうと、結局は一人なんだ。
『また新しい人に出会えばいい』って?
そうかもしれないね。
だけど、もし『また同じ目に遭うかもしれない』と思ったら、誰かが手を差し伸べてくれたとして、君はその手を掴めるかい?
君なら、本当にその手を掴むかい?
それでも、異邦者は立ち止まることを許されない。
前を向いて進むしかないんだ。
彼らは愚者であり、神々のマリオネットだから。
神々を楽しませなければ、生きている価値すらない。
さぁ、世界を回してくれ、神々の人形よ。
酒池肉林、大いに結構。
たった一人を愛する、それもいいかもしれないね。
世界を恨んで滅ぼすのも、それはそれで楽しそうだ。
国を作るのもいいね。
だけど、そのまま死を待つのだけは、立ち止まることだけは駄目だよ。
死ぬというのなら、最期まで苦悩し、行動して、神々を楽しませないと。
君たちには、それだけのものが与えられているのだから。
さぁ、この世界を楽しみ、愛して、苦しみ、呪ってくれ。
この世界はおもちゃ箱。
異邦人のためのおもちゃ箱。
そしてそれは、神々の退屈を凌ぐ最高の娯楽になるのだから。
その本は、そこで終わっていた。
他にもイラストや様々な記述がありましたが、読んでいる間、わたくしの頭に浮かんでいたのはアヤさんのことばかりだった。
彼女は確かに不思議な方ですけれど、本に記されているような、世界を動かすほどの凄まじい力を持っているとはとても思えない。
何度も死にそうな目に遭っていたし、理想に手が届かないことだってあった。
だから、この本に書かれている『異邦者』には当てはまらないと思うのだけれど……。
……でも、たしかアヤさんに向かって『異邦者』と言い放った人が、確かに居ましたわね
それが誰だったのかは、どうしても思い出せなかった。
そういえば、わたくしが「一緒に旅をしませんか」と誘った時も、最初はあっさりと拒絶されてしまったのだ。
けれど最終的に、彼女が――
『エレナ。えっと、助かった。礼をしたいんだけど、俺に出来る事だったら、だけど』
そう口にしたのを見逃さず、有無を言わさず了承をもぎ取ったのでしたわ。
あれからまだ、一年も経っていないなんて信じられない。
もう何年も一緒に旅をしてきたような、そんな錯覚さえ覚える。
まだ数日しか離れていないというのに、気がつけばいつも彼女のことばかり考えてしまっている。
異邦人であろうとなかろうと、アヤさんはアヤさんですわ。
それに、彼女自身はこの残酷な真実を知っているのだろうか。
わたくしがそう心に決めた瞬間――本棚の奥から、ごそっ、という不穏な音が聞こえてきた。
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