152話 夢での出会い
「坊主、起きろ」
低く、骨まで響くような声が、暗闇の底から俺を引きずり上げた。
瞼を開けると、そこにいたのは白一色の男だった。
白いスーツ、白い帽子、白い革靴。
キックボクシングジムで出会った、あの頃の探偵のおじさんがいた。
薄暗い意識の空間の中で、彼だけが異様に鮮明に浮かび上がっていた。
「……おじさん……? どうしてここに……」
自分の声が、ひどく幼く掠れる。中学生の頃の声だ。
おじさんは帽子を軽く上げ、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「俺が助けに来たと思ったのか?」
俺は慌てて自分の体を見下ろした。
細い腕。華奢な肩。白いシャツの袖がぶかぶかと余り、制服のズボンが膝の上で止まっている。
中学生の、弱くて小さくて、情けない体。
「夢……だったのか?」
「いつまで現実から逃げてるつもりだ」
おじさんの視線が、ゆっくりと俺の背後へ流れた。
そこに、彼女が立っていた。
銀色の長い髪が、まるで月光を溶かしたように淡く輝いている。
深紅の瞳は、血のように赤く、しかし感情の欠片も映していない。
人形のような、無機質な美しさ。黒いレザージャケットの下に鮮烈な赤のドレスを纏い、腰には黒いベルトが締められ、手には巨大な剣を軽々と下げていた。
シビ アヤ。
俺が転生したこの世界で、転移した姿。
アヤは、無表情でこちらを見下ろしていた。
銀髪の合間から覗く赤い瞳が、冷たく俺を射抜いてきた。
まるで攻められてる気分を感じてくる。
「……俺は、負けたのか」
おじさんは静かにため息をつき、帽子を深く被り直した。
「なら、このまま諦めるのか? それじゃあ本当に、坊主としか呼べねえな」
「だけど……俺が起きたところで、何が変わるんだよ! この体で……この弱い俺で……あんな風にされて、勝てるわけがないだろ!」
叫びながら、俺は自分の小さな手を握りしめた。指が細くて、力が入らない。
おじさんはゆっくりと俺の前に屈み、目線を合わせた。
白いスーツの膝が床について、わずかに皺が寄る。
「あの時も、そう言ってたよな。覚えてるか?」
忘れるはずがない。
雨の降る放課後。カツアゲに遭い、震えながら財布を差し出そうとした俺。
あの白い影が現れ、たった一人で上級生三人を叩きのめした瞬間。あの背中を、俺は死ぬほど憧れた。
おじさんは白いスーツのポケットから煙草を取り出し、火を点けた。薄暗い意識の空間に、白い煙がゆっくりと広がっていく。
おじさんは白いスーツの内ポケットから煙草を取り出し、マッチで火を点けた。
薄暗い意識の空間に、刺激の強い煙草の匂いが広がる。
紫煙がゆっくりと渦を巻きながら、天井に向かって昇っていく。
「なんで、無抵抗で金を渡そうとした」
低く、煙混じりの声が俺の胸を抉った。
俺は小さく息を詰め、昔の自分を思い出した。
「……体格も違う高校生が4人集まったら、痛い目を見るだけじゃん。痛いの嫌だもん……って、そう言った」
情けない言葉を吐き出すと、顔が熱くなった。
おじさんは煙を深く肺に溜め、ゆっくりと吐き出した。白い煙が俺の顔の前を横切る。
「そう言ってたな。そのあと俺が行った言葉、覚えているか?」
「うん……どこかで見たこともあるガキだったと思ったら、ジムによく来る坊主じゃないかって」
おじさんの口元に、わずかに苦い笑みが浮かんだ。煙草の火が赤く瞬き、灰が長く伸びる。
「その後でこう言ったよな。無抵抗で渡す奴は、もう自分はこうされても仕方ないと諦めてる。もちろん抵抗しても殴られて惨めな思いをするかもしれないが、お前は戦おうとあのジムに入ったのなら、一歩進んでみたらどうだってな」
その言葉が、今も鼓膜に残っている。あの雨の匂い、白いスーツの袖が俺の腕を掴んだ感触。
おじさんはもう一口、煙草を深く吸い込んだ。煙が喉の奥でごろりと回る音さえ聞こえる気がした。
「その後、お前はもう一度、同じ経験をしたよな」
「……うん。そして大声で怒鳴りながら、抵抗してみたら……何とかなった」
声が震えた。
おじさんは煙草を指先で軽く回しながら、目を細めた。
「誰にでもこう言うアドバイスはしないて言ったよな。お前は一人前の男になれると思ったから言っただけだ」
その一言が、胸の奥に熱く、重く落ちた。
煙がゆらゆらと漂いながら、俺の背後へと流れていく。
「坊主……どうする? また、無抵抗で諦めるのか?」
「だけど俺は……思いっきりやって、叶わなかった」
声が震えた。自分の言葉が、情けなくて惨めで、喉に絡みつく。
おじさんは静かに目を細め、煙草の灰を指で落とした。
「だから諦めるのか? それもいいだろうよ。お前の人生だからな」
「……おじさん」
俺はすがるような目で彼を見上げた。
おじさんは白い帽子のつばを軽く指で押し上げ、俺を真正面から見据えた。
「諦めるやつには、何も残るものは無い。その後何が起きても後悔はするなと、教えたよな。これ以降お前の運命の予想はついているんだろう」
その言葉に、背筋が凍った。
「……私たちは、凌辱される」
声が掠れる。吐き出すだけで、胃がひっくり返りそうだった。
おじさんは煙草を口から離さず、低く続けた。
「本当にそれでいいのか?」
「嫌だよ……でも怖いんだよ……! なんだよ、おじさんまで人を殺すのはいい事だというのかよ!」
叫びながら、俺は自分の細い腕を抱きしめた。中学生の体が、震えて止まらない。
おじさんは煙を長く吐き出し、静かに首を振った。白いスーツの肩がわずかに落ちる。
「人を殺すことはいけないことだ。どんな理由があってもな」
「だったら!」
「なら聞くが、人の尊厳を壊して、他人の薄汚れた欲望に身を委ねることはいい事なのか!」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。熱くて、重くて、逃げられない。
俺は言葉に詰まった。
「……それは……」
おじさんは煙草をもう一口、深く吸い込んだ。火が赤く強く輝く。
「全てを諦め、十数年迷子になっても、お前は前に進もうとしていただろ」
「……何でおじさんが知っているんだよ。おじさんは……」
おじさんは静かに笑った。哀れむような、けれどどこか優しい笑みだった。
「あぁ、もう気づいてるだろ。今の俺はお前が作った俺の幻影だという事を」
その瞬間、空間の空気が変わった。
煙草の煙が、ゆっくりと渦を巻きながら俺の周りを包む。おじさんの白い姿が、わずかに透け始めている気がた。
おじさんは静かに目を細めた。
俺の高校合格が決まったあの日。
俺の目の前で、車道に飛び出した小さな子供をかばって、返らぬ人となった。
『こうなることぐらいわかってただろう。なぜ助けたんだよ』
『坊主か、それとも女の子は?』
『あんたが助けたから、ちょっとすりむいてるけど無事だよ』
この人は車に引かれる直前、俺の姿を見て、ぶつかる寸前で女の子を俺の方へ突き飛ばしたんだ。
『クッションになれ!』
俺はその言葉に反応して、体が勝手に動いた……。
そうして少女は助かった。
「……でもあんたは、死んじまった」
声が震えた。
おじさんは静かに頷いた。
「そうだな」
「後悔はないのかよ……」
「ないな。もしかしたら、あのまま事故が起きてもあの子は死ななかったかもしれない。でもな、あそこで諦めたら俺は一生後悔するだろうよ」
おじさんの声は低く、芯が強かった。
「後悔?」
「ああ、もちろん死にたいとは思ったことはない。俺が死んだのは結果だ。動かなかったという決断をしたのなら、なぜあの時動かなかったと俺は一生後悔していただろうな。お前はどうだ」
その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
あぁ……思い出した。
俺がなんで子供を助けようとしたのか。
すっかり忘れていた。
一人の少女が助かった。
俺は死ぬけど、もう人生がほぼない俺とこれから人生の可能性が無限にある少女の命ならと思っていたけど。
おじさんと同じ決断を、俺もしていたのか。
「同じことを言うけど、俺は!」
俺は声をおじさんに向けて、声を荒げた。
彼は、静かに目を細め、俺のの方を見つめていた。
「聴くが、何に対しての恐怖だ」
「……僕は、人を殺す力がある。それをどんな相手でも実行するのが怖いんだよ。戦うことは出来る。魔物姿なら普通にできる。でも人間は……」
声が喉に詰まった。自分の手が、細く震えているのがわかった。
おじさんは低く、けれどはっきりと言った。
「人間も魔物や動物も、同じ命だろう?」
「だからって……」
「そう。だからなんだよ。覚悟が必要なんだ。お前はその時期に来たんだ」
「意味が分かんねえよ……」
おじさんは一瞬、息を整えるように間を置いた。
「聴くが、あんな人の尊厳を、人の権利を踏み潰すのが人だと思うのか?」
「……人でしょ」
「もし魔物が人より優しくて、思いやりのある奴がいたら、お前は魔物として殺すのか?」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。
そんな魔物がいるのか?
いるかもしれない。
現に、数人の人間が魔物に手を貸しているのも事実だ。
なら反対に、魔物の中にも平和に暮らしたいと思う者がいるのかもしれない……。
頭の中で、様々な思いが渦を巻いた。
おじさんは静かに、しかし重い声で続けた。
「もう一度聞く。姿が人だから、諦めるのか? それもいいだろうよ。お前の人生だからな」
「……おじさん」
「諦めるやつには、何も残るものは無い。その後何が起きても後悔はするな。お前は決断をして諦めるんだからな。その結果、お前はもちろん……お前が好いてる女まで犠牲になっても、泣き叫ぶな」
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
熱くて、重くて、逃げ場のない痛みだった。
俺は声を震わせながら、言葉を押し出した。
「だからって、あんたは、人の命を奪うのに抵抗が無くて、怖くはないのかよ!」
おじさんは静かに息を吐き、俺の目を見つめ返した。
その瞳には揺るがない芯の強さがあった。
「俺だって怖いさ。だが力を持ったのなら、何のためにその力を持ったのか、それを知り、その恐怖を受け入れないといけない。お前はその精神防御で過保護にされていたんだ。遅かれ早かれお前は決断しないといけなかった。今がその時期なんだよ」
その言葉が、胸の奥にずしりと響いた。
確かにその通りかもしれない。
今回たまたま起きたことだけど、この先も危険な旅を続けていく限り、同じようなことは起きるだろう。
魔物と人間が混在するこの世界で、綺麗事だけで生きていけるほど甘くない。
その為の戦う力はもう持っているのだから。
転生の時の特典もそうだ。
確かに冒険者と言われたけど、引退して安全な世界で生きる選択肢もあったのに、俺は力を求めたんだ。
おじさんは少し声を落として続けた。
「もしそれを乗り越えられないのなら、そのまま寝ているがいいさ。次に起きたらすべてが終わって、昔のような奴隷の日常生活が待っている」
その一言で、背筋が冷たく凍りついた。
あの最低な生活が待っている。
殴られ、尊厳を壊され続ける日がまた。
あの頃の自分を、もう一度味わうのか。
あの底なしの生き地獄に、再び落ちるのか。
俺は唇を強く噛みしめ、必死にその言葉を飲み込んだ。
頭の中で、激しい葛藤が渦を巻き、息をするのも苦しくなる。
俺は声を震わせながら、ゆっくりと息を吸った。
「これからもたくさんの苦しい事を、決断しないといけないことがあるだろう。自分で決断をして、結果は受け入れろ。pレの経験則だけどな、何も決断をしなくて行動しないよりは、ずっと後悔はしないさ。丈じゃないな……綾と言った方が良いか?」
その名前を呼ばれた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
「……一人前になるまで名前で呼ばないんじゃなかったのかよ」
おじさんは静かに微笑んだ。いつもの、少しだけからかうような、けれど温かい笑みだった。
「一人前になるんだろ? お前ならきっと乗り越えられるさ。好きな女を泣かせたままにはしないだろ。お前は俺の弟子なんだからな」
その言葉が、胸の奥に熱く染み込んだ。
喉の奥が熱くなって、視界が少しぼやける。
「……う、うん。初めてだな。弟子って言ってくれたの」
おじさんは軽く頷き、俺の目を見つめたまま続けた。
「どうする? お前に手を貸すのはこれで最後だ。どうする」
俺は一瞬、目を閉じた。
暗闇の中で、これまでの全てが走馬灯のように駆け巡る。
転生したこの世界で味わった楽しさ、充実感、死にそうになった事、この世界に来て知り合った人たち。
バカみたいに絡んでくるギルドのバカもか。
そしていつもフォローしてくれるエレナ。
ゆっくりと目を開け、俺ははっきりと言った。
「俺は……私は、前に進む道を選ぶ。俺が正しいと思う事をするよ。たとえ結果が最悪になっても、それを受け入れて前に進むよ」
おじさんは満足そうに、深く頷いた。
「あぁ、きっと彼女はどんな道を選んでも支えてくれるさ」
「……うん。心配して出て来てくれてありがとう。会えて嬉しかったよ。たとえ幻でもな」
「いい女になれよ。そして行ってこい。全てをぶち壊してこい」
その言葉が、胸の奥に熱く響いた。
俺は一瞬、息を詰め、震える声で答える。
「あぁ……どれだけ俺の手が血塗られようと、進むよ。でも私にも、あなたと同じように決断ができるかな……」
不安が喉に絡みつく。言葉の端々が、自分でも情けなく聞こえた。
おじさんは穏やかで、しかし揺るぎない笑みを浮かべてた。
こんな俺を信頼している素敵な笑顔だった。
「出来るさ。先ほども言っただろ。お前は俺の弟子だ。彼女が待っている。行って来い」
その一言で、胸のつかえが少しだけ取れた気がした。
俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……行ってきます」
おじさんの姿が、ゆっくりと揺れ始めた。
輪郭がぼやけ、薄くなり、目の前から溶けるように消えていく。
そして——
意識が、ゆっくりと現実へと回復した。
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