154話 魔族?
やっと……終わった。
深いため息が、俺の唇から自然と零れた。
胸の奥に残っていた熱が、ゆっくりと冷めていく。
満月の光が、木々の隙間から銀色に降り注ぎ、血の匂いがまだ濃く残る地面を照らしていた。
俺が振り返った瞬間――エレナの様子がおかしかった。
「エレナ……?」
彼女は頬を真っ赤に染め、大きな青い瞳を泳がせていた。
金色の長い髪が月明かりに輝き、普段の凛とした聖女の面影はどこにもない。
指を胸の前で固く組み、親指だけが小さく、忙しなく回っている。
「ひゃ、ひゃい……!」
声が上ずっている。
捕まっていた時に何かされたのか? それとも?
俺は心配になって一歩近づいた。
するとエレナは、慌てたように体をくねらせて後ずさり、もじもじと太ももを擦り合わせるような仕草を見せた。
白と金の法衣の裾が、枯葉の上を小さく揺れる。
「どうしたんだ、本当に? 何かあったのか? ……奴に、何かをされたのか?」
「な、なにも……されてませんわ……。シビさんが、来て……くださったので……」
彼女は顔を真っ赤にしたまま、うつむいてしまう。
長いまつ毛が震え、耳の先まで紅潮しているのが月明かりでもはっきり分かった。
俺はもう一歩近づき、優しく声をかけた。
「ならいいんだけど……本当に大丈夫か?」
「な……なにもありませんわ。本当に……」
エレナの声はどんどん小さくなり、結局最後はほとんど蚊の鳴くような声になった。
「ところで、あの人は……?」
エレナが、話題を変えようとするように小さく尋ねた。
「奴は死んだよ。体はまだ生きてるけど……精神が、魂が完全に死んだ状態だ。どんなことをしても、普通の手段ではもう二度と復活できない。奇跡の呪文でも使わない限りはな」
俺が静かに告げると、エレナは、彼の方を見て肩を落としていた。
それでも頬の赤みは全く引かず、時折俺の顔をチラチラと盗み見ては、すぐに視線を逸らしてしまう。
月明かりの下、血と焦げ臭の残る森の中で、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
この世には「奇跡を司る呪文」があるという。
どんな願い事も、叶えられるとされている。
ただし、その願いに見合った代償を必ず支払わなければならない――という、恐ろしい都市伝説だ。
公国の大図書館で、埃っぽい古書をめくったときに読んだことがある。
僧侶が神を自らの身に降ろすという禁呪があるという話は聞いたことがある。
その代償は、術者の命。
……今、目の前にあるこの現実を、命を賭けてまで変えたいと思うほどの絶望は、まだ訪れていない。
もし本当に代償が自分の命だったら、シャレにならない。
自分の身を犠牲にして世界を救うなんて、聖人君子ぶった真似は俺には到底できない。
だからこそ、俺は探すのをやめた。
「みんなが待っている。後片付けをしてから戻ろう」
俺がそう言うと、エレナは小さく頷いた。
「はい……」
彼女は優しく錫杖を地面に突き立てた。
チリ……ン♪
澄んだ、金色の鈴の音が、夜の森に静かに広がっていく。
血の匂いと焦げ臭が残る空気を、まるで清めるように。
淡い光の粒子が一瞬だけ周囲に舞い上がり、枯葉や血痕を優しく包み込んだ。
エレナの横顔が、月明かりの下で穏やかに輝いている。
さっきまでの赤面したもじもじした様子は少し落ち着いたようだが、
耳の先がまだほんのり桜色に染まっていた。
俺は無言でバムシムの抜け殻となった身体を一瞥し、
エレナの隣に並んで歩き始めた。その時だった。
ぱち、ぱち、ぱち……と、静かな拍手の音がどこからともなく響いてきた。
俺は即座に身を硬くし、周囲をきょろきょろと見回した。
血の匂いがまだ濃く残る闇に、拍手は不気味に反響している。
「あそこです」
エレナが緊張した声で俺の行く手を指差した。
視線を上げると、バムシムの山小屋の屋根の上に、一人の少年が佇んでいた。
茶色の柔らかな髪が月明かりに淡く輝き、赤い瞳が夜の闇の中で不思議な光を帯びている。
身長は150センチほど。華奢な体躯と中性的で儚げな顔立ちは、よく見なければ少女と間違えてしまいそうだった。
しかし、その整いすぎた容姿よりも赤い目。
その瞳の色が、俺の本能を鋭く引き裂いた。
一瞬で全身の魔力が警戒態勢に入る。
「アヤさんでよろしかったですよね。警戒しなくてもいいですよ」
少年はにこにこと無邪気な笑みを浮かべ、軽く片手を上げてみせた。
「そんなところに立ってるやつを警戒するなって方がおかしいだろ?」
「それも……そうですよね」
少年は小さく肩をすくめ、笑いながら屋根の端から一歩、ふわりと浮かぶように降りてきた。
着地は音もなく、枯葉一つ揺らさない。
「シビさん。きっとあの人を倒すために来た冒険者の方ですわ」
エレナは少年の殺気を感じさせない、無邪気な雰囲気に少し警戒を解いているようだった。
彼女が一歩前へ踏み出そうとした瞬間。
俺は素早くエレナの肩を掴み、引き止めた。
「待て」
声が低く、思わず鋭くなった。
まだ油断はできない。
この少年の赤い瞳と、戦闘直後に現れたタイミング……ただの通りすがりとは到底思えなかった。
「警戒心マックスですよねぇ。そんなに気を張っていたら疲れるだけで、将来ハゲても知りませんよ」
少年の口調は軽快で、まるで友達と冗談を言い合っているようだった。
「大きなお世話だよ」
俺はキッと彼を睨みつけた。
月明かりの下、少年は「やれやれ」と首を振りながら小さく肩をすくめた。
「エレナさんの言う通り、僕はあの人を始末しに来たんですけどね。
手間が省けて助かりましたよ」
「……なんで、味方を手にかけようとする?」
俺の直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
確証はない。だが、この少年は敵だ。
赤い瞳の奥に潜む何か――底知れない冷たさが、俺の本能を刺激していた。
「あはは、そうですね。少し調子に乗りすぎてるからですよ。
格上に喧嘩を売って、負けそうになったらすぐに情報を売ろうとするカスでしたから」
少年はニッと笑った。
本当に気持ちの良い、少年らしい無邪気な笑顔だった。
――なのに。
俺の体温が、まるで氷水を浴びせられたように一気に1.2度下がった気がした。
背筋に冷たいものが這い上がる。
俺は無意識に腰のグラディウスに手をかけた。
柄を握る指先に力がこもる。
その瞬間、少年の笑顔が少しだけ深くなった。
「その判断はやめた方が良いですよ。あなたたちは万全じゃないし、僕も今は戦う気なんてありませんから。それに……戦ったら、せっかく周囲で助かった人たちも、僕たちの戦いの余波で死んじゃいますよ?」
少年の声は相変わらず柔らかかったが、
その言葉の最後には、明確な脅しが込められていた。
周囲の自然が急に静まり返った。
風すら止まり、月明かりだけが俺と少年の間に冷たく差し込んでいる。
エレナが俺の背後に寄り添う気配がした。彼女の指が、そっと俺の服の裾を掴んでいた。
そう言いながら、少年はゆっくりと人差し指を立てた。
指先から、ぽつり……と小さな、赤い炎が灯った。
それはまるで、蝶の羽のように儚く揺らめいている。
しかしその炎の色は、どこか禍々しく、底知れない熱を秘めていた。
少年は軽く指を弾いた。
炎は弧を描いて飛んでいき、廃人と化したバムシムの身体に触れた。
次の瞬間。
ゴォォォォォォッ!!
凄まじい火柱が夜空を突き刺した。
バムシムの身体は一瞬で巨大な炎の渦に包まれ、骨まで焼き尽くされる音が、乾いたパチパチという音とともに響き渡る。
肉が焦げる臭いと、黒い煙が森に広がっていく。
わずか数秒で、かつてバムシムと呼ばれた存在は、灰すら残さずに消え失せた。
「連れてかれて研究材料にされても困りますから、ゴミは焼却しないといけませんよね」
少年は笑顔のまま、まるで天気の話をしているかのように軽く言った。
その言葉に、俺の全身が凍りついた。
蛇に睨まれた蛙のように、指一本動かせない。
背中を冷たい汗が伝い、喉がカラカラに乾く。
この少年の笑顔の裏に、圧倒的な何かが潜んでいるのが本能的に分かった。
「お前は……?」
俺は必死に声を絞り出した。
「名前は募集中です。そうですねぇ……魔族、ですかね」
「魔族だと……? だが、魔族の存在なんて――」
「まぁ、おとぎ話って言うんでしたっけ? ほら、彼が言ってたじゃないですか。仮称で魔族だって」
少年はにこにこと微笑みながら、まるで授業でもするように説明する。
「何を指して魔族だ!」
俺は自分が持てる限りの意識を強く保ちながら、少年を睨みつけた。
腰のグラディウスを握る手に、汗が滲む。
エレナが俺の背後で小さく息を呑む気配がした。
「君たちだって人族って言うじゃないですか? 変な人だなぁ。君たちは僕たちを、魔物とか言うそうですけど、僕たちは物じゃないんですよ。人間達を人物とは言いませんよね?」
少年はくすくすと笑いながら、まるで子供が言葉遊びをしているような軽い口調で言った。
しかしその赤い瞳は、笑顔とは裏腹に冷たく、底の見えない湖のように静かだった。
俺は思わず後ろにいるエレナに視線を移した。
彼女の顔が、さっきまでとは打って変わって青ざめていた。
金色の長い髪が月明かりに揺れ、細い指が俺の服の裾をぎゅっと掴んでいる。
聖女らしい柔らかな手が、わずかに震えていた。
俺は無意識に彼女を守るように、少し身体をずらして前に出た。
「本当にお二人ともお強いですよね。 普通の人なら僕たちを見ても気にならないのにね、どういう理屈かわからないけど、強者にしか僕たちの“気”が伝わらないそうなんですよ。本当に困りますよねぇ」
少年は困ったように首を傾げながらも、口元には変わらず柔らかい笑みを浮かべていた。
笑っているのか、本当に困っているのか――その境界が全く読めない。
「今回の件は、僕は関わってはいないんですけどね。なんか周辺がバタバタしてる気がして、用事から帰るついでに見に来たってところですよ」
「……ということは、お前一人じゃ……」
「一人を指して『族』なんて言葉は使いませんよ」
少年は即座に訂正し、にっこりと微笑んだ。
その瞬間、エレナが俺の背後から震える声で問いかけた。
「な、なぜ人に危害をしようとするのですの……?」
彼女の声は小さく、しかし聖女としての正義感がにじみ出ていた。
少年はエレナのほうを向くと、まるで可愛い小動物を見るような、優しげな目をした。
「エレナさんの質問に答えますか……そうですね」
少年は人差し指を自分の唇に当て、わずかに首を傾げて何かを考え込むような仕草をした。
赤い瞳が月明かりを反射して、まるで血の滴のように輝いている。
やがて何かを思いついたように、パンッと小さく手を叩いた。
彼は俺たち二人を交互に見つめ、にっこりと微笑んだ。
「エレナさん、あなたは犬や猫はお好きですか?」
「はい……好きですけど?」
エレナは質問の意図が全く掴めない様子で、戸惑いながらも素直に答えた。
彼女の声が少し上ずっている。
「僕にとっては、人は愛玩動物みたいなものなんですよね。あとは一応、創造主みたいな者への敬意もあるのかも知れませんけど……。でも、他の魔族は全然違うんですよ。君たちだって十人十色でしょう? 僕たちも同じなんですよ」
少年は俺の方を向くと、カラッとした明るい笑顔を見せた。
その笑顔は本当に気持ちが良く、少年らしい無邪気さに満ちていた。
――なのに、俺の背筋はますます冷たくなっていく。
「他の人たちは、アヤさん達が『魔族になり切れなかった龍君』を倒したから、余計に警戒してるのかもしれませんね。ほら、可愛い動物を見て楽しむこともあるけど、小さな危害でも大きくなる前に潰しておこうとする……そんな感じだと思いますよ」
エレナが一歩前に出て、聖女らしい真剣な眼差しで訴えた。
「ですが、手を取り合ってルールを決めれば、お互い傷を与えなくても平和に暮らせるはずでは……?」
少年は目を細めて、くすくすと笑った。
「面白い意見だよね、エレナさんは。……ところで、エレナさんは水袋を持っていますか?」
「今は手持ちはありませんが、キャンプまで戻れば……」
「それって革製ですよね?」
「そうですけど……?」
少年の笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「革製ってことは、動物の皮をはぎ取って袋にしたわけです。肉を食べ、骨を使い、皮を剥ぎ……ありとあらゆるものを利用した。今まで大事にされていた動物は、どう思うんでしょうね?」
その言葉が、静かな山に重く落ちた。
エレナの表情が一瞬で凍りつき、俺の胸の奥で何かがざわついた。
少年は相変わらず柔らかい笑みを浮かべたまま、
俺たちを優しく、しかし容赦なく見つめ続けていた。
エレナの顔が、月明かりの下で真っ青に青ざめていた。
金色の髪が震えるように揺れ、唇を固く結んでいる。
僧侶として、人々の命を尊ぶ彼女にとって、この少年の言葉は心に深く突き刺さったのだろう。
俺はふと、故郷の記憶を思い出した。
日本では、すべての物に神が宿ると教わった。
命を糧にして生き延びるからこそ、食事の前に「いただきます」と感謝を捧げる。
この世界に、そんな考え方が根付いているとは思えなかった。
「僕たちだって同じですよ。可愛がりたいから可愛がるし、ムカついたら殺すし、食べたいなら食べるだけ。君たち人族がやっていることと、何が違うっていうんですか?」
少年は本当に不思議そうに首を傾げ、エレナに問いかけた。
その純粋な瞳と残酷な言葉のギャップに、エレナは言葉を失っていた。
論破も、反論も、彼女の優しい心では到底追いつかない。
「君たちが目指す場所にいる魔族は、人を支配して楽をしたいみたいなんですよね。僕は興味ないんですけど……だから、行ってみればいいですよ。僕は妨害しません。傍観者でいるだけですから。まぁ、人がどれだけ強くても、僕達には勝てないでしょうけど……やってみればいいですよ?」
少年は軽く肩をすくめ、悪戯っぽく首を傾げながら、にこりと笑った。
その笑顔は本当に少年らしく明るく、月明かりに照らされて天使のようにさえ見えた。
しかし、赤い瞳の奥だけが、底知れぬ闇を湛えて静かに笑っている。
「お話しできて楽しかったですよ。バイバイ」
彼は小さく手を振り、まるで近所の友達に別れを告げるように、
ふわりと森の闇へと歩いていった。
茶色の髪が月明かりに溶け、赤い瞳の残像だけが一瞬、闇に浮かんで消えた。
俺たちは残された人質たちを解放した。
……しかし、彼らの目は忘れられない。
助け出されたはずの者たちが、俺に向ける視線は、「お前がここに来たから、私たちはこんな目に遭った」という、呪詛のような怨嗟に満ちていた。
恐怖と疲労と絶望が混じり合った、冷たい目。
俺はそれを受け止め、何も言い返すことができなかった。
山のふもとで彼らと別れ、俺とエレナは瞬間移動の魔法で、合流を約束していた村へと戻った。
「転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~」をお楽しみいただけましたか?
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