番外編4 俺とおじさん2
それから、紆余曲折の人生を経て俺は40歳になった。
若くもない、むしろ世間的には人生の折り返しを過ぎた年齢になってから、俺はもう一度大学に入って人生をやり直すと決断した。
そして、猛勉強の末に見事その切符を掴み取り、大学の合格発表があった、まさにあの日のことだった。
俺はこれからの未来に胸を躍らせ、有頂天になりながら帰宅の途についていた。
しかし、運命は嘲笑うかのように、あの日の悲劇に似た、地獄のような光景を俺の前に突きつけてきた。
人生には、何度目かの大きな分かれ道が存在していると、今の俺は思っている。
駅へと向かう大通りから外れた場所が、妙に騒がしい。怒号と悲鳴が混ざり合った異様な空気を感じて、俺はそちらへと足を向けた。
もし、あの時そのまま素通りして帰っていたのなら、俺は後からニュースを見て「そんな凄惨な事件が起きていたのか」と他人事のように思いながら、ただ呑気に新しいキャンパスライフを過ごしていたのかもしれない。
あの時、心に深く刻んだはずの不破久遠さんの言葉すら、日々の生活の砂に埋もれさせたまま。
だが、俺は自分の抑えきれない好奇心と不穏な予感に背中を押されるようにして、導かれるままその騒ぎの渦中へと足を踏み入れてしまった。
人だかりができていた。
誰かを遠巻きに囲うようにして、大勢の人間が恐怖に顔を強張らせて集まっている。
胸を突く嫌な予感に突き動かされ、俺は群衆の肩を押しのけるようにして無理やり前に進んだ。
視界が開けた先は、目を覆いたくなるほどひどい有様だった。
制御を失ったらしい一台の乗用車が電信柱に激しく激突し、フロント部分から白煙を上げている。
その周囲には、巻き添えを食らったのであろう数人の男女が、血を流してアスファルトの上に倒れ伏していた。
そしてその凄惨な中心地で、一人の男がギラギラと鈍く光る包丁を握り締め、恐怖に声を失って泣き叫ぶ少女を片腕で無理やり抱きかかえていた。
男の目は完全に血走り、瞳孔が不自然に開いている。
正気はどこにも残っていない、完全に狂気に取り憑かれた顔だった。
「俺は、何をしても失うものは無いんだよぉ!!」
獣のような咆哮とともに、男は足元に倒れてぴくりとも動かない女性の身体を、何度も、何度も包丁で容赦なく突き刺して叫んでいた。飛び散る赤が男の顔を汚していく。
周囲を取り囲む群衆は、男が人質として幼い少女をがっちりと抱きかかえているせいで、うかつに一歩も動くことができずにいた。
刺激すれば、次はその刃が少女の首筋に突き立てられる。誰もが固唾を呑み、足をすくませて見守るしかなかった。
どうしようもないな。
その光景を冷徹に見つめながら、俺の頭の中はひどく冷めていた。
ここで俺が動いたところで、刃物を持った狂人を前に何もできるわけがない。
市民の安全を守る警察とか機動隊とか、そういう専門の連中がすぐにここへ駆けつけて、どうにかしてくれるはずだ。
まだサイレンの音は聞こえないが、すぐにでもやってきて、この狂った悪夢のような時間にも終わりを告げることになるだろう。
そう自分に言い聞かせる一方で、俺の胸の奥底には、別のドロリとした感情が湧き上がっていた。
……あいつの、あの狂った奴の言い分も、わからないでもない、と。
誰にも相手にされず、社会の片隅で見放されているという底なしの不満。
どんなに泥水をすすり、死に物狂いで頑張っても、生活がちっとも良くならない絶望。
世界からどんどん孤立していき、やがて自分の命も、他人の命も、すべてがどうでもよくなっていくあの虚無の感情。
凄惨な凶行を目の当たりにしながらも、俺の心は、どうしてもその犯人への歪んだ共感を抱いてしまっていた。
なぜなら、俺自身も一歩間違えれば、あいつと同じように社会への憎悪を募らせて怪物になっていた可能性が十分にあったからだ。
ただ、今の俺とあいつの違いは、本当に紙一重でしかない。
俺は、自分でも何がきっかけだったのかは分からないけれど、40歳になって「人生をやり直そう」と足掻く決断をしただけ。
奴はそれに耐えかねて、前を向くことを「諦めた」だけ。
本質的な絶望の深さは同じだ。それだけの違いしか、俺とあの男の間にはないのだから。
犯人の男が、突如として耳を劈くような獣の奇声を上げた。
完全に正気を失った瞳孔の奥で、さらに深い狂気の光がぎらりと跳ねる。
男は、腕の中で恐怖に身悶えする少女の細い首筋に向けて、血塗られたナイフを大きく振り上げた。
その光景が視界に飛び込んできた、まさにその刹那だった。
俺の脳内で、何かが決定的に弾け飛んだ。
『お前は、このまま見捨てるのか?』
耳の奥で、いつか聞いた低く強い声が、俺自身の心の声となって激しく木霊した。
その瞬間、身体が思考を追い越して、猛然とアスファルトを蹴り出していた。
群衆が悲鳴を上げ、男が俺の想定外の突進に驚愕の表情を浮かべる。
だが、もう遅い。
俺は全体重を乗せ、弾丸のように男の胸元へと肩から激しくぶつかっていった。
肉と肉が衝突する重い衝撃音が響き、俺たちの身体はもつれ合うようにして冷たい地面へと激しく転倒する。
その強烈な衝撃の最中、男の腕の力が緩み、捕らえられていた少女の身体が弾かれるようにして自由になったのが分かった。
地面に背中を打ち付けながらも、俺は狂ったように腕を伸ばし、男の手首をガシッと力任せに掴み取った。
「走れ……っ! 早く行け!!」
喉を引き裂くように叫ぶ。
視界の端で、解放された少女の小さな足が、必死にこの場から遠ざかっていくのだけが見えた。
あの子は助かる。その確信を得た、まさにその瞬間だった。
どすりと。 鈍い感触とともに、俺の背中の奥深くへ、冷徹な刃が深く突き立てられた。
一瞬のタイムラグの後、脳髄を焼き切るような凄まじい激痛が突き抜け、傷口からどろりとした悍ましい熱が全身へと急速に広がっていく。
視界が急速に明度を失い、世界の音が遠ざかっていく。
ああ……俺は、合格発表の日に、誰かをかばって死ぬのか……
だが、不思議と後悔はなかった。
俺は動かないという決断を下さず、手を伸ばしきったのだから。
意識は底のない暗闇へと沈み込み、池田丈としての44年の生涯は、そこで静かに幕を閉じた。
深い闇の底から、突如として眩い光の奔流が押し寄せる。
死んだはずの俺の魂は、神様の計らいという人知を超えた奇跡によって、次元の狭間を越えて全く別の存在へと引き継がれていた。
激痛に震えていたはずの感覚が、急速に塗り替えられていく。
次に目を覚ました時、俺の魂が収まっていたのは、息を引き取ったばかりの紫微綾という名の、18歳のうら若き女性戦士の身体だった。
引き締まった、だがしなやかでグラマラスな四肢。視界にハラリと落ちてくるのは、月光を反射して輝く美しい銀髪。
そして、鏡のような水面に映るおのれの顔を見つめれば、そこにはかつての無骨な男の面影などどこにもない、神秘的な赤眼を宿した美少女の姿があった。
神様から授けられた異能の技術、そしてあらゆる精神攻撃を無効化する絶対的な守護の力をその身に宿し、俺は「彼女」として、この過酷で新しい世界を生き抜いていくことになるのだ。
手の中のコップを満たす芳醇なブランデーを、ゆっくりと口に含む。
喉を焼くような熱い感覚を味わいながら、俺は目を閉じ、遠い記憶の彼方にいる不破さんの姿を静かに思い出していた。
池田丈として生きた四十四年の生涯、そしてシビ アヤとして転生してからの短い日々。
振り返れば、人生のどん底で踏みとどまる瞬間、頭の中でいつも俺を怒鳴りつけ、引き戻してくれたあの『ブレーキの声』の主は、間違いなくあんただったんだな。
親の言いなりになって娼婦として生きるよりも逃げてもいいんだと言ってくれた時も。
飢えに耐えかねて、誰かの家に入り込んで物を盗もうと、倫理の一線を越えかけたあの瞬間も。
四十歳になって、もう一度大学に行って惨めな人生を変えるんだと、死に物狂いで努力をしようと決断したあの時も。
そして生前、刃物を持ったあの狂った男から、無意識のうちに少女を助けようと身体を投げ出したあの凄惨な現場でも。
何より、今回の事件で、理不尽な現実の前にすべてを諦めて投げ出しそうになったあの瞬間も。
あんたは肉体を失ってなお、ずっと俺の魂のそばに寄り添い、冷たい闇に落ちていかないように見守っていてくれたのかもしれない。
「まったく、な……」
ぽつりと自嘲気味に呟いた言葉に、もしここに不破さんがいたら、あの無精髭の顔に呆れた笑みを浮かべて「まったく、とは何だ、坊主」と同じ言葉を言い返されそうな気がして、自然と唇が緩んだ。
だけど、もう心配はいらない。
「もう、俺は大丈夫だから。だから、安心して成仏してくれよ」
月明かりに照らされた自分の手を見つめる。かつての無骨な男の手ではない。白く、細く、しなやかな、美しい女性の身体に、俺はなっちまったけれど。
「これからは……俺は、誰のせいにもしない。俺自身の責任の上で、すべての運命を決断して、前を向いて突き進むよ」
コップに残ったブランデーをぐっと飲み干し、静まり返った一人の部屋の奥、冷たいベッドへと視線を向ける。
もう深夜だからな。
今頃はエレナは、無防備な寝息を立てて眠っているだろう。
俺がエレナを恋人にすることだけは、きっとできないだろうな。
彼女は、エリシオン王国でも絶大な人気を誇り、アウリス教会からも未来を嘱望されている。
鈴の聖女様だ。
中身が男だとはいえ、今の俺の身体は女性。同性同士で恋人になったなどと世間に知れ渡れば、彼女の清廉な名誉に傷がつく。
それはエレナにとって教会にとっても迷惑でしかないだろう。
それに、彼女は慈愛の女神の使徒だ。今はこうして俺と旅を共にしてくれているけれど、いつかは誰かと真っ当な恋をして、その温かい血脈を繋ぐために、新しい命を産むことになるのだろう。
それが彼女の宿命なのだから。
そんな感傷的な思考を、俺は頭を振って強引に打ち消した。
それもこれも、すべては明日からの戦い。
魔族の基地を完膚なきまでに叩き潰し、生き延びてからの話だ。
無謀とも言える話だ。
きっと、明日隣の部屋から起きてきた心優しいエレナにこの計画を話せば、顔を真っ青にして全力で反対すると思う。
だけど、俺の決意は揺るがない。
もし戦況が悪化し、万が一にも負けや死が目の前に迫るような絶望的な状況になったとしたら……その時は、彼女は、絶対に強引にでも安全な国へと帰国させよう。
エレナは「あなたを置いていけない」と涙を流して激しく抵抗するだろうけれど、それでも俺は、彼女の命だけは死に物狂いで守り抜いてみせる。
夜が更けていく。これ以上夜更かしをして、明日の戦いの足手まといにでもなったら目も当てられないな。
俺は空になったコップを静かに片付けると、静寂に包まれたベッドへと滑り込み、薄い毛布を頭から被った。
瞼を閉じる直前、心の奥底にある、消えない道標に向かって最後の言葉を贈る。
「不破さん。今まで、本当にありがとうな。……俺は、この人生を全力で突き進むよ」
胸の中に宿る不滅の魂の温もりを感じながら、俺はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。
翌朝、エレナの待つ部屋のドアを叩き、そこから始まる新たな死闘の幕開けに向けて。
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