144.5話 ハンスの過去と森の中へ
本当に、一人で行かせて良かったのかしら……。
わたくしは、シビさんの後ろ姿が白い濃霧の中にゆっくりと溶けていくのを、じっと見つめながらそう思ってしまった。
彼女が作ってくれた野営地に、わたくしが張った見張りと防御の結界を重ねたのですもの。
ここは一応、安全なはず。
かと言って完全には安全ではないのを知っているからこそ、わたくしもここに残ったのですのに……なぜか不安が募るばかりで仕方ありませんわ。
胸の奥が重くざわつき、指先が微かに震えるのを見つめていた。
焚き火の炎が揺れるたび、影が不気味に踊り、霧の白さがますます濃く見えてくる。
ふと視線を横に移すと、イザベラさんたちが焚き火のそばでコーヒーを飲みながら、話し込んでいた。
「そういえば、ハンスはなぜあの人の言うことをいつも聞いてるのさ?」
「イザベラはあの人の表面しか知らないからさ」
「どういうことなの?」
彼女たちも今日は、徹夜するつもりなのかしら……。
リーニャさんが連れ去られ、シビさんもおあの中に行ったので寝れはしないのでしょう。
シビさん……どうか、無事でありますように。
「言葉通りだが」
「でも噂が先行してる人でしょ。闘技祭でトラブルがあったとして、上位ランカーに乗った強いだけの人だろ。態度はいつも偉そうだけどさ」
「あの人は一種のバケモンだよ」
その言葉が耳に刺さった瞬間、わたくしの身体がびくりと大きく跳ね上がるのが自分でもはっきりわかった。
心臓がどくんと強く鳴り、指先が急に冷たくなって強張り始めたのを自覚する。
ハンスさんは、慌てた様子で両手を大きく振りました。
「すまねえ、エレナさん。そういう意味じゃねえんだ。俺はあんたらに一度、大きな命を救われてるんだよ」
「まさか、ハンスさんは……?」
「そういうことだ、エレナさん。俺はこの国に帰国した時は、あんたらと同じ船に乗っていたんだよ。命の恩人でもあり、あの摩訶不思議な現象を解決した二人に、俺は完全に信頼してるんでさ」
「だが、その時は今のあの人じゃないんだろ。今のあの人は危なっかしすぎる」
イザベラさんの声は低く、重く、棘を隠しきれない鋭さだった。
わたくしは無意識に自分の腕を強く抱きしめ、ただ黙ってそのやり取りを見つめていた。
彼女はなぜ、こうもシビさんに厳しいのだろう……?。
胸の奥がざわつき、不安がゆっくりと広がっていく。
その言葉が終わらないうちに、ハンスさんが突然大声で笑いだしていた。
焚き火の炎がその笑い声に合わせて激しく揺れ、橙色の光が皆の顔を不規則に照らし出し、影を長く伸ばしている。
「何がおかしいのさ」
「いや、まったく同じようなことを船の中で聞いたからさ」
「どういうことなの?」
わたくしも全く同じことを思ってしまった。
「鈴の聖女は有名で信用できるかもしれないけど、ちょっとは強いかもしれないが、あんな小娘になんで俺達がこき使われないといけないんだ」とか。
「あんな危なっかしい行動をするやつの言いなりに何でなってるんだキャプテン」など、色々な苦情を聞いたよ。 「一日経つごとに不満も爆発して、プチパニックも起きていたぐらいだ」
まさかハンスさんがあの船に乗っていたなんて、びっくりしました。
あの事件を越えてから、シビさんは前よりも自分を後回しにするようになって……それが余計に不安を積もらせます。
「それでもどんどん幻覚は見えてくるわ。海に飛び込もうとする者。欲望に走ろうとする者。発狂する者も沢山出た航海だった」
ハンスさんはあの事件を思い出すのが嫌なのか、冷や汗を浮かべながら語ってくれていた。
「それでも数日後にあの人は解決して帰ってきたんだ。総勢200名を突入して全滅した島を、エレナさんと二人で突破したんだぜ」
「それはエレナさんの力が大きかったんじゃないの? 不浄な者や怪奇っぽいのは僧侶の力が強いと聞いたことがあるよ」
「見てねえからそう思うのも仕方ねえわな」
「いいえ、あの事件の大筋を解いたのはシビさんの力があってのことですわ。わたくしはあの島に飲まれてしまいそうでしたから」
「別に力を疑ってるわけじゃないんだよ。何でも全部自分で動こうとしてるのが気に入らないの。不調なんだから、人って言うのは不調になれば判断ミスもするんだよ」
イザベラさんは、シビさんのことを心配しているのはすごくわかる。
「エレナさんもあの人の手綱きちんとつかまないとダメだよ。恋人だったら」
「ふぇ?」
どういうことなんですの? 恋人……?
わたくしは思わず目を丸くして聞き返してしまいました。
頬が熱くなり、心臓が少し速く鳴るのを感じはじめた。
「違うのかい? 二人を見ているとそんな感じに見えたからさ」
「違いますよ。それにわたくしたちは、同性ですよ」
「だからシビさんは、あんなに男っぽい仕草なんじゃないのかい? 男以上に見せてあんたを護る的な」
「大丈夫ですわ。シビさんは盗賊の技能もお持ちですので」
「だから、それが変な話なんでしょ。別職業の技能がなんで使えるの?」
わたくしは少し困ったように微笑み、冷たい夜風が首元を通り抜けるのを感じながら答えた
「そこらへんはわたくしもわかりませんわ。出会った時からもういろいろできておりましたので」
イザベラさんはふっと息を吐き、ゆっくりと視線を濃霧に包まれた森の奥へと移しました。
焚き火の炎が彼女の横顔を橙色に照らし、眉間に深いしわが刻まれ、瞳にはからかいとは違う本気の心配の色が浮かんでいた。
夜風が焚き火の煙を揺らし、冷たい空気がわたくしの首筋を撫でていった。
「二人とも安全に帰ってきてほしいね」
「大丈夫ですわ。シビさんは盗賊の技能もお持ちですので」
「だから、それが変な話なんだよ。別職業の技能がなんで使えるの?」
「まぁ変な人ではあるよな」
ハンスさんは、濃霧に包まれた森の暗闇をじっと見つめながら、ぼそりと呟いた。
焚き火の炎が彼の顔を赤く照らし、鋭い影を長く地面に伸ばしている。
「エレナさん、少し警戒してくれ」
「どうなさったんですか?」
「シビさんほどじゃねえが、御者をやってると夜目にも強くてな……あそこから人が出てくるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋にぴりっと緊張が走った。
慌てて錫杖を握り直し、両手でしっかりと構える。
胸の鼓動が少し速くなったのを感じながら、深く息を吸って集中した。
焚き火の周りにいた全員の視線が、一斉に霧の奥へと集中する。空気が一気に張りつめた。
皆の視線が一斉に霧の奥へと集中する。
白い濃霧の中から、ゆっくりとぼんやりとした人影が浮かび上がってきた。
一瞬、シビさんかと思って胸が大きく跳ね上がった――しかし、違った。
そこに現れたのは、リーニャさんだった。
彼女の服はところどころ大きく裂け、泥と枯れ葉を大量にこびりつかせてボロボロになっている。
肩で荒く息をしており、足取りもかなりふらついているのがはっきりわかった。
茶色の長い髪が泥で汚れ、顔色も青白い。
でも……シビさんの姿は、どこにも見当たらない。
リーニャさんが防御壁をくぐって中に入ってきた瞬間、イザベラさんが素早く駆け寄り、彼女に強く抱きついた。
「リーニャ! 無事でよかった……!」
イザベラさんの声が、安堵と心配でかすかに震えていた。
「リーニャさん。シビさんは?」
わたくしは思わず身を乗り出して聞いた。
「そうです。ピンチなので、エレナさんもついてきてくれませんか?」
リーニャさんの声は少し震えていて、顔色もあまり良くない。
わたくしは眉を寄せた。
「危険ですわ。わたくし一人で」
「無理なんです。ここは、入ったら迷うという森みたいで……知らずに入ると出てこられないらしいのです」
「でもリーニャさんは」
「はい。私は幸い、捕まった時から道順を覚えていたので。シビさんが助けてくれたのですが、戻り方がわかるなら戻れと言われて……」
リーニャさんは必死に訴えるような目でわたくしを見つめている。
その瞳には、はっきりとした焦りと罪悪感のようなものが混じっていた。
「わかりましたわ。案内してもらえますか? そしてわたくしからは絶対に離れないでください。お二人はここでお待ちになっていただいて構いませんか?」
「一応私たちは自衛ぐらいはできるから、行っておいで」
「もし危険だと感じたら、ここから北に二日ほど進んだ場所に村がある。そこで待ち合わせいたしましょうぜ」
ハンスさんとイザベラさんは真剣な顔で頷いた。焚き火の炎が二人の表情を不安げに照らしている。
わたくしはすぐに荷物をまとめ、リーニャさんと固く手を繋いで濃霧の奥へと足を踏み入れた。
リーニャさんは迷うことなく、まるでこの森を何度も歩いたことがあるかのようにスムーズに進んでいく。
白い霧が視界を埋め尽くし、木々の輪郭すらぼやける中、彼女の足取りだけが確かだった。
わたくしには何を目印にしているのか全くわからなかった。
ただ冷たい霧が肌にまとわりつき、息をするたびに肺が湿るのを感じるばかりだ。
「ここらですね」
何がここらなのでしょうか?
急に彼女がしゃがみ込んだので、不審に思い、わたくしも同じようにしゃがみ込んで聞いてみようと思った。
「リーニャさん。どうかいたしたのですか?」
なんで?
そう思った瞬間、リーニャさんの手が私の顔に優しく添えられ、ハンカチで口と鼻をそっと、だけど隙間なく覆われた。
甘い柑橘系の匂いがしたと思った直後、頭が急激にくらくらとしてきた。
「エレナさん……ごめんなさい。こうするしかなかったの」
彼女の懺悔の声を聴いた瞬間、わたくしの身体から完全に力が抜けた。
抗うこともできず、引きずり込まれるように深い意識の底へと落ちていった。
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