153話 魂を焼く蒼炎
俺が自分の精神世界から這い戻ってきた瞬間。
エレナが地面に押し倒されていた。
白金の長い髪が乱れ、聖なる白と金の法衣が泥と枯葉に汚れている。
彼女の大きな青い瞳には、恐怖と屈辱の涙がぎらぎらと溜まっていた。
その上に跨るのは、醜悪な笑みを浮かべたバムシムだった。
「聖女が乱れる姿を録音にすれば、なかなか売れるよな。お前が泣き叫びながら悦んでる顔を、シビさんに見せてやあげましょう」
その下卑た言葉が耳に届いた瞬間。
エレナが――震える唇を噛みしめ、必死に顔を背けている。
考えるより先に、身体が動いた。
「加速!」
世界が一瞬、音を失った。
鼓動が、血流が、魔力が爆発的に加速する。
俺は地面を蹴り、銀色の残光を引いて跳躍した。
バムシムが一歩踏み出したその刹那。
俺の右膝が、奴のこめかみを容赦なく打ち抜いた。
ゴッ、という重い音が響き、体が数メートル吹き飛ばされて木の幹に激突した。
「人の女に手ェ出すんじゃねえよ……!」
着地と同時にエレナの元へ滑り込み、片腕で彼女を抱き起こした。
細い身体が、驚いたように小さく跳ねる。
それでも俺は、彼女の背中を強く、強く抱きしめた。
温かい。
柔らかい。
間に合った。
あきらめなくて、本当に良かった。
エレナが俺の胸に顔を埋め、掠れた声で囁いた。
「……気づかれたのですか……?」
「当たり前だ」
倒れていたバムシムが、ゆっくりと立ち上がる。
口の端から血を垂らしながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「ばかな……! 急所に攻撃が出来るなんて!」
奴は深く息を吸い込んだ。
胸が異様に膨らみ、喉の奥で灼熱の魔力が渦巻く。
次の瞬間――
「フゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
猛烈な火炎の息吹が、森を焼き払う勢いで俺たちに向かって噴き出した。
赤黒い炎が木々を瞬時に焦がし、夜気を歪める。
俺は腰の小型水筒の栓を素早く外しながら、力ある言葉を紡いだ。
「水の精霊ウィンディーネよ、我が主を包み、水の膜を張り、すべての炎から守り給え!水膜球!」
水筒の口から青く輝く光が溢れ出した。
透き通った水の乙女が一瞬姿を現し、俺たちを中心に巨大な水の球膜を展開する。
バチバチッ! ザァァァァッ!!
炎と水が激突し、白い蒸気が爆発的に立ち上った。
それでも水膜は揺るがず、俺とエレナを優しく包み続けている。
月明かりの下、金髪をなびかせたエレナの横顔が、ほんの少しだけ、安堵に緩んだ。
「次はこちらから行くぞ! 雷神の怒りよ、闇を裂く雷よ! 敵を貫け!」
俺が詠唱を終えると同時に、空が軋んだ。
山の夜空に、漆黒の雷雲が瞬時に渦を巻いて広がっていく。
満月の光を遮り、紫電がチリチリと空気を焦がす。
バムシムの頭上に、死を予感させる暗雲が重く垂れ込めた。
「雷鳴の裁き!」
ゴォォォォンッ!!
天を裂くような轟音とともに、太い雷が一直線に落ちた。
光の槍がバムシムを狙い、地面を抉りながら炸裂する。
しかし奴は懐から黒い布を取り出すと、それを軽く振るっただけで、雷が、まるで幻のように掻き消えた。
「シビさんは忘れましたか? 俺を殺せば人質が死ぬってことを。またお前は人を殺すのか?」
バムシムの嘲るような声が響いた。
「シビさん……」
その時、エレナの柔らかな腕が俺の背中に回された。
彼女の体温が、震えるほどに温かい。
金色の髪が俺の肩に触れ、甘い聖なる香りが鼻をくすぐる。
どれだけ俺の手が血に染まろうとも、このぬくもりがあれば、俺は前に進める。
奴の指が、わずかに動いた瞬間。
ドンッ、という鈍い音が響いた。
倒れていた人質の女性の首が、赤黒い花のように爆散した。
鮮血が夜の空気に飛び散り、地面に重く落ちる音がする。
周囲が、血の色に染まっていく。
「これは俺が殺したんじゃないですよ。はむかった貴女が俺に押させたのです。どうですか? 良心の呵責を感じませんか?」
バムシムは愉しげに笑った。
その笑顔が、月明かりの下で歪に輝く。
俺は無言でエレナの胸元に、小さな銀のボタンをそっと留めた。
指先で軽く押すと、淡い光が一瞬だけ瞬いた。
「シビさん……?」
エレナが不安げに俺を見上げる。
大きな青い瞳が、月光を映して揺れている。
「お守りだよ」
それだけを短く告げ、俺は再びバムシムの顔を真正面から睨みつけた。
「さぁいい子ですので、もう刃向かうのはやめにした方が良いですよ。また罪のない人が死ぬだけですよ」
バムシムは血まみれの口元を歪めて、ねっとりと笑った。
月明かりに照らされたその顔は、まるで悪魔の仮面のように見えた。
「だからどうした」
俺は冷たく吐き捨て、右手を奴に向けた。
魔力が指先で渦を巻き、青白い光が鋭く凝縮していく。
「魔法の矢――貫け!」
刹那、エネルギーの矢が高速で放たれた。
それはバムシムが立ち上がろうとした右太ももを、文字通り貫通した。
ズドンッ!!
肉と骨を抉る重い音が響き、鮮血が弧を描いて飛び散る。
「うぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
奴は悲鳴を上げて再び地面に倒れ込み、激痛にのたうち回った。
太ももから噴き出す血が、枯葉を真っ赤に染めていく。
「ま……まだ理解してないのですか? ……これ以上したら……」
「やればいいさ」
俺は静かに、しかしはっきりと言った。
「泣いて悲しんで、『もっといい方向で出来たかもしれない』って後で悩むんだろうな。だけどな、それよりも俺が大事にしている人たちが悲劇に陥るぐらいなら――」
俺はエレナの方をそっと振り返った。
彼女の大きな青い瞳が、月光を受けて不安げに揺れている。
それでも俺は、彼女に向かって優しく微笑んだ。
「どれだけでも、この手を赤く染めてやるよ」
エレナの唇が、わずかに震えたように見えた。
俺は再び前を向いた。
「風刃!」
手を大きく広げた瞬間、俺の周囲の空気が鋭く唸った。
無数の透明な風の刃が、月明かりを反射しながら螺旋を描いて生まれる。
数十、いや百に及ぶ風刃が、一斉にバムシムへと襲いかかった。
「ぐぁぁぁっ!?」
奴は必死に両腕を交差させて防御しようとした。
致命傷だけはなんとか避けたが――
シャッ! シャシャシャッ!! ズシャァァッ!!
風の刃は容赦なく奴の全身を切り刻んだ。
肩、胸、腹、両脚――至る所に深い切り傷が刻まれ、血が噴水のように溢れ出す。
バムシムの醜い悲鳴が、夜の森に木霊した。
「く……くるな……!」
バムシムの声が、恐怖でかすれていた。
俺はゆっくりと、一歩、また一歩と奴に近づいていく。
月明かりに照らされた山の頂上の地面を踏む靴音が、低く重く響く。
血の匂いが濃くなり、枯葉を踏みしめる感触が凄く感触を感じた。
「なぁ、なあ……同郷だろ? 助けてくれよ。こんなの、ただのお遊びだろ? お前が望めば地位も金も、男も女もより取り見取りで、好き勝手できるんだぜ……なぁ、兄弟!」
奴の声が必死に震える。醜く歪んだ顔に、血と汗がべっとりと張り付いている。
俺は無言のまま、もう一歩を踏み出した。
「なぁ、俺を生かした方が得だぜ……! 魔族の情報は俺だけが持ってるんだろ? な……なぁ……!」
その哀れな懇願に、俺は冷たく吐き捨てた。
「爆裂!」
指先を奴の右手に突きつけた瞬間、魔力が収束し、炸裂した。
ドゴォォォッ!!
バムシムの右手が、肉片と骨片を撒き散らして吹き飛んだ。
赤黒い血が弧を描き、地面に叩きつけられる。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
奴は絶叫を上げて地面を転げ回り、残った左手で血まみれの腕を抱きしめた。
断面から噴き出す血が、月光を受けて不気味に輝いている。
「なぁ……なあ、助けてくれよ……死にたくないんだよ……! ちょっとした遊びだっただろ……!」
「お前に爆破された人や、尊厳を奪われた者たちは、助けてくれと思ったはずだ」
俺は静かに、しかし冷徹に言葉を返す。
「お前は、誰かを助けたことがあったのか?」
「約束しただけなんだ……! 相手も納得してたんだよ! 俺のせいじゃないだろ……!」
「どうした? さっきまでの強者ぶった口調はどこへ消えた?」
バムシムは俺が一歩進むたび、尻を地面に擦りつけながら必死に後ずさった。
血で滑る地面を這い、枯葉を血に塗れさせながら、這々の体で逃げようとする姿は、惨めそのものだった。
「なぜだ……! 俺がこんな目に遭わないといけないんだ! 俺達は好きなことをして、好き勝手に生きるはずだっただろ……!」
俺は足を止め、奴を見下ろした。
冷たい風が、血の匂いを運んできていた。
「好きなことをしたはずだぜ。自分の欲望のままに、好き勝手に生きてきたんだろ?」
その瞬間――奴の左手が、血まみれの指で何かを押し込もうとした。
俺は即座に内ポケットから小型の投擲ナイフを抜き放ち、振りかぶった。
「遅い」
銀色の閃光が夜気を切り裂く。
小型ナイフはバムシムの左手甲を正確に貫通し、勢い余って地面に深く突き刺さった。
スイッチを握っていた指が、力なく開く。
「ぐあっ!?」
同時に俺は右手を突き出し、魔法の矢を放った。
「――貫け!」
青白い光の矢が一直線に飛んで、スイッチ本体を見事に粉砕した。
破片が火花を散らしながら飛び散る。
「もう念仏はいいのか?」
「……ね、念仏……?」
「ああ、言いたいことは全部言っただろ?」
「なぁ……助けてくれ! 俺は何度も手を差し伸べただろう……!」
俺は無言で、ゆっくりと奴のとどめを刺せる位置まで歩み寄った。
靴底が血溜まりを踏み、粘つく音を立てる。
「よしよし、間に合った。エレナよ、こちらに来い!」
バムシムが勝ち誇ったように叫んだ瞬間――
カァン……!
澄んだ、金属質の小さな音だけが森に響いた。
何も起こらなかった。
エレナは先ほどの位置から一歩も動いてはいなかった。
「なぜだ……!? なぜエレナが俺の手元に来ない! きさまぁ、何をしたんだ!?」
奴の顔が、恐怖と絶望で歪みきる。
俺は無言で右足を振り上げ、奴の顎を真正面から蹴り抜いた。
ゴッ!!
バムシムの巨体が跳ね上がり、数回地面をバウンドしながら吹っ飛んだ。
血と歯が夜空に弧を描いて散る。
「一回それでエレナを誘拐されてるんだ。同じミスを犯すわけがないだろ」
俺は冷たく言い放ち、ゆっくりと拳を握りしめた。
月明かりの下、エレナの胸元で、小さな銀のボタンが淡く光を放っている。
お守りとして渡した、あの魔力遮断の護符が、奴の最後の悪あがきを完璧に封じていた。
俺がエレナの方へ視線を向けると、彼女も驚いたような瞳を大きく見開いて俺を見つめ返していた。
金色の長い髪が月明かりに輝き、青い瞳に安堵と驚愕が混じり合っている。
その表情が、俺の胸を熱く締めつけた。
「くそ! くそ! くそぉっ! 間に合った~! 俺が作ったアイテムのチャージが、間に合ったぞぉ~!」
バムシムが地面に這いつくばったまま、狂ったように笑い声を上げた。
血まみれの顔に、狂気と勝利の色が浮かんでいる。
「もう貴様の言葉を聞くのも飽き飽きだ!」
俺は苛立ちを込めて右手を突き出し、力ある言葉を放った。
「爆裂!」
ドゴォォォォンッ!!
バムシムの身体を中心に、凄まじい爆炎が巻き起こった。
地面が抉れ、枯葉が一瞬で蒸発し、衝撃波が周囲の木々を激しく揺らす。
しかし、炎が晴れた後、奴は無傷でそこに座っていた。
赤黒いオーラのような膜が、奴の全身を覆い尽くしている。
「これで俺も攻撃ができなくなったが、貴様も攻撃ができなくなっただろう? 早く殺しておけばよかったのに……次回こそ、貴様をおもちゃにして地獄を味わわせてやるぞ!」
俺は眉を寄せ、冷たく問いかけた。
「何をした?」
バムシムは血の混じった唾を吐き捨て、嘲るように笑った。
「外部からの攻撃をすべて遮断したんだよ。代償としてこちらからもちょっかいが出せなくなったけどな……! どうだ? これで俺たちは互いに手が出せない。完璧な膠着状態だろ?」
周囲の空気が、重く淀んだ。
月明かりの下、奴の身体を包む不可視の膜が、わずかに歪んで光を屈折させている。
俺はバムシムの嘲るような言葉を聞き流し、ゆっくりと深呼吸をした。
胸の奥底から魔力を引きずり出し、力ある古代の言葉を紡ぎ始める。
「ヴォル・ガ・ザ・レド・ザルバ! ガウ・ジ・ギル・グラギオス。蒼き魂よ、我が掌に集い、青き劫火となれ。生の根源を完全に断絶せよ!」
「無駄だと言っているだろうが……!」
バムシムが嘲笑うが、俺は構わず右手をゆっくりと上向きに掲げた。
その瞬間――
俺の掌の上で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながら、
巨大な蒼き炎が灯った。
炎は青を通り越して、深く澄んだ瑠璃色に輝いている。
熱はほとんど感じさせず、ただ冷たいほどに美しい。
周囲の空気を歪め、月明かりすら飲み込んで揺らめくその炎は、
俺の手のひらに収まりきらないほど大きく、まるで生き物のように脈打っていた。
バムシムが血まみれの目を見開き、震える声で叫んだ。
「炎は蒼くなれば高温になるけど、効果を強くしても無駄ですよ。言っただろう。攻撃は喰らわないと。俺もアイテムで精神防御類は利かないから幻覚だろうが、効きはしない!」
奴は必死に笑おうとしたが、声は明らかに震えていた。
俺は静かに、炎を見つめながら続けた。
「この炎は、外からの攻撃じゃない。お前の魂そのものだ」
「……たましい……だと?」
バムシムの顔から、初めて本物の恐怖が浮かんだ。
目を見開き、血まみれの唇を震わせる。
「昔話にもあるだろう。命のろうそくと同じだ。この炎を消した瞬間、お前の命も完全に尽きる」
蒼い炎が、俺の掌の上でゆっくりと揺らめいた。
美しく、儚く、そして残酷なまでに冷たい光を放っている。
「やめろ……やめろぉ~~~!」
奴が這いつくばりながら絶叫する。
尻を地面に擦りつけ、血だらけの体で後ずさろうとするが、すでに逃げ場などない。
俺は冷たく微笑み、最後の言葉を告げた。
「外道になればなるほど、悲しくも美しい色をしているな……」
俺は静かに息を吐き、掌の上で揺らめく蒼き炎をゆっくりと握りしめた。
「――蒼魂死焔」
指が閉じられた瞬間、炎は音もなく潰れた。
まるで命の灯火を無理やり押し潰すように。
その刹那。
「ぎゃああああああああああああっ!!」
バムシムの喉から、地獄の底から引きずり出されたような絶叫が迸った。
目と口、鼻孔、耳の穴――全身の穴という穴から、鮮烈な蒼い炎が噴き上がる。
炎は熱を持たず、ただ冷たく、静かに、しかし容赦なく燃え続けていた。
奴の身体が激しく痙攣する。
背骨が弓なりに反り、指が地面を掻き毟り、足が無意味に地面を蹴る。
しかしその瞳の奥にあった「バムシム」という人格の光は、すでに消えていた。
蒼い炎が体内を巡り、魂の根源を焼き尽くしていく。
記憶も、欲望も、恐怖も、喜びも、すべてが青い火に飲み込まれ、灰すら残さずに蒸発していく。
やがて絶叫が、奇妙なうめき声に変わり、
そして――完全に途切れた。
バムシムの身体は、ピクリとも動かなくなった。
しかし、息はしていた。
胸が、ゆっくりと上下している。
心臓はまだ鼓動を刻み、血はまだ流れている。
目を開けたまま、虚ろに月明かりを映している。
ただ、そこに「バムシム」という存在はいなかった。
魂は完全に消滅し、残されたのはただの肉の器。
温もりはあるのに、魂の欠けた、ただの抜け殻だった。
風が吹き、枯葉がその体の上を滑っていく。
かつての悪鬼のような笑みも、嘲るような言葉も、もう二度と発せられることはない。
ただ、静かに、静かに、月明かりの下で横たわっている。
俺はゆっくりと拳をほどき、掌に残ったわずかな蒼い火の粉を夜風に散らした。
「転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~」をお楽しみいただけましたか?
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