番外編4 おれとおじさん
本編と少し違う箇所がありますがご了承してください。
本編156話の宿屋で寝ようとした時のシーンです。
すべての決着がつき、張り詰めていた糸が切れたように泥のような疲労が押し寄せていた。
俺は宿屋ののベッドに身体を沈め、そのままゆっくりと深い眠りに落ちようとした。
瞼を閉じる直前、胸の奥を激しく揺り動かすような記憶が、ふと脳裏をよぎった。
一度は目を閉じたものの、どうしてもそのまま寝てしまうことができず。
俺はのそりと這い出るように起き上がった。
部屋の明かりは点けないまま、薄暗い闇の中で床に置いたバッグを手探りで手繰り寄せる。
中から筒を取り出した。
蓋を開け、付属のコップに中身をトトト、と静かに注ぎ込む。
月明かりだけが照らす静寂な部屋の中で、水筒の奥からとろりとした美しい琥珀色の液体が滑り落ち、独特の芳醇なアルコールの香りが鼻腔をくすぐった。
俺は自分の分のコップを満たした後、バッグからもう一つの空のコップを取り出し、目の前のテーブルに置いた。
そして、まるでそこに誰かが腰掛けているかのように、そのコップにも同じ琥珀色の液体をなみなみと注いでいく。
「……あんたのお陰で、思い出せたよ」
闇に向かって、ぽつりと声を漏らす。
理不尽に抗うこと。自分の弱さに言い訳をせず、大切な人を守るために手を伸ばすこと――。
「あんたが命を懸けて教えてくれたことを、俺がちゃんと忘れずにいられたから……だから、今度こそ大事な人を、この手で助け出すことができたんだ」
もうこの世にはいない、あの不敵に笑うおじさんの姿を心の底から思い出しながら、俺は自分のコップを小さく掲げ、誰もいない空間のコップへと軽くカチンと合わせる仕草をした。
そして、喉を焼くような強い酒を、ゆっくりと、その温もりを噛み締めるように飲み干した。
「なんだ坊主、怪我をしてるな」
おじさんと出会ったのは、これが初めてだった。
「は? 何その言い方。ここキックボクシングのジムでしょ。怪我しててもおかしくないじゃん」
何このおじさん。
どこに行っても、何をしてもうるさい大人しかいないのか。
「喧嘩か?」
「なに? 喧嘩は悪いことだからやめろって言いたいの? それとも、そんなにストレスが溜まってるならここで十分発散しろとでも言いたいの?」
大人がよく言う正論を先回りして言ってやった。
これで論破されたおじさんは、もううるさく言えないだろう。
「違うな。暴力ですべてにケリをつけるのは、いつかそのツケが自分に返ってくると俺は思う。だがなぁ、周囲がやるなと言っても、やらないといけない時に動けないのはもっと悪いと思う」
「何が言いたいわけ?」
「自分が後悔しない喧嘩なら、やってもいいってことだ。まぁ、そうはいっても大人になるにつれてそんなことはできなくなる。だからこれも、クソガキの特権かもしれないな」
別に喧嘩じゃないんだけどな、と心の中で思う。
朝は親父の機嫌が悪くて殴られ、学校では宿題を忘れたから教師にゲンコツを喰らって。
おまけに高校生に蹴りを入れられて金を盗られたなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。
本当は、人を殴るのが、怖いだけだ。
ゲームのキャラクターとか、このジムのミット相手でしか、まともに物を殴ることなんてできない。
変なおじさんは俺の頭を3回ほど、ぽん、ぽん、ぽんと優しく叩いてから、そのまま縄跳びを飛び始めた。
俺はまた、サンドバッグに向かって「ぼふぼふ」と情けない音を響かせ続けた。
次にこの人に会ったのは、最悪な場所だった。
「丈ちゃん。俺達に会ったらどうするんだっけ?」
いつも3人でたむろしている高校生3人組に、出会ってしまった。
前に金を恐喝されてから、街で出会う度に金を要求されるようになっていた。
「頭を下げてから……」
「その先だよ!『今日の分です』って言ってから、財布出せって言ってるだろうが!」
その言葉が飛ぶのと同時に、俺の腹に思いっきり蹴りが入った。
その場にドサッと座り込み、口から溢れた唾が不良の足元に飛び散る。
「なに唾かけてるんだ、ああん?」
不良はそのまま、俺の頭を地面に踏みつけてきた。
「こりゃ出会い料プラスクリーニング代だな」
踏みつけられた頭の上から、楽しそうな笑い声が降ってくる。
悔しさと痛さで、視界がじんわりと滲んだ。
「おい、いくらにするんだよ」
一人が俺の学生服の襟元を掴んで、顔を覗き込んできた。
「そうだな、一万でよくね」
「俺達は優しいから一万で勘弁してやんよ」
勝手に話を進める不良たちの足元を、俺は地面に頬を押し付けられたまま、ただ睨みつけることしかできなかった。
「そんな金、中学生が持ってるわけない……」
俺が弱々しく首を振ると、カツン、と相手の靴底が地面を鳴らした。
「無いんじゃねえよ。持ってくるんだよ!」
そうして左右の二人に無理やり立たされ、お腹に強烈なパンチを貰った、その時だった。
「坊主共、何をしている」
仕立ての良い純白のスーツを着た男が歩み寄ってきた。
無造作な黒髪に、うっすらと髭を蓄えた端正な顔立ち。
前髪の隙間から覗く鋭い眼光が、不良たちをまっすぐに射抜いていた。
あのジムで出会った、あの「おじさん」だった。
「なんだよ、親父がしゃしゃり出てくるな」
「高校生三人が、子供一人に恐喝か? 情けないな」
「喧嘩売ってるんかよ!」
俺を殴っていた男が、次はおじさんを目がけて突っ込んでいった。
「殴りに来るってことは、殴られる覚悟があるわけだな」
相手の方が、手を出すのが早かった。
だが、おじさんはそれ以上のスピードで踏み込む。鋭いフックが男の頭部へと迫る瞬間――。
後頭部の横に当たると危ないと思ったのかもしれない。
おじさんは、とっさに拳を広げた。
手のひらで高校生の頭をガシッと掴むと、そのまま投げつけるように地面へ叩きつけた。
ドサリ、とリーダー格の男が崩れ落ちる。
おじさんが、今度は俺を両脇から掴んでいた残りの高校生二人に、冷たい睨みを利かせた。
二人は恐怖でガタガタと震え、慌てて俺から手を離すと、倒れた仲間を大急ぎで引きずりながら逃げるように去っていった。
「おじさん……?」
地面に座り込んだまま、俺は呆然とその姿を見上げた。
「大丈夫か?」
おじさんは白スーツの膝が汚れるのも気にせず、俺の目の前にしゃがみ込んで顔を覗き込んできた。
「ありがとう……」
情けなくて、声が小さく震えてしまう。
おじさんは俺の泥だらけの服を優しくパッパとはたいてから、静かな声で問いかけてきた。
「なぜ手を出さなかった? 抵抗は出来ただろう?」
ジムで練習しているのを知っているからこその、疑問だった。
俺は顔を伏せ、地面を見つめたまま本音を絞り出す。
「人を殴るのは悪いことだし……怖かったから」
「怖いとは、何に対してだ」
責めるようなトーンじゃなく、ただ理由を知りたいというような、穏やかな聞き方だった。
だから、ずっと胸に引っかかっていた情けない本音を、そのまま口にすることができた。
「殴るのが怖いんだよ。だからスパも出来ないから……ずっとサンドバッグを叩いてるんだよ」
そんな俺を見て、おじさんはふっと目元を和らげた。
「優しいんだな」
「優しい……?」
思いもよらない言葉が返ってきて、俺は涙のたまった目で、思わずおじさんの顔を見返した。
変なことを言う人だと思う。
そういうのは普通、優しいのではなく、弱虫とか意気地がないというんじゃないだろうか。
「殴られるのが怖いんじゃないのか?」
おじさんの問いに、俺は小さく自嘲気味に笑った。
「殴られるのも嫌だけど、そこは……もう、殴られ慣れてるから」
親父からの暴力、学校での体罰、不良たちのカツアゲ。その痛みを思い出し、拳をきゅっと握りしめる。
「なら、やはり坊主は優しいんだな」
「それ、言葉の使い方間違ってねぇ? そこは弱虫とか意気地がないって言うんだよ」
思わず中学生らしい口調で反論してしまったが、おじさんは大真面目な顔で俺を見据えた。
「殴る怖さを知っているのは、優しいからだ。俺はお前のジムでの動きを知っている。お前が本気で暴れたら、あの三人全員は無理かもしれないが、一人や二人は倒せただろう」
本当にそうなんだろうか。なぜ戦ったこともないのに、俺の強さをそこまで言い切れるのか不思議だった。
「だがな、このままお前は奪われていいのか?」
「良くないけど……」
「なら、時には抵抗するのも大事だ」
おじさんの言葉は、胸の奥をジリジリと焦がす。だけど、どうしても一歩を踏み出せない理由があった。
「それでもし、俺が勝って、調子に乗っちゃったら?」
力を手に入れた俺が、あの不良たちと同じような化け物になってしまったら――。
そんな俺の不安を、おじさんはあっさりと切り捨てた。
「そうなったらそこまでの男だ。いつかまた、お前はさらなる力の前に屈服するだろうな」
「意味わかんねえよ」
「そうか。俺もわからん」
なんだこの親父は。
突き放したようなことを言ったかと思えば、おじさんはふっと視線を遠くの空へ向けた。
「暴力を振るわれたからって、無抵抗なのはよくないと俺は思っている。もしかしたら、抵抗することが法を犯すことになる可能性は十分にあるしな。それでも、無抵抗で奪われるのはよくないと俺は思っている。……俺はそうやって生きてきたからな。まぁ、賢くは生きてないってだけだ」
そう言って、おじさんは少し照れくさそうに笑ってくれた。
「俺はこうも思っている。無抵抗で渡す奴は、『もう自分はこうされても仕方ない』と諦めてるんだ。もちろん、抵抗したところで、また殴られて惨めな思いをするかもしれない。だがな、お前は戦おうと思って、あのジムに入ったんだろう?」
おじさんの真っ直ぐな視線が、俺の目をじっと見据える。
「なら、一歩進んでみたらどうだ」
その言葉が、ジワリと俺の胸の奥に染み込んでいくのが分かった。
後日、またあの高校生が姿を現した時のことだった。
奴が、威圧するように手のひらをこちらへ突き出した、まさにその瞬間だった。
俺の頭の中で、何かが激しく弾けた。
気がつけば身体が前に飛び出していた。低く姿勢を崩し、弾丸のような勢いで高校生の無防備な腹部へと頭突きで突進する。
「がはっ……!?」
めり込むような鈍い衝撃音とともに、高校生の身体が大きくへの字に折れ曲がり、そのまま後ろへ激しく転倒した。
完全に虚を突かれた奴の身体に、俺はすかさず馬乗りになって組み伏せる。
視界が真っ赤に染まる中、がむしゃらに拳を振り上げ、何度も、何度もその顔面を殴りつけていた。
背後にいた周囲の二人は、予想だにしなかった俺の豹変と狂気的な反撃に完全に恐れをなし、引き止めることも忘れて蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。
静まり返った路地裏で、俺はただ夢中になって、狂ったように拳を振り下ろし続けようとした。
その時、不意に強固な万力のような力で、掲げた右腕をガシッと掴まれた。
「坊主、もう決着はついている。やめろ」
耳元に響いた低く冷静な声に、俺はハッとして我に返った。
視線を下に落とすと、俺の下で血と泥に塗れて倒れている男。
俺よりずっと体格のいいはずの高校生は、完全に戦意を喪失し、怯えた目で涙を流しながら、掠れた声でずっと俺に謝り続けていた。
それなのに、俺は周りの音も聞こえなくなるほど無我夢中になって、ただただ彼を殴り続けていたのだ。
その暴走を、おじさんが強い力で押しとどめてくれていた。
「そこまでだ。それ以上はやりすぎだ」
静かだが重みのある言葉に、俺の身体からすうっと熱が引いていく。
俺は弾かれたようにおじさんの顔を見上げた。前髪の隙間から覗く鋭い眼光は、怒りではなく、どこか哀愁を帯びて俺を見つめている。
俺は、泥のように重くなった身体を動かし、馬乗りをやめてゆっくりと立ち上がった。
解放された高校生は、腫れ上がった顔を押さえ、恐怖に身体を震わせながら、這う失意のままに逃げるようにその場から去っていった。
静寂が戻った路地裏で、おじさんは小さく息を吐き、俺の泥まみれの顔を見下ろした。
「どうだ、気分は?」
問いかけられて、自分の胸に手を当てる。すうすうと冷たい風が通り抜けるような、ひどく虚しい感覚。
「わからない。ただ……こぶしも、心も痛かった」
握りしめた拳の皮は擦り切れ、じんじんと赤く腫れ上がって痛む。
だが、それ以上に、言葉にできない痛みが胸の奥をキリキリと締め付けていた。
「そうか」
おじさんは短く、俺の言葉を噛みしめるように頷いた。
俺は腫れた自分の拳を見つめたまま、ずっと疑問に思っていたことを口にする。
「何で殴るの? 素手だと、自分も痛いじゃん」
相手を傷つけるための拳が、どうしてこんなに自分をも痛めつけるのか、当時の俺には分からなかった。
そんな俺を、おじさんは少しだけ目を細めて見つめ、
「そうだな。それをお前は身をもって理解している。だからこそ、これからは無駄な暴力はしないだろう。よくやったな」
そう言って、大きくて無骨な、だけど温かい手のひらで、俺の頭を優しく、くしゃりと撫でてくれた。
その瞬間、胸の奥の痛みが、じわが広がっていく温かさに溶かされていくような気がした。
子供扱いされるのではなく、少しだけ一人前の男として扱ってもらえたみたいな気がして、誇らしいような、気恥ずかしいような、特別な感情が胸を満たしていくのを感じていた。
それからだったっけ、俺がこのおじさんに四六時中まとわりつくようになったのは。
まぁ、あの人はいつだって「煙たい」と言いたげに、ひどく嫌そうな顔をして見せていたけれど、それでも俺を突き放したり、その場から置き去りにするような真似だけは、決してしなかった。
学校の授業にもついていけず、勉強することそのものを諦めていた俺に、おじさんは文字通りいろいろなことを根気強く教えてくれた。
社会の仕組み、生きるための知恵、そして、人としての在り方。
不破久遠さん。
この街の片隅で、探偵を生業にしている。
当時の俺が、その人について知っていたのは、本当にそれだけのことだった。
あの日も、俺は高校の合格通知を誰よりも早く見せたくて、おじさんに会いにいつものジムへと向かって走っていた。
胸の高鳴りとともに視界が開けた、その瞬間だった。
けたたましいブレーキの金属音が響き渡り、視界の端で小さな女の子が危うい足取りで道路へと飛び出していくのが見えた。
同時に、対向車線から巨大なトラックが猛烈な速度で迫ってくる。
誰もが息を呑み、足がすくんで動けなくなる絶望的な刹那。おじさんだけは違った。
弾かれたように身体を動かしたおじさんは、少女をその逞しい腕で抱きとめると、すぐさま俺の方へと視線を向け、あろうことかその少女の身体を俺の胸元を目がけて力強く投げ飛ばしたのだ。
「クッションになれ!」
鼓膜を震わせるような、鋭く、張り詰めた怒号。
それは、俺なら絶対にこの少女を傷つけずに受け止めてくれるという、言葉を超えた絶対的な信頼の証だった。
その言葉が耳に届くより早く、俺の身体は無我夢中で前方へと飛び出していた。
一歩でも前へ、一センチでも遠くへ。
宙を舞う少女の身体がアスファルトに叩きつけられないよう、全力でおのれの身体を投げ出し、自分が下になるように激しく滑り込みながら、その小さな命を両腕の中にしっかりと抱き留めてキャッチした。
地面と激しく擦れ合い、衣服が破れて背中や腕に鋭い痛みが走る。
無傷とはいかなかったけれど、必死に守り抜いた少女の身体は、ほんの小さなかすり傷ぐらいで済んでいた。
事態に気づいた少女の親が、血相を変えてこちらに駆け寄ってきて、涙ながらに何度も何度も俺にお礼を言っている。
だけど、そんな感謝の言葉なんて、今の俺の耳には一切届かなかった。どうでもよかった。
俺は腕の中の少女をその親に押し通すようにして預けると、狂ったように顔を上げ、すさまじい衝撃音が響いたおじさんの方へと狂ったように走っていった。
「おじさん……! おじさん!!」
激しい衝突の末、無残にへこんだトラックのフロントマスクの先、冷たいアスファルトの上に不自然な形で横たわる純白のスーツが見えた。溢れ出る赤が、その白を無慈悲に染め上げていく。
駆け寄ってその身体を抱き起こそうとすると、トラックに跳ね飛ばされたはずのおじさんは、ゆっくりと、だけど確かに俺の方を見つめてくれた。
その瞳には、まだかすかに力強い意識の光が宿っていた。
なんで、どうして、という感情が涙とともに溢れ出し、喉の奥を締め付ける。
「こうなることぐらい、わかってただろう……っ! なんで、なんで助けたんだよ……!」
押し殺したような俺の慟哭を聞きながら、おじさんは苦しげに肺の空気を吐き出し、微かに唇を歪めた。
「坊主か……。それで、あの女の子は……?」
おじさんの口から漏れたのは、自分の身体のことではなく、真っ先に他人の安否を気遣う言葉だった。
俺は溢れる涙を袖で乱暴に拭いながら、必死に声を絞り出す。
「あんたが、あんたが助けたから……! ちょっとすりむいてるけど、あの子は無事だよ! ピンピンしてる!」
「……なら、よかった」
その言葉を聞いた瞬間、おじさんの張り詰めていた表情が、どこかホッとしたように、ひどく穏やかなものへと変わった。
それが余計に俺の胸を痛烈に締め付ける。
「今、周りの人が救急車を呼んでくれてる! もうすぐ来るから、きっと助かるから……だから!」
「もし……ここで俺が死んだとしても、後悔はないさ」
おじさんは静かに、諭すように言った。ドクドクと傷口から命が流れ出しているというのに、その声は驚くほど低く、どこまでも強く、凛とした芯が通っていた。
「後悔はないのかよ……!? 死んじまうかもしれないんだぞ!?」
「ないな。もしかしたら、あのまま事故が起きていたとしても、あの子は死なさずに済んだかもしれない。だがな、あそこで動かずに諦めたら……俺は一生、動かなかった事を呪って後悔するだろうよ」
おじさんの視線が、まっすぐに俺の瞳の奥へと突き刺さる。
「後悔……?」
「ああ。もちろん、自ら死にたいと思ったことなど一度もない。もし俺がここで死んだとしたら、それは全力を尽くした結果だ。だが、動かなかったという決断をもし下していたのなら、なぜあの時動かなかった、なぜ手を伸ばさなかったと、俺は一生後悔していただろうな。……お前はどうだ、坊主」
「俺……?」
投げかけられた問いの重さに、息が詰まる。
おじさんはかすかに血に濡れた手を動かそうとしながら、言葉を紡ぎ続けた。
「あぁ。これから先、お前の人生にも、理不尽な事や不条理な苦しみが数多く起きるかもしれない。だがな……それを周囲のせいにだけはするな。環境や、他人のせいにだけはして生きるな」
「だけど……っ、だけどさ!」
「人は弱い生き物だ。辛い現実から目を背け、忘れて、醜い自己防衛に陥ることもあるだろう。……だが、お前ならきっと思い出せる。理不尽に抗い、前を向いて進めると、俺は信じてるさ」
「やめろよ……そんな遺言みたいなこと言うの、絶対に嫌だ! おじさんが、おじさんが根気強く勉強も教えてくれたから、俺、合格できたんだぜ……っ! 志望校に、入れたんだ!」
届いてくれと願いながら、叫ぶように合格の報告をぶつけた。
おじさんは、一瞬だけ目を見開き、それから今日一番の、本当に嬉しそうな優しい笑みをその顔に浮かべた。
「そうか……。おめでとうな、坊主」
それが、おじさんの最期の言葉になった。
やがて遠くからけたたましいサイレンの音が近づき、救急車が現場に到着して慌ただしく医師たちが動き回ったけれど、おじさんが再びその目を開くことはなく、そのまま帰らぬ人となった。
「転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~」をお楽しみいただけましたか?
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