157話 再準備
見上げる視界を埋め尽くすのは、空を切り裂くかのような険しい山脈の連なりだった。
「本当にすごい山脈だよな」
ぽつりと言葉が漏れた。
圧倒的な質量がこちらを押しつぶさんばかりに迫ってくる。
「話によれば反対側は、海なんだよな」
あのそびえ立つ岩壁の向こうに広がるという、未知の水平線に思いを馳せる。
そのまま上空を見ると、数十の魔物がそれの散歩をしている。
巨峰の頂を縫うように、悠然と、しかし確実に獲物を探すように輪を描いて飛ぶ影。
山脈そのものの険しさに加え、あの空の支配者たちを切り抜けなければならないのだ。
『疾風迅駆』を使えば、あの空へ飛び込むこと自体は造作もない。
だが、思考は即座に結論を否定する。
ダメだ。空中戦に不慣れなエレナを連れてあの上へ行けば、彼女はあの魔物たちの格好の獲物となるのが目に見えている。
かといって『飛翔』の呪文に頼れば速度が足りず、標的として空中に晒されるだけだ。
「シビさん、向かいますか?」
エレナの声が、張り詰めた空気を微かに揺らした。俺は短く息を吐き、答えの代わりにバッグを降ろす。
「そうだなぁ」
ザラリと乾いた岩肌の上に、俺は躊躇なくブルーシートを広げた。
「シビさん、何故ここで敷物を?」
エレナの声音に、明らかな戸惑いが混じる。当然だ。道中、あれほど念入りに準備を重ねてきたのだから。
「再準備しよう」
「え……!」
彼女の絶句に耳を貸さず、俺は作業を進める。
「いいから」
「あ、はい……」
短く促すと、エレナは従順に腰を下ろした。水筒から注いだ茶が、カップの中で穏やかに揺れる。俺も隣に座り、周囲の気配を読み取ることに集中した。
「敵の本拠地がすぐそこにあるというのに、目の前でこんなことをしていてもいいのでしょうか?」
不安そうに視線を彷徨わせる彼女に、俺は肩をすくめて答える。
「襲ってくるんだったら、とっくに襲ってきているって」
俺は懐から小さなボタンを取り出し、エレナの掌にそっと乗せた。
「これは……この間の?」
「ああ、俺の元へ強制転送させるためのアイテムだ」
「これを、私に……?」
「もしかしたら、俺たちが分断されるような状況があるかもしれないしな」
俺の言葉に、エレナは少しだけ肩の力を抜いて安堵の表情を浮かべた。
「これで安心ですわね」
そう言った彼女の笑顔を見て、俺は心中で苦笑する。
実際、そんな窮地に陥ったとき、このボタンが本当に機能する保証なんてどこにもない。
ただの気休めで渡したものだった。
本当にこのような状態になったら、瞬間移動呪文を不可にするだろう。
でも彼女の期間の呪文は別だ!
あの呪文はアウリス神の信者の身の呪文でもあり、神の奇跡の呪文だ。
いくら魔族が強かろうとそれを封じることはできないだろう。
「……もし、万が一。それでも不可能なら、エレナは転送呪文を使って帰国してくれ」
無駄だとわかってこのように言うなんて俺もひどい奴だと思う
「アヤさ、……じゃなくてシビさんを置いて、行けるはずがありませんわ」
ふと漏らした俺の言葉に、エレナは驚いたように目を見開いた。
彼女の瞳には、一切の迷いがない。俺を案じるその真っ直ぐな視線が、少しだけ胸を突く。
「大丈夫だ。俺も『星移門』を使って後を追うから」
「……嘘ではありませんよね?」
「ああ、約束する」
そう告げると、彼女はふうと小さく息を吐き、ようやく納得してくれたようだ。
呪文が使える隙があればな。
俺は心の中でそう付け加えた。
「わかりましたわ」
俺はさらに、懐から次々と魔法アイテムを取り出し、彼女の膝の上に並べていく。
「流石に心配性ですわね。それに、私にはこんなに多くの荷物、抱えきれませんわ」
困ったように微笑む彼女を見て、俺はニヤリと口角を上げる。
「……と思ってな。これ、イザベラから預かってきたんだ」
俺が差し出したのは、シックな革製のバッグだった。
「これは、もしかして……」
「お揃いだ」
俺が肩にかけているものと同じ形状のバッグを彼女に手渡す。
『虚空袋』。
魔法アイテムの中でもAランクに分類される、希少な逸品だ。
見た目は何の変哲もない手提げ鞄だが、その内側は亜空間と繋がっており、どれほど重い物、どれほど嵩張る物であっても、その重さを感じさせずに収納できる。
これなら、どんな状況下でも彼女の身軽さを損なうことはない。
これで少しは、万が一の事態に対しての備えになるはずだ。
「……今朝の時には、持っていませんでしたよね?」
エレナは俺の手元にあったはずのバッグを見つめ、不思議そうに小首を傾げた。
「ああ。あれを売り払われると困るからな。初日に、向こうが『泥棒だよ。その金額だと』って破格で買い取っておいたんだ」
俺が淡々と告げると、エレナはきょとんとした後、我慢しきれないといった様子でくすくすと笑い出した。
「そんなに安い金額で買い取ったのですか? シビさん、強引なんですね」
彼女の楽しそうな笑い声につられて、俺の強張っていた表情もふっと緩む。
「結果オーライだろ。今日なんてもっと安めだったんだから、今日まで待っていればよかった」
俺も少しだけ笑って、彼女の持つバッグのベルトを直してやった。
張り詰めていた空気が、二人の静かな笑いの中で少しだけ温かさを取り戻していく。
アイテムを渡し終えた、その時だった。
急にエレナが、自身のバッグをガサゴソと探り始めた。
何事かと見守っていると、彼女は中から木製のランチボックスを取り出し、少し照れくさそうに俺へと差し出してきた。
「昼ごはん?」
「少し早いですが、この先いつゆっくり食べられるか分かりませんから。……今日は宿のお店の方にお願いして、厨房を借りて、わたくしが作ったのですよ」
「エレナの手料理?」
「あ、はい……っ」
驚いて問い返すと、エレナの頬がみるみるうちに赤く染まっていく。その初々しい反応が、なんだか無性に嬉しかった。
「多分、シビさんがお食べになったことがない料理だと思いますので、びっくりされるかと思いますわ」
「そう言われると、楽しみが倍増だな」
まあ、しっかり者のエレナのことだ。いわゆる『殺人料理』のような、変なものが出てくる心配はないだろう。
期待に胸を膨らませながらランチボックスの蓋を開けると、中にはソーセージ、鶏の唐揚げ、卵焼き、そして色鮮やかなサラダが詰まっていた。
さらにメインとして、ハムや野菜をパンで挟んだ……そう、俺の知る『サンドイッチ』が鎮座している。
プチトマトの赤が映える、実に色とりどりで美味しそうなお弁当だ。
だが、食べたことがないもの……?
俺が首を傾げているのが可笑しいのか、エレナは口元を片手で隠してくすくすと言いたげに笑った。
「流石の博識なシビ様でも、その具材を挟んだパンは食べたことがありませんでしょう?」
なるほど、この世界にはサンドイッチという概念がないのか。
そう言えば、こっちに来てから食べた記憶がない。ということは、ハンバーガーなんかも存在しないわけだ。
「この料理の名前は?」
「名前、ですか? ……特にありませんわ」
どうやらエレナの創作料理らしい。
俺がさっそく一口食べようと持ち上げると、エレナの視線がじっとこちらに注がれた。期待と不安の入り混じった熱い眼差しが、ものすごく食べづらい。
「あの……」
「あ、いえ! どうぞ召し上がってくださいまし」
促されるままに、サンドイッチをガブリと口に運ぶ。
食感はいい。
だが――味が、ほぼない。
誇張抜きで、本当に素材をそのままパンで挟んだだけだった。調味料という概念が抜けていたらしい。
俺は苦笑しつつ、これも手料理の醍醐味かと自分のバッグを漁り、携帯用の塩を取り出した。
「美味しい。美味しいけど……これをかけた方が、もっと美味しくなると思う」
サンドイッチにパラパラと塩を振り、もう一度齧り付く。うん、味が引き締まって劇的に旨くなった。
振りかけた塩の小袋をエレナにも手渡す。
彼女も不思議そうに自分のサンドイッチに塩を振り、恐る恐る口に運んだ。
「……まぁ! こちらの方が、ずっと美味しいですわ!」
パッと表情を輝かせるエレナが、可愛らしいと思う。
それにしても、と俺は周囲を見渡す。
敵の本拠地である山脈の入り口で、こんなにのほほんとしていていいのだろうか。
まあ、現時点で襲撃してくる気配はないから良しとしよう。
向こうにしてみれば、これが最後の交流だ。好きなようにさせておこうという、魔族なりの慈悲なのかもしれない。知らんけど。
「エレナ、美味しかったよ。ありがとう」
「はい。ご飯はストレスのない場所で食べるに越したことはありませんから」
そう言って微笑むエレナの横顔に、俺は少しだけ、この後の戦いへの決意を新たにした。
「準備もそろったし、あちらさんも、これ以上待たせるのもよくないだろう」
「はい、行きましょう」
「だけど、待たせるのもいい女の条件だと誰かが言ってたな」
「なんですのそれ?」
どうやら、こちらの世界にそんな言い回しはないらしい。
俺は肩をすくめて気を取り直すと、不気味な山脈の登り口へと足を踏み入れた。
見上げるほどに険しい斜面が、まるで獲物を待ち構える怪物の顎のように口を開けている。
風が吹き抜け、岩の隙間から低く唸るような音が響いていた。
俺は気配を殺し、長年培った感覚で周囲の警戒を強める。背後に続くエレナの足音を確かめつつ、魔物たちが潜む闇の奥へと進み始めた。
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